奈落にだって、底はある。


奈落の底


 カチカチカチとシャーペンの芯を繰り出して、私は何とはなしに窓の外を見た。春の初め。全部終わった、春の初め。
 大学進学に、私は結局バスケットを使わなかった。使えなかった、とも言える。推薦のない大学だった。あと数年したら推薦の枠ができるらしいけれど、そんなのは現在進行形の受験生には全く関係のないことだった。現在進行形は、だけれど過去進行形になった。
 学校の図書室はガランとしていた。春休み。在校生の姿はない。三月最終日までは私も在校生だけれど、卒業式はとっくの昔に終わっている。わざわざ学校に来る謂れもないのに、私はなぜか誰もいない、規則として開いているだけの学校の図書室にいた。

「ばっかみたい」

 司書室からずっと離れた席で、私は小声で悪態をついた。馬鹿みたい。体育館に行く勇気がなかったから、図書室に来た自分の馬鹿らしさが可笑しかった。

 何が馬鹿みたいかって、私が。

 自分で決めたことだったけれど、バスケットから離れると自分の立ち位置というものに惑う。大学進学という区切りで、私たちはバラバラになった。バラバラになる、と、頭の中では分かっていたのに、最後のウィンターカップまで戦って、それで初めて私はそれを実感した。そうだ、と。私はバスケットを使わずに進学するんだ、と。
 奈落に近い感じがした。舞台の通路の底の方。奈落にだって底はあって、私はその暗い道を延々と走っている、そんな気がした。
 私は今まで、ずっと‘誰かが’バスケットを‘辞める’体験や想像をしてきたけれど、それが実際自分になると、それはなんだか華々しくも、寒々しくもない、黙々とした作業に近かった。もともと裏方だったからかもしれない。確かに彼らとはコートという同じ舞台で戦ってきた。だけれど、プレイヤーと私には大きな隔たりがあるように思えた。だからこそ、私はバスケ部での成績を推薦という形で昇華しなかったのだから。
 花道を歩くことも、凋落を恐れることもない、自分が疎ましいのだ。
 私が知るだけで何人もの選手が花道を辿って進学し、何人もの選手が凋落の憂き目にあった。私はいつも、それを奈落の底から見ている。

「ねえ、」

 その底から、問い掛けるような言葉を探したけれど、不安定な問い掛けは続かなかった。何を訊けば、彼らは納得するのだろう。何を言えば、私は納得するのだろう。

「なあに」
「え?」

 だけれど、中途半端な問い掛けには、何故か返答があった。変な西の訛りの返答だった。そうしてそのまま視線を横にスライドさせたら、「合格おめでとう」という垂れ幕付きのキツネみたいなタヌキみたいなキツネのぬいぐるみがパクパク口を動かした。
 私は、ひどい既視感を感じながら、そのぬいぐるみの上の方を見る。

「あなたですか」
「驚かんのね」
「慣れました、もう」

 パクパクとパペットを操るのは、今吉さんだった。ひどい既視感だ。彼が初めて私のところに目的を持ってきたのは、この図書室だった。偵察でも何でもなく、飴玉と無遠慮な熱を持ってこられた1年と少し前。ちょうどここから新学期くらいまで、このふざけた男に付き纏われたのだった。だけれど彼は、インターハイということであっさりその日々の付き纏いを止めた。公私混同しないというか、結局バスケットボールのプレイヤーを辞められないのだと思ったら、なんだか可笑しかった。そうしてそれから、あれからもう1年以上が経ったのだ、ということが、私を変な気分にさせた。

「慣れか警戒心の薄れか」
「慣れですよ」

 私はサッと荷物をまとめる。帰らなきゃ。……彼との再会は、いくつかあったけれど、本当の意味では年明けだった。別に望んでいた訳でも何でもないけれど、突然現れた今吉さんと再会してしまった。私の‘バスケット’が終わったから、私たちは初めてしっかりと対峙出来たのだと思う。
 バスケットを捨てた彼と、バスケットを終えた私と。

