こほっこほっという小さな音で、柔造は目を覚ました。


半化粧


「んー」

 小さな物音に、目を覚ましたといえども、まだまどろみのうちにいる彼は、やっぱり布団に戻ろうか、なんてぼんやり考えながらぐずぐずとしていた。

 こほっこほっとまた音がする。

 それで彼はまた少し思考を浮上させた。そこで初めて気がつく。布団の中、隣にいるはずの、体温がない。

「ん?」

 そこで初めて、ぼんやりした思考がクリアになってくる。昨日見た天気予報では、今日は晴れ。だが、窓から朝日は入ってこない。それで枕元の時計を見たら、時刻はまだ4時過ぎだった。日差しはもちろん入ってこない時刻だ。眠いのも納得だったが、納得できない事案がある。

「まむし?」

 薄暗い部屋の中、小さく妻の名を呼ぶ。そうしたら、返事の代わりに、こほっこほっという音が、寝室の文机の辺りからした。
 それに寝起きのせいで少し霞む目をこすってそちらを見たら、正座を少し崩して、長い髪を普段とは違いゆるくまとめたシルエットが見えた。暗いが、それが蝮のものであることは明白だった。

「蝮?どうした?」
「すまん、起こし…」

 彼女は言い掛けたが、やっぱり小さく咳をして、その先を言う事が出来なかった。
 それに柔造は焦って起き上がり電気をつけて、立ち上がる。それに蝮は、申し訳なさそうに、こちらには来なくてもいいと言うように手を振ったが、柔造はもちろん従わず彼女のそばに座って、背中をさすった。

「じゅうぞ…ええから。うつる」
「ええ、なんてことないやろ。咳出とるやないか」

 そう言って、背中をさすりながら彼は蝮の額に手を当てる。そうして、渋い顔をした。

(少し熱いな)

 微熱、というところだろうか。

「起こしてすまん。ただの風邪や。ええから、寝とって。まだ早いもの」

 ただの風邪、というのに柔造は眉をひそめた。だってそうだろう、軽い風邪なら、こんな朝方に目が覚めることもないだろうから。大方、咳がひどくて目が覚めてしまったのだろう。微熱、咳…昨日は何ともなかったのだから、引き始めか。
 そう考えて、柔造は言った。

「横になると辛いか?ちょっと白湯持ってくるさかい。少し飲んだら落ち着くかもしれん」
「ええって」

 そう言ったが、やっぱりその言葉の最後の方には咳が混じってしまうのだ。それで柔造は、行儀は悪いがずるずると布団を引っ張ってきて、座る彼女の足もとにかけてやる。

「ええから。ちょっと待っとれ」
「ごめん」
「別に謝らんでもええやろ」

 心配させないように、笑い掛けて言ったら、蝮は申し訳なさそうに掛けられた布団の端を掴んだ。




 柔造の持ってきた白湯を飲んだら、ひりついていた喉がだいぶ良くなって、咳の回数も減った。

「もう大丈夫やから、寝て?今日も仕事やろ?ギリギリに起こすさかい」

 申し訳なさそうに彼女は言う。ギリギリなんて、遅くとも出勤の1時間前には柔造を起こす彼女の口から出る言葉ではない。

(そんなに気に病まんでもええのになあ…)

 柔造はそんなことを考えながら、彼女がさらに気に病むであろうことを口にした。

「今日休むわ。お前医者に連れてかんといかんし」
「何言うてはるの。医者くらいひとりで行けるわ」

 気丈に言い返してはみたが、こういう時の彼の考えを曲げさせることは、大層力のいることなのだ。況して、弱っている蝮にどうこうできる問題ではなく、彼女は文机から布団までの短い距離を、大変恥ずかしい形で運ばれることになった。

