世界を美しいと思ったことなどなかった。
正確には、世界を構成するものどもを美しいと思ったことなどなかった。
永久の人
人形に吹き込まれた魂を感じるたび、反吐が出る思いだった。
人は、或いは死神は、思考し、過ちを犯し、躓き、まろび、そして立ち上がりそれらを繰り返す。
愚行だ。彼らは永遠に愚行を繰り返す。その中に吹き込まれた魂ゆえに。
―――目を作るのが好きだ。魂を宿さない徹頭徹尾暗い色をした眼球を作るのが。だが、己が作った光を持たない眼球が俺を見返す時、その瞳に映る俺の目には明らかに魂が宿っていて、俺は作られたばかりのその目を握り潰す。中には崩れるその時に手を傷つけるものもあった。だがそれは、まるで意志を持っているようで気に食わなかったし、何より、その傷が治ることが、己が愚行を繰り返すことの証明に外ならず、すぐに手が傷つかない素材に切り替えた。
延々と繰り返す。目を作り、目を潰し、作り、潰す―――愚行だった。魂を嫌うがゆえのその行為すら、所詮己の愚を示す、己の魂を示すことに外ならなかった。
ひどい矛盾だ。俺は吹き込まれた魂の愚行を嫌うがゆえに己の中にそれを見つける。
そして俺は、世界に意味などないことを知る。
***
「娘だヨ」
そう言われた少女は、ひどく暗い色をした瞳をしていた。まるで、何度も握り潰した眼球の残骸のように。
直感した。彼女こそ、至高の美だ、と。
直感―――つまり魂に準拠する薄汚い思考は、しかし彼女を人形だと見抜いた。漆黒の髪も、陶の肌も、細長い指先も、豊満な肢体も、そして、嵌め込まれた暗い色の眼球も、総て作り事だと直感した。
それは即ち至高の美だった。
果たして彼女は魂を持たなかった。
「なんて、美しい」
感嘆は口をついて零れた。
局長はそれに満足したようで、そして彼女は首を傾げた。それすらも彼女の美しさに拍車をかける。彼女は美しいということを知らないのだ。或いは美しいと言われることに特段の興味を感じないのだ。
二人が去ってから、嗚呼、と口中で落胆の声を漏らす。これから美しい彼女はこの薄汚れた世界に染まるのだろうかと思ったからだ。
しかし、すぐに否と心の裡で声を上げる。そんなことはない。彼女には「魂」がないのだから。創られた人体の理想形。そこに魂などという無粋な装置は組み込まれていない。どうだ、至高の美には何人たりとも触れることはできない。
それから俺の部屋には、彼女の眼球を模倣した多くの出来損ないが散在するようになった。握り潰すことは稀なことになった。徐々にそれらは彼女の眼球に近づく。しかし、近づくだけだった。俺を見つめる何十もの瞳たちは、しかし彼女の暗い色を完全に模倣することなど到底できはしなかった。
***
「これは捨ててもいいものでしょうか?」
「あ?」
恫喝のような声が出たのは、自分がだいぶ疲れていることの証左で、同時に八つ当たりだったが、彼女はそれを気にしたふうもなく、手もとに目を落としていた。
研究室兼仕事部屋兼私室兼寝室、というぐらいの、雑多すぎる俺の部屋は、名実ともに雑多すぎた。それは認める。散在する書類、実験用の薬品、器材の山、試作品の何か……埋もれていないのは寝床くらい、という酷い有様の部屋の片付けは、ある意味急務だった。
が、しかし。
局長が、書類云々でこの部屋に来た時に、この惨状を目の当たりにして、派遣したのが、こともあろうか副隊長、局長の娘だった。
「あんまりだからネ」
「あの」
「あんまりにもほどがあるからネ!」
もはや有無を言わせぬそれは、提出書類を発掘するのに30分ほどを要したからかもしれない。というかそれ以外に理由が考えつかない。言い訳すれば、普段だったら部屋がいくら散らかっていても、書類等の大体の位置は把握しているからこそ、局長からのお咎めもないのだが、今回は徹夜続きで判断力も個々の場所の把握も鈍っていた。
その5分後には彼女がこの部屋に派遣されて、今に到る。
彼女が、こういった片付けなどは端からやっていく傾向にあるのは知っていた。部屋の隅の書棚から始まった整理は、手元にあるものを要る要らないだけで適当に放り投げる俺に比べて、ずっと効率が良かった。……知っていた、というところからあれだが、こうして俺の部屋の片付けに彼女が参戦するのは、一度や二度のことではない。
