綺麗な人、というのが、正直に言うならば、私が彼に抱いた最初の感情だった。
最初、と言うと少し語弊がありそうではある。どこに‘最初’の時間軸を置くのかにもよるのだけれど、ごくごく個人的に関わり合った彼に、最初に抱いた感情は『綺麗な人』という、ひどく曖昧な、だけれど至極単純なものだった。
物理学の時間
ひらりと雑誌を取り上げた指先も、コーヒーカップから私には飲めないブラックのコーヒーを飲む所作も、小首を傾げるそれすら、一つ一つが綺麗としか言い様がなかった。
突然現れた立海の参謀、という認識しかなかった私にとって、その行動の一つ一つはあまり実感を伴うものではなかったのかもしれない。だから、その一つ一つに複雑な名前をつけることは出来なかったし、敢えてつけようとも思わなかった。
ただ、『綺麗な人』だ、とは思った。だから、とりあえず私の中の曖昧な区分は、柳蓮二という存在を『綺麗』とカテゴライズした。
実際、ほぼ初対面の彼は『清廉』ではなかったし、『潔白』でもなかった。当然だろう。常勝を掲げるそのトップが、清廉潔白だなんて思うのは、おめでたい妄想でしかない。それは、勝負の世界に身を投じる兄を始めとした人たちを見ていれば判る。私自身、勝つ為に必要な非情さは理解しているつもりだ。
「君に謝っているんだぞ」
と、彼は気負わずに自然な口調で言った。私には飲めないブラックのコーヒーを飲みながら。彼は、兄には謝らなかった。だが私には謝った。
だから、彼はフェアな人物だった。
フェアなのと清廉潔白なのは必ずしも一致しない、ということを、私はその時ぼんやりと、だけれど確かに実感した。
少なくとも、あの喫茶店で彼がフェア(この場合、フェアを公平と訳するのは少し違う気がするが)に振舞うから、私は彼を詰ることができなかったし、彼の動作一つ一つは『綺麗』なもの、としてカウントされた。
今思うと、それは相当に大雑把な区分だ。大雑把、というか、曖昧、というか。
そんなことを考えていたら、私には飲めないブラックのコーヒーを、彼は二つのマグカップに注ぐ。片方の、シンプルなモノトーンのカップの中には、真っ黒なままのコーヒーが収まっていた。だが、もう片方のポップな水玉の描かれたカップの中では、レンジで温められた牛乳が、その黒を曖昧なものにしている。
緩やかに混ざったそれは、カフェオレとして認識することができそうだ。
「カフェオレになる前」
だから私は、謎掛けみたいなことを言ってみた。
「なんだ?」
そうしたら、コーヒーメーカーの近くから不思議そうな声がした。―――『綺麗な人』としてカウントされた存在の声だった。
「コーヒーがあるじゃない」
「ああ」
私は、受け取ったコーヒーをこぼさないように、慎重に二つのカップを運ぶ。運びながら、その手の中の黒と薄茶色のコーヒーについて考える。
「蓮二さんが飲むブラックコーヒーに、私は牛乳を入れます」
「いつものことだな」
杏はブラックが飲めないから。と、彼は事も無げに言った。
「牛乳を入れると、コーヒーはカフェオレになるわ」
「……そうだな」
「私が飲むコーヒーと、蓮二さんが飲むコーヒーは同じものかしら」
正確には、と付け足そうとして、私は自分の中のごちゃごちゃした思考回路に少し呆れた。
正確には、牛乳を入れる前と、入れた後で、そのコーヒーは変わってしまうかしら、と言いたかった。
だけれどそれは上手い言葉にならなくて、私はそのコーヒーとコーヒーもどきをローテーブルに置いて、それを一口飲んだ。コーヒーもどきは曖昧な味がした。
「宇宙の話をしようか?」
そうしたら、察したようにふと笑って彼は可笑しなことを言う。
宇宙の話?だが、膨大すぎるように思われるそれを、彼はまるでその「コーヒー」と「カフェオレ」にふさわしいことであるかのように続けた。
「宇宙は、放っておくとどんどんぐちゃぐちゃになっていくんだ」
「へえ…?」
「部屋もそうだろう?片付けたり、掃除機をかけたりせずに放っておくと、どんどん乱雑になっていく。宇宙もそうだ、という説がある」
「服を散らかしたり、ね」
「こら」
服を散らかす常習犯の彼に少し笑って言ったら、怒るとも怒らないともつかない顔で彼は言って、コーヒーを一口飲んだ。
