『あんた、不器用やね』
『うっさいわ!』
貴方に捧ぐ花
草原には、一面に白の花が咲いていた。夢を見ているのだ、と、夢と、そうして痛みのためか半分ほど覚醒している熱に浮かされた思考の狭間で、蝮は思った。
夢。
過去のことだ。小さな己と、幼馴染がいた。それは、夢によって作られた虚構ではなくて、確かに過去のことだった。多少の差異はあるかもしれないが、それが現実にあったことだと、半覚醒の思考が言って、それから夢が迫って、眠気が落ちて、これ以上は無理だと思った蝮は考えるのを止め、眠りの淵に身を投げる。その瞬間に、その場所について一瞬だけ彼女は思考を巡らせた。
(どこ?……なに?)
だけれどそれがどこだったか、なんだったか、思い出すことはできなかった。
***
ぱちり、と隻眼を開く。見えたのは木目の美しい天井で、ここが虎屋の一室なのだと彼女は覚った。覚ってそれから、蝮はゆうるりと視線を彷徨わす。
まだ魔障が完全には癒えず、虎屋の一室で休ませてもらっている蝮にとって、ここ数日は嵐のような日々だった。
不浄王を復活させた。
右目を失った。
そうして、そうして。
そうして、それから、幼馴染に結婚を宣言された。
たくさんの事どもが脳裏をよぎる。そうしたら、ずきりと頭が痛んだ。
結婚を宣言した幼馴染が、自然な成り行きとのたまった夜のことをとにかく無かったことにしようとして、彼とはいつも通り反抗的に、攻撃的に何度か相見えたが、その度に治りきっていない魔障がぶり返して、床に就くという悪循環で、竜士をはじめとする明陀の若人と、今回の件の功労者たちである塾生を先ほど見送ってからは、大人しく横になっている(案の定だが、柔造と喧嘩して、熱が出た)。
「花……」
ぽつりと呟いたのは、彷徨わせた視線が、文机の上のフラワーアレジメントを捉えたからだった。寝起きと熱からくる頭痛ではっきりしない思考で考えてみたら、それは竜士と廉造と子猫丸が、出立の前に置いて行ったものだと思い至った。
『まだようなってへんのやから、無理すな。柔造と喧嘩してもなんもいいことあらへんで』
柔造と一戦交えてやっぱり床に就いた蝮に、呆れたふうに言ったのは竜士だったか。その花は、確か出立の直前にそんなお小言とともに持って来てくれたものだった。
『まずは身体治すことだけ考え。他はなんも考えんでええ。まあ、柔造のことも考えてやったらあいつは喜ぶやろけど』
そう言って、愛しい子が蝮の銀糸のような髪を梳いたのを思い出す。
淡い桃色を基調としたそれに、蝮は目を細める。きっと、なけなしの小遣いを出し合って買ってくれたのだろうと思ったら、自然と唇に笑みが咲いた。それは、少しばかりの哀しさを帯びた微笑みだった。
その哀しさは責めることすらしない彼らに対する懺悔であり、悔恨だった。
それから、その花を見つめて、蝮の思考は夢を追いかけ始めた。
花。
そう、花。夢の中にも花があった。白い花。
「……白詰草?」
ぼんやりと、彼女は呟く。夢の中で、一面に咲いていたのは白詰草だった。思考を追いながら、文机の花を眺めていたら、がらりと襖を開ける者がある。
「わろてるなん、めずらし。なんやいいことでもあったか」
「……志摩」
やってきたのは、蝮が床に臥せると律儀にやってくるようになった、しかしながらその原因の志摩柔造だった。それから蝮はさっと口許を覆う。夢を追っていたのだけれど、先ほど視界に捉えた大事な子供たちからの花を見て微笑んでいたのがそのままになっていたのだ。
「わろてればいいのに。その方がかわいらしえ」
そう言って柔造は枕元までやってきて、蝮の少し熱い額を撫でた。反抗したくとも、そんな体力は残っていなくて、彼女が決まり悪そうに目を閉じたから、彼は今度はその閉じられた隻眼を撫でた。その手の温度は、もともと体温の低い蝮には心地よくて、それでふと口を開く。
「花」
「ん?」
「竜士様たちが買うてきてくれてん」
「ああ、あれか」
それでわろてたんか、と言われて、それについては反抗する理由も、返答を拒否する理由もなかったから、彼女はこくりとうなずいた。
うなずいて、それから、ひどい罪悪感と、懺悔と、そうしてあたたかな気持ちが綯い交ぜになって、蝮は泣き出しそうになる。そういういろいろのために泣き出しそうだったのだけれど、泣き出しそうになったのは、目蓋にのせられた彼の手が暖かすぎるせいだ、と言い訳めいた思考を巡らす。だけれどそれは無意味で、結局その閉じられた隻眼からつうと滴が落ちた。
「私なんかが、こないなもの竜士様からもろてええはずないの」
「蝮」
嗚咽をかみ殺すように言ったそれに、柔造は短く、慰めるように、諌めるように彼女の名を呼ぶ。だけれど彼女はやめなかった。
「私は、明陀を、和尚様を、竜士様を、みんなを裏切った。それなのになんで裏切りもんにこないに優しゅうしてくれはるの」
その懺悔に、誰もそないなふうに思ってへん、とか、そういう慰めの言葉を言えたら良かったのに、と柔造は静かに唇を噛む。そんなことを言う資格が、己にはないのを分かっていたから、喉まで出かかったそれを言うことは、できなかった。
彼女が疑問に思ってきたことを、彼女が求めていた答えを、求めていた応えを、はぐらかして、笑い飛ばして、無碍にしてきたのはほかでもない自分だという後悔が、少なくとも彼の中には有った。だから、安易な慰めを口にのせることができなかった。
「あんたもそうや。なんで、結婚しようなんて言わはるの」
だが、その小さな嘆きにならば、彼は応えられた。だから柔造は、きつく噛んで引き結ばれた唇をゆるゆると開く。
「何遍も言うとるけど、お前が愛しゅうて、お前と添い遂げたいと思っとるから」
その言葉が、少しずつでもいいから彼女に伝わればいいと、祈るようにゆっくり言ったら、蝮はゆっくりと目を開く。それでも、眦からこぼれる滴は、止め処なく、一条の線となって彼女の頬を裂いた。
「どうして?」
純粋な疑問を、彼女は投げる。どうして?