「ちょっと、やめや!」

 いわゆる御姫様抱っこである。しかし、蝮が抵抗するまでもなく(というかほとんど数歩で)、布団に着地させられ、布団を掛けられる。

「病人は大人しくするべきです」
「勤め人はきっちり働くべきや」

 粛々と、淡々と言われたので、余計に顔を紅くしながら言い返したが、彼の大きな手が瞼に載せられる。

「まあええやろ。寝とき」

 その一言に、どうやったって抵抗できないのだ、と思ったら、何だか悔しかった。






 それでも結局、蝮は7時過ぎには咳のために目覚めることになる。熱も少し上がってきて、ぼんやりとした視界の中で枕元を見たら、夫が座っていて、蝮は小さく声を上げた。

「あんたもしかして、ずっと起きてたん?」
「ん?まあな」

 何でもないことのように言ったが、一大事だ、と蝮は思う。その焦りが顔に出ていたのか、ぱちんと額を彼の指がはじいた。

「そんな顔すな」
「やって…」
「とりあえず、何か食えそう?おかゆ炊いてもろたから。それ食ったらしんどいやろけど医者な」

 てきぱき言ってしまう柔造は、やっぱり休むのだ、とぼんやりした頭で考えて、蝮はなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それを、小さく読み取って、柔造は少しだけ笑った。

(気にせんでええのに。いらん気遣い。やって―)

 その先をいつも考える。だって。
 様々なことがあった。種々の事どもは、未だ、この年若い夫婦に降り懸かるべき事案を有していた。それはこれからもずっと変わらないのだろう、と柔造は思ったりする。だから、彼女の苦悩は尽きないのだ、と。

(ぜんぶ…全部、ぶっ壊したろ、とか思わんでもない)

 そういう時に考える、暴力的で、無粋で、どうしようもない感情があることは、どう考えたって嘘じゃない。そう、この薄く、弱く、そして何より強い肩に様々な物事が圧し掛かっていることを思う度に、彼は思う。
 だけれど、とも思う。その先を考えるようになった今では、その凶暴な感情よりも先に顔をのぞかせる思考と感情がある。それは、理性とか、そういう格好の良いものではないが、多分、凶暴に、彼女を傷つけるもの全部、壊してしまおう、という馬鹿みたいに必死で、馬鹿みたいに安直な感情よりは幾分成長したな、と彼は心の裡で思ったりする。

「とりあえず、朝飯な。食える分だけでええから」
「ごめん」

(ごめん、なんて、言わなくていいのに)

 小さく思って、それでもそれを口には出さずに、彼はちょっとだけ微笑んだ。






 医師の診断は『風邪ですね』の一言で済んだらしい。診察室についていこうかと言った柔造を、蝮は人目もはばからず叩き落した。そういうことで、会計までの間、彼女は診察内容のことを柔造に説明していた。

 曰く、蝮がひいているその風邪(咳と熱が出る風邪だ)は、今ちょうど流行り出している風邪らしかった。そうして、風邪は、薬で症状を緩和は出来るが、薬で完全に治せるものではなく、十分に休養をとるように、と言われたらしい。『薬で治るものじゃないからね』という昔から世話になっている町医者の台詞が、蝮はずいぶん引っかかるらしく、そこを何度も繰り返した。

「薬じゃ駄目てどういうこと?」

 そうして、駄々をこねる子供のように蝮は柔造に訴えた。その訴求にどう応えたらいいのか分からず、柔造は首を傾げる。どこもおかしいところはないように思われたからだ。

「蝮…どういう意味や?」

 休めってことやろ?という単純明快な事柄は、別段言うべきことではないように思われて、とりあえず聞いてみたら、憤慨したふうの彼女は言った。

「薬飲んでも、休んでへんといかんって言われてん。今日の洗濯物とか、御夕飯とか、休めって!」
「あちゃー…」

 律義な彼女は、全く変わっていなかった。出張所に勤めていた頃も、多少の風邪をひいても、人にうつさない範囲であれば、職場に来ていて、その度に錦と青は『姉様は無理しすぎなんや!』と叫んでいたし、究極的には所長と副所長連名の特別休暇令という訳の分からない命令が下されたことも一度あったのを、柔造は思い出した。

