聖者行進


『生殺し』

 訳の分からない一行メールの書かれた画面を、諏佐は今吉に示した。

「何の用だ」
「諏佐くん、返信せずに画面見せるて、ほんまに現代人なん?」

 しかも送信した奴に!と力強く言って、彼はコーヒーショップのチープなプラスチックのカップにずいっとストローを刺した。真冬なのにアイス。風情がないな、と諏佐は思う。対する彼はブラックだった。もちろんホットの。
 何の用、なんて言ったけれど、それが送信されたのは2時間は前の話で、今日、二人が夕方に会うことは約束済みだったから、諏佐はその意味不明な文面を放置した。年始、大学が始まる直前、最後の日曜日。先にメールをしたのは今吉だ。年末に戻った地元の土産を渡すつもりだった。大学でも高校の頃から変わらぬ同窓生となった諏佐とは、もはや腐れ縁である。

「まあ、いいけど」

 ここに入る直前に、彼は「コーヒー飽きた」と言っていたから。多分、どこかで飲んでいたのだろう。そうでなければ、こんなに甘そうな、しかもアイスの飲み物を、彼が飲むとは思えなかった。
 いいけど、という一言を、今吉は自分の話を聞いてくれる肯定と取ったらしい。彼は大仰に眉をしかめた。

「相田さんにお土産買ってん」
「……渡したのか?ストーカ「ちゃうねん」
「今日は相田さん図書館におるって八卦が…」
「八卦とか言うなよ。余計ダメだろ、それ」

 諏佐の一言を思いっきり遮って、今吉は意味不明なことを言った。八卦。自家製情報か桃井情報か勘か。どれだとしても、それを八卦などと言うと余計怪しくなるから気をつけろ、と視線に滲ませておいた。

「やっと終わったやん」
「……何が?」

 分かっていながら、その言葉を彼自身から言わせようとする諏佐は、案外残酷かも知れない。案外残酷で、案外優しい男だ、と今吉はぼんやり思った。

「相田さんの、バスケット」

 彼は、緩く笑った。それ以外に、どんな表情をすればいいのか、皆目見当もつかなかった。




***


「なんでいるのよ……」

 リコは、中座して戻ってきた机の向かい側で、えへらと笑う男をねめつけた。




 年末年始は、さすがの図書館も休みで、そうしてそれはリコの家に併設されているジムだって同じことだった。逆を言えば、年末年始が過ぎれば営業が始まる。営業が始まれば人が来る。いくら母屋と離れているからといって、気になるものは気になるから、リコは人を避けるように、これまた年末年始休みを過ぎて開館された図書館にいた。
 年始ということもあって、人は疎らだった。それも計算済みだ。人、というか、そういういろいろなことに過敏に左右される感覚を、リコは静かに噛み締めていた。「受験」の二文字が頭を過る。

「推薦、断らなきゃよかったかなー」

 そうして彼女は、思ってもいないことを呟く。夏から秋にかけて舞い込んだ推薦の数は、周りの生徒よりも多かった。実際、バスケット部の何人かも推薦を受けて、冬前に進学先を決めていたが、リコは全て断っていた。
 名将相田リコに対する推挙は、断らざるを得ないものだった。確かに、高校生監督で全国の強豪どころか頂点まで誠凛バスケ部を押し上げたのはリコの采配によるところも大きい。だが、その采配は、評価されても求められるものではなかった。推薦での入学を求める大学に、では、私を入れてどうするのですか、と問えば、答えは芳しくないだろうとリコは内心思っていた。招き入れようという大学には指導者がいて、プレイヤーがいる。だから推薦の話は単に、‘評価’されただけだろうと、思う。リコはプレイヤーではない。共に闘った選手たちの勝利を、受験の足しにするのは憚られた。
 プレイヤーではないリコにとって、バスケットはこの先すべてを支配するものではなかった。支配するもの、というか、支配できるものではなかった。辞める、という単純な選択肢は、彼女の前にいつもぶら下がっていた。指導者になる、という選択肢を捨てた訳ではなかったけれど、彼女は推薦を断って受験を択んだ。

