ベランダに出て私は生ぬるい空気を吸った。細い月が出ている。同居人はまだ帰ってこない。

『ほんなら一緒住む?』
『は?』

 突拍子もない提案からもう何年が経っただろう、と思った。私は、長いこと続いている彼の‘賭け’について、空を見上げて考えていた。




月を食べる人




 当時の私は進退窮まっていたのだと思う。大学が決まって、それで進退が窮まるなんて、贅沢にも程があるけれど。
 私は‘私’の進むべき方向、というものを完全に見失っていた。無条件に繋がれるものを失った、と言うべきか。
 高校三年生になって、最後の大会が終わって、受験生になって、みんなバラバラの進路を選んだら、私たち……少なくとも私は、無条件に繋がれるものを失ってしまったように感じていた。無条件に繋がれるもの、というのは、多分バスケットボールだったと思う。そこに学校とか、部活とか、学年とか、様々なものが加味された、総合的な繋がりは、総合的であるにもかかわらず、私に「誠凛バスケ部」、というひどく大きくて、それでいて無条件な繋がりをもたらしていた。
 悩む必要がなかった。関係性に思い悩む必要がなかった。だから、私はその繋がりを持たない私、というものに直面するのがどこか怖かったのだと思う。
 これからも変わらない保証なんてないじゃない、と思った。
 そうしたら、その無条件な繋がりが、無条件であるがゆえに不確かであることを知った。
 私がそこで思い出したのは、何故かその時より半年ほど前に、本当に久しぶりに出会った男のことだった。その後も遭ったけれど(会うというより遭う、だ)、一緒に戦ってきたみんなとの関係に思い悩む時思い出すのは、その初夏の日のことだった。
 初夏。
 私たちの関係は、初夏にいろいろなことが起こる気がした。
 その年の梅雨は空梅雨だった。空梅雨の合間に、本当に久しぶりに出会った彼―――今吉翔一の爪は伸びていた。公園の遊具の一角にあったバスケットのゴールは、爪の伸びた彼が振り返り様に放ったボールをリングで弾いた。


『落ちた』


 彼は淡々とした口調で言って、私と共にそこを後にした。
 衝撃、だった。それはある種の衝撃だった。
 バスケットを辞める、という選択肢が、私たちにはいつも与えられているのだ、ということを、どうしてか私はその空梅雨の日射しに悟った。
 それは、選択肢だった。強制ではない。続けることだってできたはずだ、と、私は爪が伸びているのを知って、最初彼をなじるような気持ちになった。そんな気持ちになれた。続けることだって出来た、となじることが出来た。それが自分の身にも降り懸かることだとどこかで知っていたのに。

(知ってたから、かな)

 私はそこでふと思う。その思考に辿りつけたのは最近のことだった。
 知っていたから、彼は私に会おうとしなかったのではないだろうか、と。
 バスケにしろ、他のどんなスポーツにしろ、一度離れてしまった視点で現役の頃を見るのは多分ひどく難しい。それは想像以上の痛みを伴う物だと知った。
 だからこそ、渦中にいる私と接してしまえば何か変わってしまうと思ったのではないか、と思った。渦中。火中とも言える気がした。

『どこか遠くに行きましょう』

 私はどこかぼんやりと、全てが終わってから彼に言った。今吉さんは静かに笑うだけだった。


***


「ほんなら一緒住む?」

 言葉はごく自然に掛けられた。賭け、と彼は言った。

「賭けの続きや。「好きになったりしない」やろ?」

 好きになったりしない、というのは、私の中の大事な便だった。彼を好きになってしまったら、全部変わってしまう気がしたから。
 だったら私はその賭けに乗らなければならなかった。好きになったりしない、という、一緒に住むことには意味を成さない不確定で不明瞭な要素のために、だけれど私は彼と一緒に住むことを選択した。
 選択だった。退けることが出来たのに。

「我儘なのね」

 私は空に向かってつぶやいた。本当は違う。本当は、好きになったりしない賭けのためなんかじゃない。
 誰かに分かってほしかった。それだけだった。一緒に戦ってきたみんなは、誰も私を責めなかった。私にだって、バスケットを辞めると言う人を詰ったり、責めたりすることが出来ない様に。だから、私は傍にいるのが辛かった。どうして、という言葉が空転するから。
 その‘どうして’という叫び声を、誰かに分かってほしかった。空転する思いを受け止めたのは、腹立たしいことに今吉という男だった。受け止めた、というよりも、受け流した、というべきか。
 彼なら、と思った。彼なら、私をどこか遠くに連れて行ってくれるのではないかと。