どうして私なの?
どうして?
裏切ってしまったのにどうして?
「愛しい以外に理由が欲しいんやったら、そやな」
どうして、と問いかける彼女の左手の薬指に、彼はそっと指を這わす。
「‘約束’、やから、かな」
何でもない会話のようにそう言った彼のその一言に蝮は大きく目を見開いた。視界には見慣れた幼馴染の顔と、淡い桃色の花が映る。だけれど、その目の底に焼きつくように見えたのは、白と緑で埋め尽くされた草原だった。
***
『あんた、不器用やね』
『うっさいわ!』
幼い自分と、柔造がその草原で言い合っている。考えてみれば、今とさして変わらない光景だった。あいまいだった草原の場所は、学校の帰り道だった。今はもう、ないかもしれない。
幼い蝮の手元には、器用に編まれたティアラがあった。白詰草のティアラだ。白い花の部分と茎を器用に編んで、花がきちんと見えるようになっている。
対する柔造の手元には、てんでばらばら、見るも無残な白詰草がいくつか散っていて、幼い蝮は気分を害したような顔をして見せたから、幼い柔造が食ってかかろうとする。その時だった。
『不器用なお申がかわいそうやから、これあげる。たんせいこめて作ったから、厄除けくらいにはなるやろ』
蝮は草原に座ったまま、伸び上がるようにして、食ってかかろうとした柔造の頭にそのティアラを載せた。こんなに女の子らしいものだというのに‘厄除け’なんて言ってしまうところが、幼いながら蝮らしかった。
『なんや、いらんわ!こないな飯事みたいなもん!』
それでも悪態をついたが、蝮は怒るでもなく、それどころかくすくすと笑った。そこに揶揄はない。それは、柔造の幼心にも分ったから、それ以上悪態を連ねることができなくなってしまった。
『よう似合うとる』
楽しそうに、蝮は笑って言った。それで柔造は、この幼馴染は存外手先が器用で、こういった遊びが好きなのだな、と思った。
だから、と言ってはなんだが、そんな彼女を楽しませてやりたいという思いと、少しばかりの対抗心で、柔造は頭にその冠を載せたままで大きな花を咲かせている白詰草を一本手折った。
『手、貸し』
『うん?』
蝮は素直に手を差し出す。小さくて、白くて、柔らかい手だった。
『なに?』
蝮が訊いたが、柔造は至極真面目な顔で、四苦八苦しながらその白詰草を彼女の指にくくりつけた。
『なあに?』
だから、もう一度彼女が訊いたら、柔造は言った。
『ゆびわ』
『え?』
『お前のが厄除けやったら、俺のはやくそく』
約束、と少しだけたどたどしく彼は言った。
『守ったる、っていう約束』
***
励起された記憶と、指をたどる彼の変わらない手の温度に、蝮は当惑したようにもう一度瞳を閉じた。
約束、なんて、言わないで
そんなにも不確かで
そんなにもあたたかなものは私には要らないから
「俺なあ」
そんな彼女の心を見透かすように、彼は言う。
「やくそく、いっぺん破ってもうてん」
柔造の言葉に、蝮は反駁しようとする。だけれど、唇が戦慄いただけで、渦巻く言葉は声にならなかった―――もしかしたら、渦巻く言葉なんて存在していないのではないか、なんて思うほどに、何も考えられなくなってしまった。
「守るって約束したのに、俺は一回お前の手を離した」
「……やめ……て」
嘆息のように
悲鳴のように
戦慄いた唇はようよう小さく彼の言葉を拒む言葉を落とした。
だけれど彼はやめてはくれなかった。
「守るって約束した。お前の厄除けはよう効くのに、俺ん約束は、俺の方から破ってもうた」
「……え?」
不意にぽつりと落ちた疑問は、‘厄除け’という言葉に対する疑問だった。そのことは柔造にも伝わったようで、彼はばつが悪いとでもいうように、それでいて、少し照れたように、衣の懐に手を差し入れて、小さなしおりを取り出した。
「こ……れ……」
その、大事そうに作られたしおりの中身は、色褪せた白詰草だった。
「あー、うん。冠そのまま取っとくんは無理やったから、幼いながら試行錯誤してしおりにしてみました」
「何言うてん、あんた!」
