三ツ
『……だから……』
視界が揺らいだ。赤いものが見える。
血だ、と気が付いた。
だが、臭気はしなかった。
それなのに、ひどく頭がぐらついた。―――ぐらついた、ような気がした。
それとも、己が血を流しているのだろうか、とぼんやり思った。だから血が足りなくて、などと。だが、やはりどこも痛まなかった。
代わりに、ひどく気分が悪かった。
『三席…三席…』
声がした。先程の声は自分の声で、その中にいつも聴いている声が、した。
***
「あ?」
「阿近三席。お目覚めですか?」
気が付いたら、己の体を揺さぶっていたらしい自隊の副隊長が、不安げな視線で俺を見下ろしていた。冷や汗が背中に張り付いている。それで俺は、先程までのあれは、夢だったのだと覚った。
「悪い」
起き上がったら、安心したらしい彼女は、いつも通り手を揃えて、不安げな表情を収めた。
「お水を…」
「いや、悪い。大丈夫だ。それより今、何刻だ?」
「未の三つ時です」
水を辞して言ったら、彼女は首を傾げて言った。未の三つ……そう聞いたところで、何時から眠りこけていたのか分からなかったから、どうしようもなかったが、少なくとも、昼日中から寝入っていたらしいことだけはよく分かった。
「書類だな」
自分に言い聞かせるように言って、判を押すべき書類に手を伸ばしたら、その手を彼女のほっそりした手がつかんだ。
「なんだ?」
「体温が、少々高いですね」
「あ?」
「……脈拍も速いようです。顔色も優れません」
ほとんど事務的に彼女は言った。だが、その言葉一つ一つに、焦燥がにじんでいるのが分かるのは、長い付き合いだからだろう。
「んだよ」
だが、それはそれで決まりが悪くて、いつも通りの口調で言ったが、彼女はやっぱり首を傾げた。
「体調が悪いのですか?」
気にしたふうもないのは、こちらも長い付き合いだからか。だから、隠すのも馬鹿馬鹿しくなって、俺はうめくように言った。
「あれだよ」
「あれ…?」
「夢。悪夢みたいな」
子供じみた言い訳をしたら彼女は不思議そうな顔をした。そうしてそれから、ずいぶん残念そうな顔をした。
「夢ですか」
「ああ」
「それではどうしようもありませんね」
何が、と訊く前に、ずきりと頭が痛んだ。変な時間に寝たからだ。安定しない睡眠は、頭痛を誘発する。
(違う…だろ…)
それなのに俺は、その頭の痛みやぐらつきが、その夢の延長線上にないことを切に願っていた。ひどく、莫迦げた思考回路。もう少し科学的に生きたいものだ、と冷静な思考が嗤った。
「夢では、私にもどうしようもありませんね」
そんな思考を知ってか知らずか、彼女は俺の額にひんやりしたその手をのせて、それからそのまま、思うよりずっと強い力で、俺を長椅子に倒した。
「おいっ!?」
「少し、お休みになった方がよいかと思います」
「……あ?」
今日は、珍しく、彼女の感情の波が大きいように思えた。今は、少し苛立っているようだった。苛立ちなど、滅多に見せない感情だ―――そもそもにして、どんなものであれ、彼女が感情を露わにしている、と気が付ける者の方が少数なのだけれど。それに気が付ける自分が良いとか悪いとかではなく、ただ、本当に長い付き合いだ、とだけ思った。思ってそれから、先程まで馬鹿みたいに寝入っていたのだから、こうしてそこに戻されては堂々巡りだな、などという、どうでもいい類のことを、ぼんやり思った。
「私は、戦闘能力を高められていますが」
「まあ、な」
この状況でそれを否定できるものか。額に手を添えられた程度で倒されるこの状況で、と思ったが、単に俺が弱すぎるのかもしれない、とも思えた。
「他者の夢に干渉する能力は、付属していません」
そりゃそうだ、と言おうとして、それから妙に可笑しな気分になった。彼女には、それくらいあったっていい気がしたからだ。いい気がして、だけれどそれから、そんな能力がなかったことが、ひどく嬉しくなった。
「バーカ。上官に夢まで覗かれたら、おちおちサボりも出来ねえだろ」
からかうように言って、額を抑える手に触れたら、彼女はハッとしたようにその手の力を弱めて、それから困ったように眉を下げた。
「でも……」
「いいよ、別に」
そこまでしなくとも、というよりは、そんなに心配しなくとも、という気分だったが、そうやって彼女が心配するのなら、悪夢を見るのも悪くはない。
そもそもにして、己の終焉になど、更々興味はないのだから。
どこで、どんなことになろうが、どうでもよかった。だが、只、その終焉を想う者がここにいるという事実だけで、十分だった。
夢と、現実なら、現実を択ぶ。
その程度の良識は、まだ持ち合わせているらしかった。
或いは、その程度の未練は、まだ持ち合わせているらしかった。
「副隊長殿のお言葉に甘えて、少し寝る」
「……はい」
「次の三つ時になったら起こしてくれ」
「分かりました」
彼女の手が、今度は静かに瞼に触れた。子供じゃあるまいし、と思ったが、それは思うより心地が良くて、俺はゆっくり目を閉じた。
瞼の上に重ねられた白い手が、真っ黒な闇を作る。やっぱり、半端な時間に寝たからだろう、まだ少し眠い。このまま、言葉通り次の三つ時まで眠ってしまおうと思った。書類は、それからでいい。あとは判を押すだけだ。
「おやすみなさい」
透き通るような声がした。雑多な夢幻を、打ち消すほどに透き通って玲瓏な声が。慣れ親しんだそれに、俺は小さく応じる。
「おやすみ」
彼女の作りだす闇の中で見る夢など、有りはしないと、その常闇の中で、静かに思った。
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紛い物の終焉の話。