休日のその電車は、人でごった返していた。
 私は、その人混みに飽き飽きしていた。だけれどその中で一定の空間を作り出している彼を見上げた。雰囲気とか、そういうカッコイイことじゃない。ただ、人混みを避けるように、エナメルバッグと長躯で、私一人分の座席に邪魔が入らないように立っている彼が作り出した空間は、だけれどひどく不安定だった。


遠くに捨てゝ


「海に行きたい」

 と、ひどく理不尽な無理難題を突き付けたのは私だった。
 今吉さんの受験が終わって、彼は新生活に、私は新学期に備えなくてはならなくて、多分、当分の間会えなくなる、と彼は言った。別に、付き合っているわけでも何でもないので、その辺はどうだっていい、というようなことを言ったら、本気で拗ねられたので、私は無理難題を押しつけることにした。

「海、なあ」

 だというのに、彼はどこか何かを覚ったように応じた。





 今吉翔一という男には、電車がどうにも馴染まない。
 私はそう思ってぼんやりと彼を見上げた。いつだったか忘れたが、延々と回る電車に乗っていた時にも思った違和感。目的の手段で目的の場所に行こうとすることへの違和感。

「根本的な違和感だわ」
「へえ」

 はっきりとした声で言ったら、それは彼に届いて、吊革につかまる彼は楽しそうに応じた。

「私の中の今吉さんは電車に乗らない」
「そらそうや。実態として電車を利用するワシを、相田さんは知らんもの」

 彼は、私のたわ言に可笑しげにそう返した。実態としての今吉翔一、と、だから私は口の中で呟いた。
 ウィンターカップのあとから今までの時間は、ほとんど実感を伴わない時間のような気がした。唐突に私の世界に現れた今吉という男は、だけれどいつの間にかひどく身に馴染んでいった。不思議だった。気を許すのとは違う。だって、こんなにも人から求められたことはなかった気がしたから。

「あなたみたいにね」
「ん?」
「何でもない」

 言い差して、私は肩の後ろの景色を見遣る。海だった。言い差した言葉が、春の海に吸われる。

「あ、次降りるで」

 私の変調に気が付きながら、彼はふと背中を見せた。私はそれに従うようにのろのろと立ち上がる。電車は、程なくして止まった。





 隣県の海は、まだ春の初めだというのにずいぶん温かそうだった。

「うーん、相田さんとの思い出作りって感じやな」
「やめてくださいそんなんじゃない勘違いしないで」
「ワンブレス!やめて!」

 私の制止も、今吉さんの絶叫も、海に吸い込まれていく。私はしゃがんで波打ち際に手を浸した。海は、思っていたようにあたたかくはなくて、まだ冷たかった。

「私ね」

 三歩分くらい後ろで、今吉さんはこちらを見ている。海に来たいと言ったのは私で、これから当分私たちは会えなくて、だけれど、そんなふうに約束をして会うような仲ではないことは事実で、何一つ‘確かなこと’を持たない私たちは、人のいない海辺で、ひどくくっきりしていた。くっきりしているような気がした。

「あなたみいに、人を好きになったことあるの」
「ほう」

 影が私を覆った。今吉さんが真後ろに立ったんだ、と私はぼんやり思った。

「一直線にね、馬鹿みたいに」
「馬鹿みたいってひどいわあ」

 彼はからっと笑って、そうして、丸まるみたいに私の横にしゃがんだ。横目でそれを見て、私は少し笑ってしまう。背の高い人がしゃがむと、それだけでなんだか、小さい私がおもちゃか何かみたいに思えて、可笑しかった。

「そんなに背は高くなかったかな」
「えー、昔の男の話なん?」

 全く嫌そうではないのに、彼は「ないわー、デート中に」と笑いながら言った。

「デートじゃないもの」
「ひどいわー」

 そんなこと、1ミリも思っていない口ぶりで言った彼に、私は笑って言った。

「好きだったの」

 本当に、好きだったの。

「あなたといると、駄目。すごくダメ」
「なんで」
「思い出すから、その頃の自分のこと」

 必死だった自分のことを思い出すから。
 その頃の方が、まだ可愛げがあったような気がするから。

「そりゃ困る」

 はっきりとした声で、彼は言った。ほら、と思う。どんなに私を思う彼でも、そういうところまで受け容れることは出来ないのね、と思ったら、ひどく安堵すると同時に、ひどく傷つけられて、なんて身勝手な女、と一人思った。だけれど、彼はその思考のずっと上の方を言った。

「ワシが好きになったのは、そーいうの全部ひっくるめた相田さんやから」
「え?」
「そういうの全部、ダメとか駄目じゃないとか、本人に添削されると困るわー」
「なんですか、それ」
「ん?」

 彼は、心底不思議そうに、横にしゃがむ私に、感情の読み取りにくいいつもの顔で笑った。

「そういうのひっくるめて、全部好きになってもうたから。けっこう強欲なんよ。相田さん自身にも、相田さんを否定させたくないっちゅうの?」

 ただの利己主義、と彼は笑った。私のことを否定する私を否定する存在、なんて、私には想像もつかない存在だった。

「今吉さん、」
「これから」
「え?」

 私の声を遮るように、彼は言った。

「ちょい忙しくなるやん、互いに。新学期とか、大学とか」
「……ええ」
「忙しならんといかんやん」

 忙しくならなければならない、か。全く以て、彼の発想には驚かされるし、救われる。新学年は、新入生は、新年度は、忙しくあるべきだ。誰もが思っているけれど、誰もが口に出さなくて、そうしてそれが全てではないように。

「まあ、会えなくなるのは確かですね」
「そういうこと」

 そういうこと、ともう一度言って、それから彼はふと立ち上がった。

「ワシは強欲やから、相田さんを誰にも渡しとうない」

 けっこう痛烈な愛の告白だと思うのに、私はそれを案外すんなりと受け容れた。受け容れた?違うような気もする。私は、立ち上がった彼に比してしゃがんだままで、それを聞いていた。

「過去も、未来も」
「そう」
「もちろん、今も」
「……そう」

 私は、なんて答えたらいいのか分からなくて、ただただそれに肯定した。

「ま、詮無い欲や」
「そうね」

 私は、あなたの過去も、今も、未来も知らないわ、と頭の中で小さく思う。
 あなたが何一つ知らないように、と。
 でも、もし、捨ててしまいたい過去ごと、投げ出したい未来ごと、冷たい今ごと、彼が私を愛してくれるというのなら。


「強欲なのは、私よ」


 呟きは波音に紛れた。


とほくにすてゝ




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新年度に思いきりと思い付きだけの二人。

2014/4/7