「やあね」

 ぽつんと言って、リコは立ち上がる。妙に思考が冴えてしまって、お茶を買って休憩しようと思ったのだった。勉強なんて、思考が冴えている時にするものじゃない。夏休みなら席取りに煩い図書館も、今日のような人出のない年始には許してくれるだろう。そんなことを思いながら、貴重品を入れたポーチだけ持って、勉強道具を置きっ放しにしてリコは席を立った。




「なんでいるのよ……」

 そして、冒頭に立ち戻る。リコは、幻影であることを祈って眉間を押さえて、数秒目を閉じた。じっと眉間を押さえて、ゆっくり目を開く。ひらひら手を振られた。幻影ではないそれに、リコは今度こそ頭の痛みを覚えて眉間を押さえた。

「ひっさしぶりー」

 明るく軽く、男は言う。男―――今吉翔一は、相変わらず憎たらしいほどの笑顔を湛えていた。


***


「約半年ぶりの再会を蹴り飛ばす相田さんが好き」
「マゾヒスト」
「ひどっ!」

 リコは早々に勉強道具をサブバッグに仕舞う。彼を前にして勉強はしかねる、とでも言うように。

「帰るん?」
「だって、今吉さんいるもの」
「ひどい……」

 今度こそ本気で傷ついた顔をされて、困っているのはこっちよ、とリコは心中叫んでおいた。

「ファミレスでも行かん?」
「私、受験生なの。分かります?ジュケン」
「知っとるよ」

 馬鹿にした風情で言ったら、至極真面目な顔をされた。リコは、彼に真面目な顔をされると、何と応えていいのか分らなくなる。真面目な顔の彼は、いつだって彼女の予想を裏切って、そうして、一番軟らかな部分に触れるから。


「お疲れ様」


 静かに彼は言った。そのありふれた一言がリコの脳内でリフレインする。バスケットボールをもう持つことがない彼が、フリースローのラインから放るように正確に、言葉を択んだように思えた。
 脳の中いっぱいに響く一言に、彼女は泣き出したくなった。終わったのだ。すべて。


 お疲れ様。お疲れさま。おつかれさま。


「疲れてなんか、いないわ」

 リコは小さく反駁した。ひどく頼りがない声だった。


***


 結局二人は近くのファミリーレストランにいた。肩を叩かれない店を今吉が選んで、リコは英語の長文問題に取りかかっている。今吉は、それを眺めながらドリンクバーの薄っぺらいコーヒーを飲んでいた。『せめて勉強教えてくださいよ』と言われた末のことだった。

「教えることないやん」

 今吉は淡々と問題を解くリコに声を掛けた。そうしたら、リコは小さく視線を上げる。

「そうね」

 本当は、バスケットのことを訊きたかったような気がした。勉強ではなくて。どんなプレイが得意なの、とか、苦手な練習は、とか、目標は、とか。だけれど、彼女はその共通項を失ってしまった。もっとも、彼はもうずいぶん前にそれを捨てているから、共通項ですらないのかもしれなかったけれど。

「私、今なら分かる気がするんです」

 リコは、英文の列から本格的に視線を上げて、今吉と静かに視線を合わせた。

「あなたがどんな気持ちでバスケットを辞めたか」
「ほうか」

 応える声も静かだった。そう応えてから、今吉は静かにその視線に応じる。応じて、そうして言った。

「辞めることないやん、別に」

 彼は、肯定しておきながら全く逆のことを言った。

「ワシと違うて、相田さんはプレイヤーやない。肉体的にも技術的にも制約はあらへん。そら、評価だけで大学に入るんは気が引けるやろ。けどな、捨てることはあらへんし、相田さんは失っとらん」