「変わっとらんなあ、お前は」
「何よ?」
「休める大義名分があるのに休まへん理由が分からん」
「馬鹿にしとんの?」

 実際に言いたいことはもっと別のことだったが、眉を吊り上げて医者を、そして柔造を批難する蝮の頭を、柔造はぽんぽんっと撫でた。

「休んだらええやろ。朝も言うたけど、病人は大人しくしているべき。大人しく、家族に甘えとけ」
「やって…」

 やっぱりもう一度文句を言おうとした彼女は、最後の一言なんて聞こえていないのかもしれない、と彼は思った。だけれど結局、言おうとした文句は咳に阻まれて「ほらな」と柔造に言われるしかないのだった。




「おかん、蝮頼む。すぐ戻るさかい」

 玄関口で柔造がやおら叫び出したので、蝮はちょっと驚いて振り返る。

「ほら!やっぱり仕事やろ」

 振り返ったら携帯を弄っていたので、風邪声で彼を詰ったら、彼はふふんと笑った。

「ちゃうわ。女将さんにメールしてん」
「え?」
「ほらほら、風邪引きさんを外に出しとく阿呆はどちら様?蝮ちゃん、朝の分の薬飲んだ?飲んでもええと思うから白湯でも出すわ」
「すんません」
「なんで謝るの。ほんで、柔造、お前はどうするの?」

 はきはきと母が言ったので、柔造は預けても安心だな、と考えて、言う。

「虎屋行ってくる」






 薬の副作用もあってか、蝮はとろとろとした眠気と、収まりかけた咳によって、わずかな眠りに落ちていた。でもそれは至極浅い。浅かったから、廊下を歩く足音に眠りは覚めてしまう。

「お前、寝ろや」

 だから、廊下を渡って寝室に入ってきた柔造は、目を開けてこちらをじーっと見ている蝮に、開口一番そう言った。
 蝮は蝮で、じっとそちらを見るくらいしか出来ることがなくて、それからこほっこほっと咳をした。

「ほら」
「ええの。寝たってなんとなく、目、覚めてるみたいなもんやから」

 だから、困ったように蝮は弁解する。何だか子供の弁解のような言葉を、今日起きてから何度聞いたことだろう、と柔造は思った。
 だが、風邪を引いた時に、日中眠ろうとしても眠り難いのだ、というのはよく分かって、彼は布団の横に座った。

「じゃあ、起きられるか?咳にもそっちの方がいいかもしれんから」
「ん」

 朝よりはずっと素直に、蝮は起き上がった。それを支えて、手に持ってきた盆を彼は床に置く。

「それ何?」

 不思議に思って蝮が訊いたら、柔造はニッと笑った。

「虎屋からもらってきてん」
「?」

 ペットボトル大の魔法瓶と、湯呑。それを見ても、多分、温かいものなのだろうという予測しか、蝮には出来なかった。
 そんなことを考えているうちに、柔造は魔法瓶から液体を湯呑に移した。それはやっぱり湯気を立てていて、それで―

「それ、あれか?苦いお茶?」

 蝮は明らかに嫌そうに顔をしかめて言った。それに柔造は可笑しげに笑った。

「そうや。察しがよくてよろしい」

 それは、湯液だった。薬草をいくつか煎じつめたそれを、子供たちは『苦いお茶』と言って敬遠していた。だけれど、大人たちは、子供が風邪を引くとそれを飲ませようとするのだ。薬草茶とでも言うべきそれは、薬ほど劇的な効果を現す訳ではないが、緩やかに身体に効く。例えば痰、咳、悪寒などの風邪の症状に効くような薬草が配合されているのだ、ということは、後々になって(というか、竜士を始めとする子供たちに飲ませる立場になって)知ったことだった。
 だが、それは本当に美味しくない。進んで飲みたいものではなかったから、蝮は顔をしかめたのだ。

「飲まんとあかん?」
「飲ませてやるわ」

 蝮の抵抗など知らないというふうに、柔造は湯呑彼女の口許に持っていく。子供じゃないのだから、と彼女は自分に言い聞かせるように、口を薄く開けたら、たちまち温めのそれが口の中に入り、喉を抜けていった。