堪らず上体を起こして彼を詰ったら、そこをふっと抱きすくめられた。
「ほんまによう効く厄除けや」
「阿呆なこと言いなや!そんなん、何の役にも立たん!あんたは、その厄除け作った女のせいで死にかけたんや!」
彼の言葉一つ一つが堪らなくて、彼女はドンっと彼の胸板を叩いた。
「阿呆……あほう」
そう言ったら、彼はその言葉ごと、その身体ごと、彼女を抱きしめて言う。
「よう効いたに決まっとるやろ。そんおかげで―――」
そこで、彼は一拍息を吸った。そうして、抱きしめる手を緩め、彼女を真っ直ぐに見つめて言う。
「俺はお前を失わずに済んだ」
その一言に、蝮は瞠目して、それから堪え兼ねたように大粒の涙を落した。
それが、己の白詰草の効果だと言うのなら。
それはきっと、彼の約束だって一緒だと思う。
「あほう……」
嗚咽の狭間に彼女が言ったその一言は、彼の唇に吸い取られた。
「阿呆でええから、もういっぺん約束させてや」
あの頃よりずっとかたく、骨ばった指が、あの頃と同じように柔らかで白く、だけれど様々なものを守ろうと大きくなった手を撫でる。撫でて、そうして、その心臓につながる指を緩く握る。
「いっぺん離してもうたけど、約束も、指環も、なんもかんも、ここはぜーんぶ俺が予約済みやからな」
にかっと、彼は太陽みたいに笑った。
この笑顔を守りたいと思った。だから、約束も何もかもかなぐり捨てて、独りで歩んだ。歩む道を違えてしまったことは、もう取り返しがつかないのだけれど。
「守る。何からだって。どんなことからだって。だから大丈夫や。なんも気に病むな。これからは俺が隣におる。隣におって、愛しゅうてたまらんお前のことを、今度こそ、守る。それが、約束」
そう言われたら、彼の握る指先が震えた。
彼は、全てから守ると言うのだ。それは、幼かったあの日に誓ったそれと、どうしてか似ている気がした。その意味は全く違うのに―――
そうして視界の端に映ったのは、薄桃色の花だった。彼らも気にするなと言う。守ると言う。それは、この男の言うその温度とは違うものではあったけれど、それでもそれを、受け容れてもいいのだろうか、なんて思った。
「あ……て、は……」
許してなんて言えない。
罰を請うばかり。
だけれど、だけれど。
ねえ、そんなふうに言わないで。
ねえ、そんな花なんてくれないで。
ねえ、どうして私を許してくれるの?
ねえ、どうして愛しいと言えてしまうの?
ねえ、この気持ちはなに?
だけれどあの日の記憶は色褪せないままで、この胸に鮮烈に残っている。
あの日の記憶の中で、彼に約束の花で編んだ冠をかぶせたあの感情の名前は―――
「なあ」
「ん?」
「好きやってん、あんたのこと」
「ほうか」
今は、と彼は問わなかった。
問うてくれろと思う気持ちと、問うてくれるなと思う気持ちが、ぐるぐると思考回路を駆け巡った。
今、問われたら、この想いに、あの日と同じ名前をつけてしまう気がした。
違う。
今、問われたら、この想いに、あの日よりずっと複雑で、ずっと鮮明な名前をつけてしまう気がした。
(愛おしいと言うは―――)
その問いの答えを、彼のように、愛おしいと言ってしまったら、心臓につながる指がひどくこそばゆくて仕様がない気がした。仕様がない気がしたから、愛おしいという言葉を口にするのは、もう少しだけ待ってほしいと思った。
「好きやってん、あんたのこと」
だから彼女はもう一度、今と変わらぬ過去の想いに名前をつけた。
彼には、それだけで十分だった。
彼女にも、それで十分だった。
許されるなら
赦されるなら
もう一度約束してもいい?
もう一度貴方の隣にいてもいい?
好きだという己の一言が、彼の温度で融けだして、そうして心臓の許容範囲を超える。飽和してしまって、それでもなお融けきらなかったそれが狂おしいまでの愛おしさに変ってしまったのだけれど、そのことを言うのはもう少しだけ先でもいい気がした。
だから彼女は、ゆっくり彼にもたれかかる。あの頃と、変わらない彼の体温だった。
貴方に花を捧ぐ
純白の花を捧ぐ
約束の花を捧ぐ