をしていました


 ひどく、重い荷物を下ろした気分になった。実際には、何も変わっていないのを知っている。知っているのに。 金色の糸を、彼は綺麗だと言った。その時のことを、あたしは克明に覚えている。さらさらと金糸に通された彼の指の感覚も、『綺麗や』と囁くように彼が言った声も、その時あたしが感じた幸福も、全部全部、覚えている。


 それが、現実であったことを、あたしは覚えている。






「おはようございまーす」
「おはようございます、じゃねえ!いま何時だと思ってん…だ…って、お前どうしたんだ、それ?」

 隊長はいつものお叱りの最後の方で、怪訝そうに眉を寄せた。

「なんですか?」
「いや…髪。どうしたんだ」
「あらやだ、隊長ってばさすができる男!そういうところにちゃんと気が付くからいい男なんですよね!」

 わざと茶化してそう言ったら、隊長は面倒そうに書類の束を机に放る。

「言っておくが、ほめたところでお前の仕事は一分も減らないからな」
「きびしー」

 ソファに座って書類を捲る。どうでもいいような内容のものと、すぐに判がいるような内容のものがいつもの通りきっちり仕分けされていた。
 それが、今日は少しだけ、しくしくと沁みるような気がした。

「……こういうこと言うと、隊長怒るから言いたくないんですけど」
「なんだ」
「これってあたしの仕事ですよね」
「分かってるならさっさと来てさっさとやれ!」

 怒号を飛ばした隊長の方をちらりと見たら、彼は怒ったような視線を一瞬緩めた。多分、ひどい顔をしているんだと思ったら、なんだか惨めだった。

「…もっと怒っていいんですよ?」

 頓珍漢な事を言っているな、と自分でも思った。そうしたら、彼は今度こそ困ったように眉を下げて、それから一口お茶に口をつけると深く息をついた。

「怒って欲しいと思ってるやつにくれてやる愛嬌なんざ、持ち合わせがねえな」
「……優しくないんですね」
「微妙な優しさを俺に求めてんじゃねーよ」

 隊長はそう言って、それから頬杖をつく。そうやって困ったふうな顔をしていると、彼があたしよりもずっと若いことを思い出す。それからあたしは、その優秀な上官の白い羽織に、皺の一つでもついていればいいのに、と馬鹿みたいに思った。バカみたいにどうでもいい嫉妬をした。……彼に嫉妬した訳ではないけれど。

「…あたし、今思ったんですけど、隊長が仕事のできる男であたしはすっごく助かってます」
「……そうかよ」

 あたしの放言にも、彼はどうでも良さそうに応じた。
 彼は少しの間、私の方を見ていた。それからまた、一口だけお茶に口をつけて、湯呑をトンっと机に置く。

「怒る代わりに仕事をやる。茶が冷めたから淹れなおしてこい」

 あたしはそれに、なんて応えたらいいのか分からなくて、だけれど、のろのろと隊長の湯呑に手を伸ばす。そうしたら、近づいた視線の先で、彼は少しだけ視線を逸らして言った。

「髪、短いのも似合うじゃねえか」

 当たり前でしょ、とか、そういう挑戦的ないつもの軽口を叩こうとして、あたしは失敗した。仕方なく、小さな声で「ありがとうございます」と言って、あたしは急いで執務室を後にした。






 髪を切ったら、何か変わるだろうか、なんて。
 髪を切ったら、彼のことを忘れられるだろうか、なんて。




 湯呑はまだ温かかった。
 嘘をつかれたんだ、と思ったら、ひどく辛かった。嘘をつかれたことが辛いのではなくて、嘘をついてまで気遣われたことが辛かった。
 そうして、そうやって嘘をついてはあたしを遠ざけた男のことを思い出した。

「嘘ばっかり」

 口を衝いて出た反駁が、誰に対する言葉だったのか、なんだか分からなくなってしまう。


 さらさらと流れるような金糸を、あたしは切り落とした。
 彼が、綺麗だと言った糸を。
 彼に、繋がるかもしれない糸を。
 実際には、その糸すら、もう彼には届かないのをあたしは知っている。確かなものごとを、彼が何一つ残さなかったように。


だけれど、一つだけ確かなことがある。繋がる金色の糸がなくなっても、確かなことがある。


 彼が、その糸に指を掛けて、そうして、綺麗だと言ったのは、嘘ではなかった。


覚えている。
それが現実だったことを、あたしは、覚えている。


 その糸だけではない
 一つ一つの言葉が、温度が


覚えている。
それが真実だったことを、あたしだけは、覚えている。


貴方に、をしていました




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記憶以外何も遺らなかった、という話。逆に言えば記憶だけは残って、いつまでも小さな痛みを齎すのかな、と思いながら。

2012/7/28