放課後、今吉翔一は真剣な顔でこのあたりでは女性に人気の高いケーキショップのショーケースを睨んでいた。パティシエ特製とか、この冬一番!とか、手書きのポップが付いているものもあり、こういうものが女性に好感を持たれる理由の一つでもあるのだろう。味ももちろん、桃井のお墨付きだが。
が、しかし。今吉、というか、男子高校生にそんなこと分かろうはずもないのである。
翌日の甘味
時は2月の6日、ウィンターカップは一月と少し前に終わり、今吉は真っ当な受験生となった。センター試験は上々、二次試験の出願も済ませた彼には、放課後に塾はない。学校での授業はほとんどが大学受験対策の選択式の講習となっており、塾に行くよりずっと効率が良かった。学校にしろ生徒にしろ、ある一定水準以上になると塾に行くより学校での授業紛いの受験対策講習を受け、寮で独自の勉強をした方が良かった。そういう点で、今吉も学校側も、その条件を満たしていたから、塾に行く必要はなかった。
などという、今吉も案外に生々しい受験生である。
「目標もありますしー」
目下の目標は、最も難しいと言われる大学だった。自分の力を試し、そうしてそこでなら、没頭できるのではないか、と思った。バスケットではない。学業だとか、そういうものに。
彼は、もうその青春との別離を決めていた。
*
繰り返すが、時は2月の6日。二次試験も差し迫るそんな日の放課後に、今吉はふらりと繁華街に出て、部活の後輩である桃井に教えてもらったケーキショップに来ていた。
だいぶ奇抜な客である。高校の制服姿で、長身、ガタイもかなりいい。「スイーツ男子?」と、囁くような、それでいてはしゃぐような声がちらりちらりと聞こえて、今吉は早いところ買ってしまおうと思った。
「誕生日やから、イチゴのショート。でも甘いモン嫌いな可能性もあるから甘さ控えめティラミス。チョコ好きの可能性も否めんからガトーショコラ」
箱を睨んで、ぶつぶつと呟きながら今吉は早足で目的地に向かっていた。
目的地に到達しても、その呟きは止まらなかった。三種類のケーキについて、彼はずっとぶつぶつ呟いている。
「イチゴ、ティラミス、ショコラ、イチゴ…」
「…さん!」
「ショコラ、ティラミス…」
「今吉さん!」
「イチゴ…って!うわっ」
「人を見て開口一番それってどうなんですかね」
今吉の眼前に立っていたのは、目的地の目的の人物相田リコだった。
「相田さんか。すまんすまん。お久しゅう」
「何がお久しぶりですか!?二日前に会ってる!あなたほんとにストーカーなんじゃないでしょうね!?」
吼えたリコのそれは正論である。ドがつくくらい正論である。ド正論である。
ウィンターカップが終わってこの方、この男に言い寄られて仕方ないのだ。その度好きだの愛してるだのと言われるわけだが、リコの対応は「好きになったりしない」の一点張りだった。
それでもめげない今吉のメンタルには感服だが、受験生が、などと思ってしまった。最初のうちこそ迷惑だったが(というか今も十分迷惑だが)、ここまでくると惰性と慣れが働いてきてしまう。それに、この男との距離感や空間は、苦痛というよりは安堵出来ることが多かった。理由はリコにも知れない。
「校門の前で待ち伏せって、今日はずいぶんひねりがないですね」
「えーヒドイわあ。今日はけっこう重要やさかい、偶然会えましたーは嫌やってん」
「いつも偶然じゃないくせに」
「え?偶然に決まっとるやん」
相田さんとワシは毎日が運命、と言ったら、リコの右ストレートが顔面にめり込んだ。
「重要なことなんてありましたっけ」
それでも一応話を聞いてくれる、というのは、一ヶ月以上付き纏ってきた成果であろう。それが良きにつけ、悪しきにつけ。
「そうやそうや。重要重要」
