棲家
眠らないの
眠れないの
二つの言葉の意味合いは、だいぶ違うものだったけれど、私にとってその違いは、過分に曖昧で、殆ど混同されているものだった。
テレビすら、一日の仕事を終える時間が迫っているというのに、私はまだ、ぼんやりと数年前に0と1に変換された光の羅列を眺めていた。
***
「風邪、引きますよ」
私はテレビから視線を逸らさずに、私の座るソファの前にどさっと座った同居人に声を掛ける。
「んー」
彼からは生返事しか返ってこなくて、だけれど私もテレビを観ながら言うのだから、お相子だな、なんて、やっぱりぼんやり思った。
ゼミの飲み会で午前様の彼を待っていた訳でもないが、彼は帰ってきたら起きていた私に『ただいま』とだけ言って、いつも通りシャワーを浴びた―――酒を飲んだ、なんてそんなこと、誰にも判らないようないつもと同じ動きで。
ザルめ、と思ったけれどこれもまたいつものことなのであえては言わない。
その代わりに、彼の首元に掛かっていたタオルを取って、少々乱暴に、生乾きどころか水滴の滴っている髪を掻き混ぜてやった。
「おおきに」
彼はそうだけ言って、躾のされた大型犬のようにされるがままになっていた。
私が乱暴なのがいけないのか、たまにタオルからはみ出して触れる髪は、普段からわりと柔らかいが、水を含むと余計柔らかくて、かつ太かった。
私の髪は細くて、絡まりやすいから、こうやって彼の髪に触れていると、いつも、手入れが楽そうだわ、と、他愛もないことばかり考えてしまう。
ひとしきりふき終わったが、初夏の深夜はまだ肌寒い。風邪を引かれたら迷惑千万なので、私はドライヤーを取ってこようと立ち上がった。
「相田さん、これ観とる?」
立ち上がった私にメガネを外しているから見えづらいのか、いつも以上に目を細めて、テレビを凝視している今吉さんが問い掛けてきた。だからか、私は少しだけ乱雑な気持ちになって、「別に」と、小さく言うと、ドライヤーの置いてある洗面所に向かった。
***
部屋数もあるし、一つ一つの部屋も広いが、学生同士のルームシェアで借りられる部屋だ。安普請には違いないから、生活家電を入れた時、ドライヤーは私がもともと使っていたものを持参した。静音設計のやつ。音は控え目ではあるが、それなりに強めの風が出るから今も昔も重宝していた。
とはいえ、彼が自分からドライヤーを使うことなんて滅多になかったけれど。
コオーッと、控え目な音の温風が、彼の髪を舞い上げる。
テレビは、消えていた。
「競馬あるじゃない」
「んー」
「どの馬が勝つと思う?」
私は、先程まで点いていたテレビの内容を反芻するように言ってみた。どのレースで、とか、そういう細かいことは全然分からなかったのだけれど、次の日曜にたくさんレースがあって、大きな賞もあるのだということだけは、何となく観ていた先程の番組から分かった。
だけれど、こんなことを訊くのは、競馬の番組だったのに、惜しげもなくテレビを消した彼が、少し恨めしかったのかもしれない。
「さあなあ」
彼は案の定、どのレースで、とも、いつの、とも訊かなかった。興味なんて、ないみたいだった。
「お仕舞い」
だから私は、余計に乱雑な気持ちになって、彼の長さのある髪を引っ張って、乾いているか確認してやる。そうして、乾いていたからドライヤーは「お仕舞い」にした。
「いったあ!やさしくしてや!」
素っ頓狂な声を上げた彼に構わず、私はドライヤーをたたむ。テレビ以外に、夜を乗り切る方法を考えながら。
「おいで」
だから、ドライヤーを片付けてリビングに戻った途端に掛けられたその一言は、ずいぶん甘い毒みたいだった。
今晩は眠らないの。
今夜は眠れないの。
「なに」
この部屋には、私以外の住人がいるのだ、と私はこんな時にだけはっきりと認識する。ここを棲み家にする人間がいるのだ、と、当たり前のことを思う。
私の静かなドライヤーを、必要とする人間が私以外にもいるのだ、と。
だから私は、その言葉に逆らえずにとぼとぼとソファに近づく。そうしたら、そんなに強くはないけれど、明確な体格差によってもたらされた力強さで、私はぽすんと彼の腕の中に納められた。
「昔話、してあげる」
馬鹿にされているみたいだったけれど、彼は当然のことみたいにソファの上で私を抱えて言った。乾かしている時は気が付かなかったのに、お酒の匂いの代わりに、私がいつも使っているシャンプーの甘い香りがするのに気が付いて、間違ったのね、と思ったら、なんだか可笑しかった。
「なんの?」
「トウオウスラッシュっていう馬の」
「バカじゃないの。そんな馬いないわ」
なんだか、眠い。
これから酔っ払った彼の話に付き合わなければならないというのに、ひどく眠たかった。
眠らないの。
眠れないの。
「馬鹿やのうてウマ。せやったらセイリンスラッシュでもええよ」
彼はますますふざけたことを言った。
「そんな馬、さっきのテレビに出てこなかったわ」
私は欠伸をして言った。退屈な訳でも、興味がない訳でもないのに、ひどく眠い。
「そらそうや。相田さんの知らん馬の話やもん」
「そ…う…、どんなうま?」
訊き返した頃には、もう瞼が持ち上がらなかった。瞼の裏に、テレビ画面の中にいた、漆黒のしなやかな体躯の馬が過ったけれど、彼がこれから話すのは私の知らない馬の話だったな、と思い直した。
私の知らない、すごく速い馬。
私の知っている、ここを棲み家にする人。
むかしむかし、と、本当に馬鹿みたいに、スラッシュだかなんだか知らない馬の話を彼は始めた。
―――その馬がサラブレッドであることまで聴いたあたりで、私の意識は遠退いた。
「おやすみ」
小さく誰かが言った声だけが、意識の遠くに落ちていた。
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眠らないの。
眠れないの。