「苦い…」
「そやろ」
「柔造!」

 飲ませておきながら、からかうように笑った彼に、赤面して文句をつけたら、柔造はやっぱり笑いながら、湯呑を口許から離して、顔を近づけた。

「苦いの我慢したからご褒美な」
「え…んっ」

 やっぱり抵抗する間もなく、彼は蝮の少しだけ開いた綺麗な唇に、口付けた。

「…んっはっ…なにするん!」
「おおー、やっぱ苦いな。俺は飲むの勘弁や」

 唇を離して、それから彼は、他人事みたいにそう言って笑った。それに蝮は、更に赤面する。まるで自分だけが恥ずかしがっているみたいだ、と思って。
 そうしたら、彼は指折り何か数えだす。

「医者行ったやろ。薬飲んだ。湯液も頑張って飲んだ…うん、あとは休むだけやな」

 風邪の場合の必要事項を列挙しているらしかった。「休むだけ」という一言に、蝮はぴくりと反応する。そういえば、医者での「休んでいなければならない」論議は半端になっていた気がした。

「もう大丈夫や。全部やったもの。よくなるから」
「だーめ。今日くらい俺に甘えてくれんかな」

 困ったように眉をしかめた彼女を、彼はゆっくり布団に寝かせる。頭だけは枕ではなく自分の膝の上に載せて、それから、さらさらとその銀糸のような髪を梳いた。

「お前は風邪で休み。俺はお前が風邪やから休み。こんなん、当たり前のことやろ」
「そないなこと…」

 言い掛けた彼女の唇に、小さく指をあてて、彼は笑う。

「やって、家族やろ?」
「じゅう…ぞ」

 何か言おうとして、だけれど、その『家族』という一言に、蝮は何も言えなくなってしまう。だが、柔造もそうだ。『家族』と言ってしまうと、それで全部片付く訳ではないのに、訳もなく、言葉を失ってしまう。
 どちらからも言葉が出なくて、わずかに時間が過ぎた。

 家族だから。だから、というよりも、家族になってくれたから。
 彼女が、人一倍、家族を守ろうとして、道を踏み外した彼女が、もう少しだけ違った形の家族になってくれたから、壊さずに済んだものがある。

(ほんとは―)

 本当は、彼女を傷つけようとするもの全部を壊してやりたいと思った。そんなの無理だと知っている。知っているけれど、これからもずっと、そうやって傷つけるものが、そうやって傷ついた傷口が、痛むのだ、と思いながらも、全部、ぜんぶ、遠ざけて、破壊して、そうしたら、彼女は―

(喜びはしない。悲しみはする。楽にはならない)

 分かっていても、遠ざけたかった。それは、彼女のため、というよりは自分のためのエゴだった。
 可笑しな話だが、彼女のことを考える時、彼はどうしてもエゴイスティックになる。相手のことを考えているのに、だ。

(俺が傷つくのが、怖いだけ、か)

 そうやって得られた解に、自嘲に似た笑みを浮かべて、それから彼女の白い頬をするりと撫でる。

「蝮が辛いと、俺も辛いから」

 だから、正直にそう言ったら、蝮は少しだけ口を尖らせた。

「あても、柔造が無理すんのいやや。あんたが無理すると、どうしようもなく心配になるから」

 そう言われて、柔造は虚を衝かれたように一瞬目を見開いて、それからゆっくり彼女の頬を撫でた。

「似たもの夫婦ってやつか」

 そう口に出して言ったら、自分の考えている種々の事どもが、どうにも馬鹿馬鹿しく思われて、なんだか可笑しな気分になる。
 それで彼は、身を折るようにして、もう一度彼女の唇に口付けた。

「柔造」
「なに?」
「風邪、うつったらどないするの」

 唇を離した至近距離で、そんな情緒の欠片もない台詞を言う妻に、彼は微笑んだ。

「風邪なん、うつせば治るんちゃう?」


半化粧咲く頃、穏やかに過ぎ―




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「半夏」カラスビシャク:痰きりなどに効果をあらわす。毒を含むため生食は不可

2012/10/16