島国文学論
「監督」
「な…なんだ?」
全開の笑顔で言われて、陽泉高校バスケットボール部監督、荒木雅子は、ちょっと口許を引きつらせて自分の教え子にして、バスケ部二枚エースの一角、氷室辰也と対峙した。
(イケメン爆発しろ…!)
荒木は不覚にもそう思う。顔が整っているというのはどうにも恐ろしいものだ。ただ笑っているだけでもどうしようもないオーラがある、そんなことを教え子に感じてしまうあたりが、少々悔しかった。
「なんだ?」
だが、にこにこ笑っているだけならいつも通りなので、監督の顔で荒木が言ったら、氷室はやっぱりにこにこと、小さな包みを差し出した。
「ん?」
「Happy Valentine !」
「はあ!?」
笑顔とともに綺麗な発音で言って包みを渡そうとする氷室に、荒木はやっぱり顔を引きつらせた。 そして、その一言と行動に、バタンと派手な音を立てて二枚エースのもう一角が、自主練で使っていたボールを取り落とした。
「ちょ…ちょっと室ちん、何言ってるか分んないよ…どうしたの、狂っちゃったの?今日バレンタインだよ?いや、室ちん『バレンタイン』って言ったけどさ?あれ?女の子からもらえなすぎておかしくなっちゃった感じ?いいよ、そういうのは!だからって痛々しいからそういうのはやめようよ!ちょっとまさ子ちん!ボーっとしてないで室ちんに何かあげて!室ちん可哀想だよ!」
「ばっ、馬鹿者!氷室に限って一個もらえないなんてことがあるか!?い、いや、でも…あ、ああ、大丈夫だぞ氷室!?ちゃんと用意してある!私も一応女だからな!?いや、あれだぞ、教師と生徒以上の感情はないからな!?あれだ、友チョコみたいなもんだ!」
「何言ってるんですか、監督?これは監督の分ですよ?岡村先輩と福井先輩にはもう渡したんです。ほら、二人は部活に来ないから、先に」
「え?」
「は?」
岡村と福井という名前にフリーズした二人に、氷室はやっとその食い違いに思い至ったようにぽかんと首をかしげた。
「ああ、そういえば、福井先輩が言ってましたね。日本では女の子から好きな人に渡すのが普通だとか」
「え…う、うん」
「アメリカでは、男女関係なく、お世話になった人に渡すものなんだ」
笑顔でそう言って、綺麗な包みを手に持たされたので、荒木はもう一度イケメン爆発しろと心の中で思った。
「氷室、いいか」
「なんでしょう?」
「三十路手前の女を捕まえて、玩ぶもんじゃない」
至極真面目な顔で荒木が言ったので、紫原はぽつんと言った。
「まさ子ちん、ごめん、それを自分で言われるとフォローできなくなる…」
「馬鹿者!お、お、男に物をもらうのなんて何年ぶりだと…!?」
「まあ、いいじゃないですか」
にこやかに言って、紫原や劉たち部員に包みを配り始めた氷室に、荒木は戦慄した。
(言えない…渡せない…!!!)