「失礼ながら、少しお休みになっては?」
案の定、彼女との片付け開始5分ほどで、唯一無事だった寝床を示された。彼女が派遣されてこの部屋の片付けが敢行される時、というのは、ほとんどが徹夜続きで、己独りでは満足に片付けられる状態の時ではないから、これはある意味、『休め』という指令なのかも知れず、だからこそ局長は敢えて上官である彼女を差し向けるのかも知れなかった。
「お嬢ちゃんが片付けてるのに、か?」
だが一応抵抗はしておく。さらに言えば、俺は彼女のことを個人的関係性に於いて上官だなどとは微塵も思っていないので、局長の目論見はある意味砕かれていた。
「お身体に障ります。お休みになっていないのでしょう?」
「……」
だが、ある意味でこれは局長の目論見通りなのかもしれなかった。―――嫌々ながらの目論見、というか。
『そうは言っても娘は渡さんヨ!』
と言われた時には、軽く目眩がした。それから頭がガンガン痛んだ。言われなくてもそんな気ありませんよ、と即答できれば良かったものの、応えられなかったのは目眩と頭痛の所為だと今更になっても言い訳しておきたい。
そんなこんなで、局長は、俺が彼女にすこぶる弱いのを知っている。だからこそ、苦肉の策、最終手段として派遣されるのだ、と思う。
彼女の言う通り、徹夜で疲れているのは確かだ。片付けにおいて役に立たないのも間違いがない。だが、かといって、横になる訳にもいかず、寝台に腰掛けて、粗方片付け終わった部屋の、上の方から順繰りにはたきを掛ける彼女をぼんやり眺めていた。
手持無沙汰に見えたのだろう。「煙草は」と短く問われたが、まさか掃除中に煙草を吸う訳にもいかないだろう。適当に手を振って大丈夫だと示すと、彼女はまたはたきを掛ける作業に戻る。彼女が小さく声を上げたのは、そんなふうにしている時のことだった。
「なんだ…?」
捨ててもいいものか、という問い掛けは彼女の掌中に在る物に掛かっているらしいが、こちらからは見えない。だからそれは、相当に小さいものと思われた。
トンと寝台を降りて、不思議そうな眼をしている彼女に近づく。近づいて、それから、嗚呼、と短い嘆息が漏れた。
(嗚呼……)
「どうしました?」
彼女は相変わらず不思議そうな眼をしている。その瞳に間違いなく俺を映して。暗い色の美しい瞳は、間違いなく俺を捕えていた。
暗い色の
深い色の
冷たく
静かに
塗り潰され
透き通った
相反する全てを内包した
この世の美を全て呑み込んだ
美しい瞳
俺はその瞳に小さく笑いかけた。緩やかな弧を描いたその俺の顔を、彼女がその瞳に映し出して、もうずいぶんな時が経った。少なくとも、その初めての日を忘れてしまうくらいには、永い月日が経っていた。
だから、彼女の手の中の小さなそれは、昔日の羨望であり、渇望であり、同時に、過ちだった。
自分でも忘れてしまうほどの永い歳月。
永い永い羨み
永い永い渇き
そして
永い、美への過ち
不思議そうに見返す彼女の瞳に映り込む魂の欠片が、小さく、だけれど、確かに訴える生を、俺は美と思う。永い歳月は、それを美しいと呼んだ。
魂なんて要らないと、ずっと思ってきた。
その瞳に何も映らないことを、ずっと望んできた。
だけれど、その瞳に己の魂が映る度に。
だけれど、己の瞳に彼女の魂が映る度に。
彼女はまだ不思議そうに俺を見返している。先程まで散らばっていた書類やら本はきちんとあるべき場所へ戻され、実験器具も薬品も、棚に収まった。それらの総てが、己の、彼女の、息遣いを吸い取って、この部屋に静謐をもたらす。
その静謐の中で、俺は彼女の掌に手を伸ばした。
ぱりん、と、無意味な球体が崩れるかそけき音が、その静謐の中に落ちる。
微かな痛みが指に走った。
緋色の血が、一条流れた。
「昔の話だ」
静かに言ったら、今度は驚いたような目をした彼女が、その脈打つ傷口に手を伸ばす。
その、確かな生を示す鮮血が、彼女の白い陶の肌を彩った。