恋をしていました
白無垢に身を包んで、唇には紅。綺麗に身を整えた今日の主役を、金造はもう一人の主役よりも一足先に見に来ていた。
「どないしたの?」
「柔兄着替え中やねん。七五三やな、って言うたら叩き出されてん」
「そらそうやろ」
ぷっと吹き出して、花嫁は笑う。その笑顔につられて、金造も笑う。あと小一時間もすれば、彼女と兄は結婚するのだ。そう思ったら、彼の中には大きな喜びが満ちた。だが、一方で、思いがけぬ寂寞もある。
「結婚、するんやな」
「やっぱり、不満か」
確かめるように言ったら、彼女は不安そうに小さく振り返った。
不満―そんなものない。言わせてもらえば元の鞘に収まったと思ったくらいだ。判っていた。二人は好きあっていて、喧嘩をするのも、不満を言うのも、全部全部、仮初めだった。
「いくら俺でも、そんくらいは分かるわ」
「?」
便乗して様々と喧嘩してきたのは事実。だが、彼女以外の誰が、己の兄の許に嫁いでくるだろうと思うくらいには、彼にとって二人の結婚は自然なことだった。
「まあ、あれやな。明日からお前が俺の弁当作ると思うと、背筋が寒くなる」
「……」
「冗談やジョーダン…あれや、なんやっけ?何とかにもイショウ?」
「馬子にも衣装て言いたいんやったら、やっぱりあんたの弁当には毒でも盛ってやらんといかんな」
「え!?あれ褒め言葉ちゃうの!?」
本気で驚いているらしい未来の義弟に、彼女はふと笑ってしまった。
「アホやなあ」
だがその声には揶揄する響きは少しも含まれていないのだ。ずっと昔のように、兄妹を慈しむそれしか、そこにはない。
その声に、金造はふと、白粉をはたかれた彼女の頬に手を伸ばす。
「綺麗やなって、言いたかってん」
「分かっとるよ」
「…柔兄ええなあ」
まあ、今日から俺の姉様でもあるワケやけど。
と、付け足そうか迷って、金造は口を噤んだ。
今までもずっと彼女は姉であって、それで、今日から兄の嫁になってもそれは変わらない、はずだった。
やわらかになった口調は、否が応でも過去の彼女を思い出させた。そう言えば、兄との結婚が決まってから、彼女はずいぶん丸くなったなどと言われたが、それは違うのだということを、金造を含めた近しい者は知っている。戻っただけだ。昔の彼女に戻っただけ。そう言ったって、では最近の彼女が優しくなかったか、なんて言ったらそれは嘘になるのだけれど。
優しくて、厳しい。厳しくて、優しい。
彼女はいつだってそうだった。
ただ、少しだけ、甘くなっただけで。それは、恋だとか、愛だとか、そういう類の感情と、家族や明陀に対する感情のおかげだと思う。
―そうは言っても、恋だとか、愛だとか、そういう感情を向けられるのは、後にも先にも、この世にたった一人なのだけれど。
その確かな、そうして、彼にしてみれば、本当に小さな事実が、だけれど、少しだけ、少しだけ、彼の心に引っかかる。正確には、過去の、幼かった彼に、僅かな影を落とすのだ。
「蝮」
「なに?」
瑣末なことだった。それはもう過去のことで、そうして瑣末なことだった。だけれど、過去の己に、過去の青春に、餞するには、いい機会かもしれないと、彼は思う。
「目、つぶって」
「なんやのあんた?」
不審そうにしながらも、優しい姉は目を閉じる。それを確認して、彼はゆっくりと、彼女の頬に唇を寄せた。
「な…!」
「餞別や」
驚いて目を開けた彼女に、金造はニカッと笑ってみせる。
「おい、蝮…て、金造?何してんのや?式、始まるていうに」
その時だった。現れた兄に、彼女に覆いかぶさるように口付けを落としていた彼は、なんでもなかったように立ち上がって、トンっと彼女の肩に手をのせた。
「昔なあ、俺も若かったんや」
「は?」
「なに…?」
今は、そんなこと欠片も思わないのに。昔、彼の隣にいる彼女が、ひどく眩しかった。
揃って疑問符を掲げる若夫婦に、金造は笑ってみせた。
「好きやった」
言葉にしたら、記憶の中の小さい己は、笑って歩き出した。己が歩む道と、馬が鼻を向けた先が違うのを、彼は知っている。
「なん言うてんの。これからは好きでいてくれんのか?」
好きだったというその一言に、義姉は笑って言った。それは、過去の恋慕の情も、現在の親愛の情も、全て見抜いた一言で、かつてはその聡明さに恋い焦がれ、そうして今は、その聡明な存在が、兄の隣にいることを、己は誰より寿ぐのだと彼は思い至って、やはり笑ってしまう。
「まあ、柔兄の嫁やからな。蛇女やいうても、ちいっとくらいは、好きでいたるわ」
過去の己が笑った。こうなることなど、知っていたとでも言うように。
例え、その情が、親愛から恋慕に、そして恋慕から親愛に変遷しようとも。
「おめでと。これからもずっと好きや、蝮」
君に、恋をしていました
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金→蝮、と言いつつも、恋愛感情があったのは本当に過去の話、という金造くんと蝮さん。柔蝮が結婚するのは最早デフォです。
2012/7/24