自分の用意したチョコレートが、まさか徳用袋のお買い得品だなんて、絶対言えない、絶対渡せない、と、彼女は思う。女子力で氷室に劣るなんて、絶対駄目だ。
「室ちんありがとー。心配しちゃったじゃん。ねー、まさ子ちん?」
振り返った紫原に、荒木はばっと持ってきたスーパーで使うエコバッグを隠した。
「そ、そそ、そうだね!」
「え…今度はまさ子ちん大丈夫?変だよ?」
「変などではない!なんでもない!そうだ!氷室、お前本命はないのか!?」
とにかく自分から話を逸らそうと、氷室に振ったら、氷室は虚を衝かれたような顔をしてから、困ったように笑った。
「氷室…?」
その様子の変化に、荒木がもう一度訊いたら、彼は静かに、それでもいつもと変わらないように、言った。
「いませんよ、そんなの」
その言葉が、自分で言うにもどうにも空しくて、彼は諦めたように、小さく笑った。
慌ただしい部活動を終えて寮に戻ったら、氷室は寮監督の教師に呼び止められた。
「なんでしょう?」
「海外から荷物がきてるぞ。アメリカの彼女か?」
「っ…!」
バレンタインだしな、と笑った教師に、彼は一瞬だけ表情を固めたが、すぐにいつも通りに微笑む。
「いませんよ、そんなの」
微笑みながら、先ほどと同じ、通り一遍の回答をして、その荷物を受け取る。
荷物の宛名である寮の住所と、己の名前の部分は、決して綺麗とは言えない漢字で書かれているのに、送り主の部分は流麗な筆致の筆記体で書かれた、ちぐはぐな伝票が少しだけ可笑しかった。その英語が読めることを前提にした伝票が、少しだけ可笑しくて、そうして、少しだけ寂しかった。
部屋に戻って、包みを開ける。
「こんなの食べられないって、何回言ったら分かるのかな」
苦笑とともに呟くように言ったそれは、大量のチョコレートだった。甘いチョコレートにこれでもかとナッツを入れたもの、チョコレートそれだけでも甘いうえにキャラメルのフレーバーを加えられたもの……
『タツヤもタイガも甘いものが大好きだからな!』
それは、そう言って、カラフルなアイスを買ってくれた彼女の考えそうなバレンタインの贈り物だった。
箱いっぱいの、ラッピングさえされていないチョコレートが甘い香りを放っていた。
それから彼は、箱の中に入ったメッセージカードを手に取る。メッセージカードには、伝票と同じく綺麗な英語が並んでいた。
いつも通りのバレンタインの贈り物とメッセージカードだ。日本に帰って、彼女から受け取るのは初めてのバレンタイン。弟との再戦を、彼女の前で果たして、それから―それからやってきたバレンタインだった。
だから、並ぶ言葉一つ一つが、弟を、弟子を、子供を慈しむ、いつも通りの彼女だったことが、棘が刺さるような思いで彼はそのカードを読んだ。
そうしてそれから、こんな英語が読めなければいいのに、と、訳もない八つ当たりめいたことを思う。英語なんて読めなくて、こんなカードが無意味だったらいいのに、と。だけれど、もし無意味だったら、今以上に惨めなのだろうな、と思ったら、妙にもどかしかった。
「ん?」
それでも律儀にカードを読んでいて、彼はそのメッセージカードの最後の方に目を留める。日本語だった。彼女の書く日本語は、大学で学んだといえどもそんなに綺麗ではない。意識しているわけではないだろうが、教科書によくある書体より少しだけ丸みを帯びたそれは、綺麗な筆記体の中に混じると、なんだか滑稽だった。
『そちらの月は、きれいですか
Alexandra Garcia』
丸みを帯びた一文のあとに、流麗な筆致の署名があって、氷室は泣き出しそうになった。
そうして、『月が綺麗だね』と言ったって、笑顔で『ああ、そうだな』と応えていたくせに、と、やっぱり八つ当たりめいた思考が頭を過って、それから彼はその署名に小さく息をついた。
「今までずっと‘Alex’だったくせに」
アメリカにいる時分から、彼女にもらったカードは一枚も欠かさず読んで、取っておいてあるが、手許にあるカードの署名は、全て愛称である‘アレックス’だったのを、彼は憶えている。だから、拙い日本語のあとのその署名を見て、彼はどうしようもない、哀しみにも、喜びにも、腹立ちにも、嬉しさにも似た、乱雑な感情を覚えた。
乱雑で、複雑で、だけれど至極シンプルな感情に任せて、彼は呟く。
「こんなの食べられないよ、アレックス」
こんなチョコレート、食べられない。
だって、甘すぎるから。
だって、苦すぎるから。
今宵の月が綺麗であることを、どうやったら彼女に伝えられるだろう、と思ってから、彼は小さく首を振って、チョコレートの包み紙を一つ破ってみた。
その茶色の端を噛んだら、それはやっぱり途轍もなく甘くて、途轍もなく苦かった。
「月は、一緒に見るから‘綺麗’なんだ」
だから彼は、小さく言った。
言葉は、一人の部屋に静かに落ちた。
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アレックスは分かっている。分かっているけれど、応えられない。応えたら、それそのものが裏切りになるから。
一番可哀想なのはイケメンにもてあそばれたまさこだけどね!
2013/2/1 ブログ掲載
2013/5/23