服を散らかすこと―――それは新たな発見だった。何事にも折目正しくて、几帳面だと思っていた彼の私生活は、思うより乱雑だった。乱雑、というより、無頓着、というか。でもそれは、悪くない発見だった。
「宇宙は、始まったところからどんどんと乱雑さを増していく。誰も手を付けられないからだ。部屋は片付ければいい。だが、宇宙を片付けるなんて無理な話だからな。外的要因無しには、乱雑さは増す一方で、留まることがない……それは、杏の飲んでいるカフェオレも一緒だ」
「一緒?」
私は不思議な気分でそのカフェオレを見下ろした。それからそれを一口飲む。確かに、その味は少し乱雑かもしれない、なんて、何も知らないくせに思った。
「コーヒーと牛乳が混ざって、乱雑になった状態が、カフェオレ。乱雑になる前がコーヒーと牛乳」
そういうことか、と私は納得する。膨大な宇宙の話は、結局私の疑問に答えていて、彼の察しの良さがちょっとだけ恨めしかった。
「曖昧なのね」
「カフェオレが?」
「そう。すごくアイマイ」
カフェオレになる前、という私の疑問は、多分に曖昧だった。彼の論理で行くなら、混ざり具合が増えるほどカフェオレはカフェオレに近づく。部屋が散らかれば散らかるほど、何が何だか分からなくなるように、コーヒーと牛乳が混ざれば混ざるほど、カフェオレになる、ということだろう。
だったらその前は?カフェオレになる前は?その前に戻ることは出来ないの?
「乱雑さを元に戻すことは出来ないの」
簡潔な私の疑問に、彼はちょっと首を傾げた。
「外的なエネルギーを加えること、かな。そうしないと、どんどん乱雑になるし、それを元に戻す方法もない」
「じゃあ、私はエネルギーを加えたのね」
「……どうした?」
今度は、不思議そうな顔で彼は私に問い掛けた。
曖昧だった。乱雑だった。
彼という存在の区分は、私の中で途轍もなく曖昧だった。
肩書きや性格、所属や立ち位置といった、たくさんの要因が、すべてシャットアウトされた状態で、私は彼を『綺麗な人』と、曖昧で、大雑把で、乱雑に区分した。
彼は曖昧な存在だった、と言ったら言い過ぎかもしれないけれど、柳蓮二という人を分類する私の中の基準は、本当に曖昧だった。
曖昧な割に、それは新しい基準だった気がする。
テニスが上手い人、でもなく、優しい人、でもなく、『綺麗な人』。それが示すのは『クリーンな』ではなく『フェアな』という方が近かった。でも、そういうことは関係なかったような気もする。
声は、静かに響いた。
武骨な指先は、細くしなやかだった。
言葉は、一つ一つが明確だった。
綺麗、だった。
「だから、ね」
「?」
不思議そうにする彼に構わず、私は思考に耽る。綺麗だったからだ。綺麗で、不思議で、だから、その先を知りたいと思った。曖昧なそれに、一つずつ意味を加えていきたいと思った。
意味を知って、整理して、区分して―――
そうやって、私の中の彼という存在に外的なエネルギーを加えていったら、曖昧だった彼という存在がはっきりしていった。揺らいでいた陽炎のようなそれが、少しずつ形になった。
例えば、本が好きなこと。テニスが強いこと。案外面倒くさがりなこと。
数えだしたらきりがない事共が、一つ一つが明確になっていく。一つ一つを明確にしていく。だけれど、一つだけ。一つだけ、未だ乱雑で、曖昧で、はっきりしないことがある。
それが私の中の彼に対する全部であり、同時に、彼に対する一部だった。
「ねえ、蓮二さん」
「なんだ?」
「綺麗な人ね」
カフェオレを、コーヒーと牛乳に戻すのは、大概難しい作業だ、と、私は心の裡で思った。
曖昧な薄茶色の飲み物を私は一口飲む。それはまだ温かかった。
「杏は素直だな」
彼は笑って言った。彼の手の中にあるのは真っ黒なコーヒーだった。そうしたら、その思考がどうでもよくなってくる。
なんだか妙に思考回路を働かせてしまった気分だ。だけれど、記憶の中の私が疑問に思ったことは、未だに私の中にあった。そうして、だけれどそれは、暴き立てることにちっとも意味がないことだった。
わざわざ、カフェオレをコーヒーに戻さなくてもいいの。
彼が好きなのはコーヒー。
私が好きなのはカフェオレ。
たったそれだけのことだから―――