そう言って、今吉はズイッと先程までぶつぶつ言っていたケーキショップの箱をリコに差し出した。幸いというか、こんな遅い時間に校門付近に人はない。リコが、選手を帰らせて、休ませて、一人でフォーメーションや練習内容を詰めているのは、相変わらずだったから、こんな時間になってしまう。
「え、なに?」
その箱にはリコも見覚えがある。最近人気のケーキショップだ。すごく美味しい!とクラスメイトに薦められたが、行く機会、というか余裕がなかった。
「誕生日おめでと」
「はい?」
何度も繰り返すが、今日は2月6日である。
「昨日ですけど。一日遅いわ」
「昨日は誠凛の兄さん方とおったくせに」
ニヤッと笑って言われて、リコは、あ、と声に出しそうになってそれを押し留める。
気を遣われたんだ、と思った。
彼の中で引かれているリコとのライン、というものが、こういう時に明確になるような気がして、同時に曖昧になるような気がした。
自分よりも誠凛のみんなといる時間、というものを、何故だか今吉は重視してくれた。一歩引かれているようで、その気遣いが嬉しいと同時に「好きならなりふり構わない」なんていう少女漫画的な恋に憧れて、そうしてそういう仕様もない恋をしていた自分が惨めになる。
あなたもやっぱり、そういうのは違うと思うの?なんて問い掛けてみたくなる。でもそれはどうしたって意地が悪かった。
そういう訳じゃない。今吉はなりふり構わないで向かってきてくれる。だけれど、彼女が大事にしたいものを傷つけたりは絶対にしない。それが人であれ、物であれ、心であれ。
もしかすると、だから彼との時間に妙に安堵するのかもしれなかった。裏切らない、と、どこかで信じることが出来た。裏切りが前提になっていた思考に、リコは心中に苦り切った思いを抱えて、小さく目を伏せた。
だけれどそれでもその視界には、いっぱいにその店の箱が入っている。
「消えもんやったらええやろ」
「そんなこと気にするのね」
「まあな。まだワシの気持ちが相田さんには伝わっとらんみたいやし?」
そう、笑い含みに言った彼からリコはその箱を受け取る。厚紙をくりぬいた取っ手を掴もうとした時、ちょっとだけ彼の手に触れた。ひんやりとした感触に、リコは一瞬肩を揺らした。寒空の下を歩いてきたのだろう。暖房のきいた部室で作業をして、その上コートにマフラーの重装備のリコの手からすると、それはずいぶん冷たくて、冷たいと同時に、その時間を考えてしまって、そうやってまで歩いて、自分を待っていた彼、というものに、彼女は肩を揺らしたのだった。
嬉しいような、恥ずかしいような、そんな気がした。
「ずいぶん大きい箱ね」
その上気する頬を覚られないように、リコはサッと体の方に箱を引いてそれを眺める。それもあながち的外れな言葉ではなかった。
「あー、うん。女子ってどういうの好き分からんで」
「……?」
「ん?誕生日いうたら定番のイチゴショートかなあってそれが一つと、甘いもんとか生クリーム嫌いやったら困るからティラミスが一つと、もしかしてチョコ的なもんが好き、っていう可能性を考慮してガトーショコラ」
他のケーキは名前が難しすぎて駄目やった、と続けたら、リコは目を見開いた。
「一個で充分よ。悪いわ」
「や、相田さんの好み知らんし」
頭をかいて今吉が言うから、リコは可笑しな気分になってしまう。慣れもしないケーキショップに行って、慣れもしないケーキに囲まれて、必死に考えた彼の姿は、どうしたって可笑しかった。可笑しくて、そうしてどうにも温かかった。
「大好きよ」
「へ?」
「全部、大好きなのばっかりです」
「そりゃよかった」
「でも全部食べたら太るなー」
「問題ないわ」
やっと調子を取り戻した今吉がニヤリと笑って言う。
「そん時は責任取ってワシがお嫁にもらうさかい」
馬鹿なこと言わないで!というリコの怒声が冬の澄み切った夜空に響いた。
『大好きよ』
という一言が、彼に向けられるようになるのは、もっと、ずっとあとのお話。
=========
リコさん誕生日おめでとう!
2014/2/5