追分心中


「院?」

 私は夕飯の生姜焼きに箸をつけて言った。いん。今、彼の口から出てきた言葉だった。

「行くの?」
「その予定だ。教授の推薦がもらえそうだから」
「そう…」

 大学3年、就活云々が机上に上がる頃だというのに、のんびり構えているな、くらいに思っていた彼は、大学院に進むのだという。
 寝耳に水、とまでは言わないし、大体予想はしていたけれど、それは少しばかり驚きを感じることではあった。

「ちょっとびっくりした」
「全然びっくりしていないように見えるがな」
「そう?」

 私がちょっと笑ったら、それは肯定としてカウントされたらしい。蓮二さんも少し笑った。別に、否定したい訳ではないから、それで良かったけれど。
 蓮二さんは、大学に入ってテニスを辞めた。すっぱり、と言っていいくらい。たまにアマチュアのクラブやストテニに顔を出すが、概ね講義が忙しい、と言っていた。
 彼がテニスを辞めた、というか『諦めた』のは、多分、旧友であり戦友である人が、プロプレイヤーになったからだと思う。それが、引き金だったような気がする。
 「大事な友人が遠くに行ってしまう」と彼はその時言った。私は、海外に行くその人のことだと思って訊ねたら、「少し違う」とためらいがちに言われた。―――それで、全部分かってしまった。遠くに行ってしまうのは、その人ではなくて、彼の中の『テニス』というものそのものなのだと。分かってしまうくらいには、彼のことを知っているのかもしれなかった。或いは、彼だけではなくそうやって少しずつ‘テニス’から遠ざかっていく人たちを、あんまりたくさん、あんまり近くで見ていたからかもしれなかった。

「大変ね、これから」

 私は呟くように、私自身に言い聞かせるように言った。

「ああ……洗い物は今日は俺だな」

 ごちそうさま、と蓮二さんはいつも通りに言った。
 彼が選んだように、私も選ばなければならないのだと、知っているから、彼は話をはぐらかすのだと思った。思うも何も、それ以外に、私の言葉の裏側に気付いているのに、彼がそれを知らない振りをする謂れはなかった。


***


「大事な人が、遠くに行ってしまうかもしれないの」
「……うん」

 彼は、ローテーブルでレジュメを作っていた。その彼に、私はコーヒーを淹れて、そう言った。返ってきたのは、生返事ではなくて、はっきりした意思を宿した返事だった。
 私は、砂糖の入っていないコーヒーを彼に渡して、砂糖のたっぷり入った自分の分を一口飲んだ。そうして、全く関係のないようなことを言った。

「こういうの、なんて言うんだっけ?道が二つあって、別れ別れになるところ」
「追分、かな」
「そう、それ。……追分」

 確か、街道が左右に分かれるところ、と私は小さく呟く。単位のために取った民俗学だか何かの授業で習った気がした。もしくは、高校の日本史にでも地名として出てきたのか。今となっては判然としないけれどその『追分』が、私の生活や人生に、深い意味をもたらすことはないのだろうな、とは思っていた。

「追分で別れたら、また会うのって難しいかな」

 呟いて、もう一口甘いコーヒーを飲む。彼も、思案するように真っ黒なコーヒーを一口飲んだ。そのコーヒーの味は、分からない。

「分からない」

 少なくとも、彼は街道の分岐点で別れた人と、ひどく奇妙な形で再会している。だけれど、テレビの中で躍動する、そのテニスプレイヤーを見つめる彼の視線があまりにも透明だったから、その時私の中には、恐怖に似た感情が落ちた。
 もし、再会の機会があった時に、あんなにも透明な視線を向けられて、それを受け止めて、耐えるだけの自信が、私にはなかった。

 透明、というのは、無関心、ということではない。
 ただ、世界が違うと根本的に理解した視線だった。

 だから私は、彼と住む世界が違ってしまうことに、恐怖しているのかもしれなかった。

 彼が、『テニス』を諦めたように、私が『彼』を諦める日は来るのだろうか。
 諦めないのだとして、じゃあ、同じ道を歩けるの?分かれ道で同じ方を選べるの?


 同じ道を歩けないなら―――

「同じ道を歩けないなら―――」

 私は、その一言にぎょっとした。私が言おうとしていたことを、まるでなぞるように、彼が言ったから。だけれど、その後に続く言葉は、私が考えていたのとは全然違っていた。




「追分で心中でもしてしまおうか」




 彼は、薄らと笑った。ひどく哀しげに。
 唄うように、そう、笑って言った。




「ごめんなさい」

 だから私は気が付いたら謝っていた。謝って、そうしてそのまま、彼を抱きしめる。蓮二さんは背が高いから、ぽっきり折れてしまいそうだ、なんて思った。

「怖かったの、私も」

 私‘も’、というその一言が、間違いでないなら、多分こじれてしまった夕飯からの私たちの会話は、綺麗に噛み合うのだと思う。

「住む世界が同じになるはずないじゃない。私、蓮二さんに何を期待していたんだろうね。私と蓮二さんは、全然違う人間なのに」
「……ああ」
「そのままでいいの」

 追分の向こう側に、本当は差異なんてない、と、私たちは知っている。

 知っているはずだった。

 そのプロプレイヤーと、彼が変わらずメールをしているのも。
 私の周りの『天才』と呼ばれた人たちがテニスを辞めていったのも。

 彼の視線が透明なのは、諦めではないと、知っているはずだった。
 一つ一つの事象は、その度に引き攣るような痛みをもたらすけれど、それは諦めではない。明らかになっただけ。
 一人一人の立つ舞台が、違うのだと、様々な事共が明らめただけ。
 同じで居たかった。でも同じでは居られないの。

「変なの。蓮二さんの院の話、最初からお祝いしておけばよかった。だってそうじゃない。蓮二さんはそっちでプロになる可能性があるってことなんだから」
「そうだな」

 肯定するその声は、自戒に似ていた。
 一人一人の世界が違うと、舞台が違うと、青春と呼ばれる時を経て、知ってきたつもりだった。だけれど、私も彼も、まだ少しそれが怖い。
 新たな世界や、全く違う舞台に立つことが。
 私だって、彼だって、同じ場所には居られないのに。

「だったら、お互い違う場所にいてもそこに私も、蓮二さんもそれぞれ来るっていう方がお得じゃない」

 だから私も、自分自身に言い聞かせるように言った。完全に一致は出来ない。そのことは理解した。だけれど、その代わり、互いのその‘違う場所’に、行けるだけ歳を重ねたつもりだった。昔は、理解したって行けなかった気がする。子供とも、大人ともつかない曖昧な歳の頃には。今だってまだ、自分が大人だと声高に言うことは出来ないのだけれど。

「お得、か」
「そう。明日も明後日も、その先もずっとお得なの」

 そう言ってから、私はカレンダーを見遣る。明日は土曜日だった。

「コーヒーは、明日じゃないとお得じゃないけれど」

 ポイントが2倍だから、とおどけて言ったら、彼はその真っ黒な、私には見当もつかないほど苦いコーヒーを飲み干して、笑った。

「じゃあ、もう寝よう。明日に備えて」

 明日が来ることを、約束してくれる彼の声が、なんだか優しかった。

「そうね。明日に備えて」

 その日々が、続くように。




「おやすみ」




 祈るように、私は彼の背中に呟いた。




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追ひては分ける、道もがな