季節の変わり目、秋物の果物が色をつけ始めるころ、瀞霊廷では、風邪が流行していた。


Prevalent


 阿近は『季節の変わり目は体調にご注意!』と書かれた小冊子に何とはなしに目を落とす。


『今秋の風邪
 症状の基本は、喉の炎症からくるもの。頭痛と発熱を伴う場合も多い。
 風邪には十分な休養が第一。適切な薬の処方は四番隊まで。
 注・今年の風邪は長引く様です。ご注意ください』

 冊子に書かれていたのはそのようなことだった。執筆者名の部分には『四番隊第七席』とだけある。名前を書きそびれたらしい。

「お分かりになりましたか?阿近三席」

 目の前でにっこりと四番隊の隊長が笑っている。それに阿近は少しだけ悪い予感の気配を感じた。―感じるも何も、四番隊の隊長が直々に他隊の三席如きを呼び出した時点で、良いことが起こるはずもないのだが。

「ええ。うちの隊士も何人かお世話になっていますから」

 とりあえず、と阿近は思う。この冊子を配るとか、注意喚起に力を入れてほしいとか、そういう内容のことだとしたら、同席の伊江村から連絡があればいい訳で、わざわざ隊舎の中、しかも執務室ではなく卯ノ花専用の診察室に呼び出されたからにはそういう内容ではないのだろう。

(ていうか、だ…)

 そう思ってから、阿近は冊子から目を上げたことでかち合ってしまった視線をそらそうとして失敗した。凄まじい威圧感だ。ただ笑っているだけなのに。

(ていうか、だ…逃げたい)

 正直な胸の内を口に出すのは、当然ながら憚られた.

「そこにも書いてあるかと思いますが、風邪というのは薬を飲むことも大事ですが、休養こそが最も大事な部分となるのです。人体において薬が全てを決することが出来ないことくらいは薬品を扱われ、実験をなさる阿近三席ならお分かりですね?」
「はい。それはもちろん」

 威圧感はもちろんある。恐怖すら感じる。だが、その理由が分からないのだ。まるで叱責のように響く言葉一つ一つの意味が、よく分からない。

「そこで、お伺いします。涅隊長は今どちらに?」
「は…?一週間の日程で黒腔に。それがどうかしたのでしょうか?」
「それでは更にお伺いします」

 質問は完全に無視されて、卯ノ花は相変わらずにっこりとほほ笑んで、わずかに首を傾げて見せた。妙齢の美人というのだろうが、ちっともそんなふうには思えなかった。この際自分に嘘はつくまいと阿近は思う。

(…怖い)

 たった一言で自分の心中を語れたことに驚くという行為でもって、阿近は何とか思考回路を繋げた。

「涅副隊長は今どちらにおいででしょう?」
「……は?」

 突然出てきた単語は、予想の範疇ではなかった。自隊の副隊長と言えば、間違いなく涅マユリの娘、涅ネムである。だが、今回の黒腔調査に彼女は同行しない旨が先日(三日ほど前だったか)言い渡され、隊の全権はネムに、技局の全権は阿近に、一時委譲されたのだった。それで阿近は至極真っ当な回答をした。

「副隊長でしたら、執務室にいらっしゃるかと思います。いらっしゃらなかったのでしたら、他隊へ何か重要書類等の回覧をなさっているのかと」

 隊長か副隊長でなければ閲覧できない書類も多い。執務室にいないなら、その回覧作業をしているのだろう、と思ったのでそう付け加えておいた。阿近はというと、権利を委譲されようがされまいが、ここ一週間ほどは技局にずっといたため、三席といえど執務室に行くこともなかったから、ネムがどこにいるのか、というのには、一般的で模範的な回答以外しようがなかった。

「さすが、察しがよくていらっしゃる。その通りです。涅副隊長は私のところに書類を持ってきてくださいました」

 その一言につうと冷や汗が背中を伝った。理由は分からないが、今日一番の恐怖を感じたからだ。

「それで、涅副隊長は今どちらにいらっしゃると思いますか、阿近三席?」

(なんでそれを俺に訊くんだ…)

 そう思いながら、精一杯の気力を振り絞って彼は言った。

「……分かりません」
「そうでしょうとも」

 卯ノ花はまたにっこりと笑った。そして、今いる部屋の奥、卯ノ花の私室があると思われる部屋の扉を指差した。

「涅副隊長はこちらにおいでなのですから」
「え…」

 それで阿近は、卯ノ花の怒りの理由はネムにあるのだということをおぼろげながら認識した。ネムに怒っている、というよりは、阿近に怒っているふうではあるが。

「副隊長、どうかしましたか?」

 それでそう訊ねてみたら、卯ノ花の顔から笑みが消えた。

「風邪です」
「……は?」
「涅副隊長は今秋流行中の風邪をひいていらっしゃいます。しかも、二、三日放置なさったご様子。とても隊にお帰しできる状態ではありません。ですので、今私の私室で処置を行っています」
「は…!?」