 何のしがらみも、制約も、誓約もない場所へ。


 それこそ我儘だった。どうしようもない我儘だった。
 それなのに私は、誰かが傍にいてくれなければ立っていられなかった。

「どうしようも、ないわ」

 ベランダの柵を握る手が、小刻みに震えた。寒くもないし、泣いてもいないのに、それは私の不安を表しているようだった。

「だって、どこに行けば正解だったの」

 どの道に進んだら正解だったの、と私は今でも思う。
 大学に行って、社会人になって、書類を部屋まで持ち帰って。
 それが悪いんじゃない。そこまですれば、全部忘れられると思っていた。寂しい気持ちも、辛い気持も、全部。でも、一つ一つは相変わらず私と共に在った。違うのは一つだけだった。

「嘘じゃない、何もかも」

 私は本当にそう思ったからそう空の月に向かって言った。


 私のことが好きだなんて。
 私と一緒にいたいなんて。
 ずっと好きだったなんて。


 全部、嘘じゃない。


 私を捨てていった男も、私の捨てたバスケットも、何もかもが私の一部だった。間違いなくそれは私の中に在った。私を縛り付けるとしても、それは私の一部だった。
 だけれど、今吉翔一という男だけは違っていた。私を縛り付けるのに、私の中にない人だった。そうしてだけれど、それは私のせいなのだと知っている。私は、私の中に彼を入れることをずっと拒んでいる。
 それは、好きになってしまったら、というのと同義だった。彼を内側に入れてしまったら、私は私の全てを認めなければならない気がした。
 バスケットも失恋も、何もかも。
 だけれど、何もかもが彼と一緒にいると起こらない。私たちの関係はひどく凪いでいて、私はたまにそれが怖くなった。本当に我儘だと知っているのに。
 それなのに私は、普段は凪いでいるそれを願う。怖いことも、辛いことも、何も起こらない関係なんて、そんな微温湯みたいなところに未来はないのに、私は彼にそれを求める。求めて、求めて、それが嘘だと知っていて、偽善だと知っていて、だから、責めてほしいと思う。そう思うのに、彼は何時だって優しかった。


「詰って」


 言葉が落ちる。


「恨んで」


 貴方を縛り付けたことを。


「怒って」


 貴方に何も返せないことを。


「突き放して」


 もう、どこにも行けないほどに。


 貴方は私のヒーローじゃなかった。


 ヒーローなんかじゃなかった。
 危機を救ってくれるのは、ヒーローなんかじゃなくて、同じ目線の貴方だった。だったら知ってる。同じ目線の、同じ時を過ごすなら、この空間も時間も、貴方には辛すぎると知っている。

「だって、私には辛すぎるもの」

 言葉は、無機質に落ちた。泣き出しそうなのに、泣けない。私は何時から泣けなくなってしまったんだろう、とひどくぼんやりと思った。


***


「だーれだ」

 落とした言葉を拾う様に、お酒の匂いがして、それから視界を遮られる。タイミングのいい男は、嫌いだ。

「お帰りなさい」
「ただいま」

 ふっと私の目許から手をはなした男は、間違いなく私が今考えていた今吉翔一という男で、そうして彼は、私に後ろから抱きついていた。
 彼がそういったスキンシップをするのは、酔っている時だけのことだった。だから私は、彼が酔っていることを望む時がある。彼の体温を感じれば、そこが、それが現実だと思うことが出来るような気がしたから。

「ねえ」
「んー?」
「終わりにしたいわ」

 口を衝いて出た言葉に、私は思わず口を塞いだ。終わり、などというものを考えたことがなかったからだった。終わりを口にする自分というものが信じられなかった。終わりとはなんだろう。どこまで行けば私は納得するのか、私にも彼にも分らないのに。

「綺麗な空やなあ」

 私が、その言葉をなかったことにするようにしたのを察知したように、彼はそれを綺麗にキャンセルして、星の散った空を見上げた。私もつられた様に空を見上げる。空には、相変わらず細い月があるかと思ったのに、もう月はどこになかった。
 そんなふうに簡単に、時間が、空間が、私たちを失わせるような気がした。終わりにしたいのは、この関係じゃない。私の我儘を終わりにしたかった。だけれど、私の我儘を終わりにするということは、この関係を終わりにすることと全然変わりがないように思われた。……だからその言葉を取り消そうとしたのだと思ったら、ひどく滑稽だった。


(終わりにしたい)


 ごめんなさい、というその一言が、だけれど喉許に引っ掛かって、私は彼に身を預けた。
 多分、彼は私を甘やかす様に、あやす様に、一緒に眠ってくれるだろう。
 今日はなんの話をするだろう、と私はぼんやり思った。
 その話を聞かなければ、私が眠れないことを知っている彼が、ひどく愛おしくて、ひどく疎ましかった。


「ヒーローなんかじゃないわ」


 だから、


 詰って。
 怒って。
 責めて。
 突き放して。


 それ全部が、私のためのものだなんて言わないで――――




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私は貴方が―――