「おお、付けてある」

 バッグに全部詰め込んで立ち上がったら、一緒になって彼も席を立つ。そうしてそれから、そのふざけたキツネの鼻先で私のバッグのキーホルダーの辺りをつついた。正確には、彼が年明けに押し付けた良縁成就のお守りをつついたのだった。

「お守りにも神社にも罪はないし、今吉さん以外の方と巡り合うためのお守りでしょう?」
「……前向きすぎて涙出るわ」

 入口の方に向かって歩きながら言ったら、当然のように着いてくる彼が残念そうに言った。

「で。そういう出会いはあったん?」

 校門のあたりで彼はパクパクともう一回キツネの口を動かした。今で喋らなかったのは迷いそうだったからみたいだ。どうでもいい場所までぐるぐる回ってやった甲斐があるというものだ。他校に意味もなく来た報いよ、と心の中でひとりごちる。

「ないですね」

 校門を出て右に行くか、左に行くか、その程度のことを話す様に私たちは言葉を交わした。

「そりゃよかった」
「ひどいわ」

 私は笑って右にそれた。家とは逆の方向だった。奈落の底に、どうして彼がいるのかしらと思った。思ってそれから、彼もバスケットを辞めたのだとふと思った。

「大学に行ったら、誰かいるかもしれない」

 私は呟くように言って、歩みを止めた。そんなこと、まるで思っていないくせに、大学に行ったらそういう出会いがあって、バスケットを忘れて、女子大生になるんだ、と、変な自信に似たものを振りかざしてみた。だけれどその想像は上手くいかなくて、バスケットを抜きにした自分というものを、私はもう長いこと失っていたのだと気が付いた。

「でも誰もいないかもしれへん」
「今吉さんはいなかったの?」
「ワシはわりと一途なタイプやから」

 いちず、と私は口の中で繰り返した。
 いちず。

「バスケット辞めたくせに」

 私は、ひどく無遠慮で、そうして、酷い言葉を吐いた。彼は笑って受け止めてくれた。言えないのだ、どうしても。どうして辞めるの、辞めないで。そんなたった一言が出てこない。だけれど、私自身がバスケットを辞めて、そうして、奈落の底で次の舞台のためにパタパタ走る彼と私だから、その一言が言えたのかもしれなかった。

「ほうやなあ」

 彼は面白そうにパクパクとキツネを動かした。仕舞えばいいのに、なんて、どうでもいい無責任なことを思った。

「一途に成れへん時もあるのよ、実際」
「……そうね」

 私は、住宅街のブロック塀にとんと背を預けた。

「ダメな時ってあるのね」
「そ。気合とかそういうもんじゃどうにもならへん時な」

 塀に背を預けた私の眼前に、彼にそっくりなタヌキみたいなキツネが迫ってそう言った。気合ではどうしようもない時。

「リセットするのに時間がかかるの。思ったより」

 私は、案外この人にはするっとしゃべってしまう。前からそうだった気もするし、バスケットを辞めてからかもしれないけれど、なんだかよく分からない。彼と関わって、そんなに長い時間が経ったように思えないからかもしれなかった。

「ねえ、」

 私は、図書室でやったようにもう一度、不確定な意味のない問い掛けをした。

「なあに」

 その不確定な問に、だけれど彼は応えるのだ。そのことが、妙にこそばゆかった。
 こそばゆくて、そうして、どうしてか浮足立つものがあった。何もかも終わってしまうような予感と、何もかもが始まる予感が同時にするように。奈落の底に、ふと光が差し込むように。

「どこに行きます?」

 どこにも行けないのを知っているのに、私は‘どこに行くか’と、彼に訊いた。


 どこに行こうかしら。
 何ができるかしら。
 誰がいるかしら。


 奈落の底に落っこちて、初めて私は息をした。


「遠く」

 彼は可笑しげに笑って言った。
 とおく。

「いいわね」

 私たちは笑った。

「どこか遠くに行きましょう」

 奈落の底で、静かに笑った。




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左様なら
若しくは
今日は

2013/11/06