 何も。と彼は静かに続けた。
 呆然とするリコに、今吉は今度こそへらりと笑った。

「逆転の発想、っちゅうやつやな」
「なんで…そういうこと、分かっちゃうん、ですか…」

 今度こそ、本当に泣きそうだと彼女は思う。お疲れ様、と言われた時と同じ類の、だけれどずっと大きな気持ちの振れ幅だった。


『相田の好きにしたらいいよ』


 何か言いたげな周りを制するように言ったのは、伊月だった。彼らが引退すると同時に監督業を降りたリコのことを、彼は昔の通り‘相田’と呼んだ。それは、カントクという呼び名でちゃんと引かれていた線をちょっとだけ超えた。カントクと呼ばれた女子高生はもうどこにもいないのだ、ということを示すように。
 秋口に最後の推薦を断った時点で、彼らには自分の意思を示したつもりだった。それはきちんと伝わっていて
、だから、『好きにしたらいい』という言葉はひどく優しかった。選択の余地もないほど走り抜けてきた自分たちにとって、それは新たな門出だった。引退した三年生全員で初詣に行った時の、彼らの顔が、なんだか遠かった。


「誰も怒らんやろ。続けても、辞めても」

 ぽたっと滴が落ちて、ノートをふやかした。気が付いたら、リコの頬を滴が伝っていた。彼が優しいからじゃない。彼らが優しいからだった。
  『好きにしたらいい』というそれを、誰も否定しなかった。リコを監督にしたのは彼らだ。彼らと闘ってきた。リコが監督であり、プレイヤーではなく、だけれどコートを戦場にする戦友であることを彼ら以上に知っている者などいない。そのリコに、誰も何も押し付けなかった。本当は押し付けたかったはずだ。


 またやろう。辞めるな。見ていてくれ。


 彼らが呑み込んだ言葉を、リコは知らない振りをした。自惚れではない。知っていた。共に闘ってきた彼らと共有する‘バスケット’を捨てないで欲しいと、彼らがきっと言うだろうことを。だけれど、彼らは言わなかった。未来まで約束できないリコを知っていた。
  遠くなんかない。彼らはすぐそこにいる。遠ざかったとしたら、それは多分自分の方だ、と彼女の中の飼い馴らせない感情がぐるぐる回った。どうしたらいいか分らないのだ。選手と同じ目線で語れない自分が悔しかった。だけれど、それはそれだけのことだった。

「……私、傷つけたわ、みんなのこと」

 リコは手の甲で頬を拭った。今吉は手を伸ばし掛けて止める。その涙は、リコが自分で拭くべきだった。

「そんなことあらへん」

 代わりにはっきり言ったら、リコは視線の先で小さく笑った。涙はまだ止まらない。

「誰も傷ついた訳やないと思う。ただ、相田さんがちょっと遠くに行ってもうたみたいで辛かっただけ」

 何であなたが代弁するのよ、とは言えなかった。遠くに行ってしまった‘みたい’なリコと、遠くに‘行ってしまった’彼と。そう思ったらリコは、やっぱり私はまだ遠くになんて行ってはいないのね、と確信した。

「日向くんにみんな集めさせて」
「うん」
「伊月くんに馬鹿なこと言わないでって言って」
「ああ」
「鉄平にも、小金井くんにも、水戸部くんにも、土田くんにも、みんな」

 みんな、の先が出てこなかった。その先を知るのは、多分、共に歩んできた彼らの特権なのだろう。


「行ってらっしゃい」

 今吉はふざけたように言った。その涙を拭った手に、小さな紙の包みを持たせる。彼女は笑って立ち上がった。

「ここは奢るよって」
「当たり前でしょ」
「ひどっ!」


 リコは、今度こそ泣き已んで、微笑んだ。




***


「泣いとる相田さんに手を出さんかったワシを笑うとええよ…」
「いや、賞賛に値するな。このストー「でも」
「ちゃんとお土産渡したしぃー」
「遮るな語尾を伸ばすな気持ち悪い。で、何を渡したんだ」
「え?うちの地元の恋愛成就のお守り!」
「いっぺん三途の川渡っとけ!」




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君に花丸をあげよう
大変よく頑張りました

2013/09/18