 その一言に、阿近は思わず目を見開いた。隊に帰せない?処置?俄かに混乱しだした阿近に、卯ノ花は長く息をついて、それから説明した。

「落ち着いていただいて結構。ただの風邪です。肺炎などは発症していませんから、命に別条はありません。ただ、喉の炎症が激しいのと、発熱、体力の消耗や頭痛等の症状が顕著です。私のところに来ていただいた時に、そのような症状があるのにお帰りいただく訳にはいきません。食欲もないから食べていらっしゃらないとか。処置と言いましたのは輸液です」
「いるんですか」

 身を乗り出すようにして言われて、卯ノ花はもう一度息をつく。

「ええ、お休みになっています。そのように心配なさるなら、日頃からもっと目をかけて差し上げてください。阿近三席は涅副隊長とご兄妹のようなご関係とか。涅隊長がいらっしゃらない時に、あなたが目をかけなければ誰が目をかけるというのです?」

 その言葉に、阿近は虚を衝かれたように息を呑む。ネムは、阿近にとって大事で大事で仕方のない存在だ。虚を衝かれたあとで、そんな存在を、蔑ろにしていた自分に、悔恨の念が押し寄せてきた。

「入ってもよろしいでしょうか?」

 阿近の問い掛けに、卯ノ花はやっと安心したように「もちろんですとも」と言って彼をネムの横たわる部屋に通した。






 ネムは眠っていた。大丈夫ですから、と言って抵抗したネムに輸液を投与して、それには安定剤…と言うべきか、眠りを誘う薬を混ぜた。だからネムは小さな寝息を立てて眠っていた。
 それを起こさないように、阿近はそろそろと寝台に近づいて、ゆっくり彼女の手を取る。

(ひどいな…)

 握った手は思った以上に熱くて、睡眠導入剤が入っているとはいえ、寝顔はつらそうだった。
 阿近は寝台の横の安っぽい椅子に座り、取ったネムの手を己の額に当てる。

「すまない。こんなになるまで気がつかなくて…」

 風邪を引くのも死神に近づけているのだな、となんだか瑣末で、研究者めいたことを考えたことも遥か昔にはあったが、今は、彼女が風邪を引くなんて一大事だ。
 熱を帯びた肌は少し汗ばんでいた。何度くらいあるのだろうか、多分、かなり高熱、などと考えながら、阿近はその手を小さく撫でた。

「ん…」

 そんなことをしているうちに、ネムがむずかるような声を上げた。それから薄っすら目を開けて阿近を見た。

「あー…起こしたか?」
「わざわざ来てくださったのですか?申し訳ありません」

 彼女は彼の顔を見るなり瞬時に状況を理解して、身体を起こそうとしたから、阿近は小さく起き上がりかけた肩を押す。ネムは抵抗しようとしたが、少しも力の入っていない彼のそれにすら、ネムの身体はあっさりと寝台に沈んだ。

「寝てろ」

 その声が、どこかぶっきらぼうに響いた気がして、阿近は少しだけ居心地の悪さを感じた。
 寝台に横たわるネムは、その彼を見返して、少し困ったように眉根を寄せて言った。

「業務でしょうか?」
「馬鹿!」
「っ…」

 ネムの一言に、阿近は驚くほど大きな声を上げた。多分、隣の部屋で卯ノ花が眉をひそめただろう。ネムも、びくりと肩を上げたので、それを見た彼は、さすがにきつく言いすぎたことを自覚して、決まり悪そうに彼女の白い肌を撫でた。声は叱責の色が濃いのに、そうやって撫でる手はひどく優しいのだ。それでネムは分からなくなる。

「その…すみません…」

 それで、小さな声で謝ってみた。考えてみて、思うのはこのくらいだった。しかし、それに阿近は彼女の白く細い手を取る方とは逆の手でこつんと小さく彼女の額を小突いた。

「謝るとことでもねーよ、バーカ」

 今度は幾分落ち着いていて、だけれど、呆れにも似た声音で彼は言った。

(呆れてるのは、コイツに、じゃなくて、自分に。怒ってんのも、ほんとは、コイツに、じゃなくて、自分に、ってとこが心底使えねえ男だ)

 先程は明らかな怒気が混じってしまって、今度は明らかな呆れが混じってしまったから、きっと彼女は困惑しただろうと思いながら、彼は小さくそんなことを考えた。

「業務なんて言うな、馬鹿」

 だから今度は、なるべくそういう、怒りだとか、呆れだとかを含まないように、努めて優しく彼は言った。

(本当に、どうしようもない男だ)

 言ってから、だけれど今度は、優しさのついでに懇願のような響きが含まれてしまって、本当にどうしようもない男だな、と自分自身で阿近は思う。

「でも…」
「業務は全部休みだ。いいな。隊長が帰ってくるまで隊の仕事は俺がやる」
「しかし、開発局が」

 呟くように言いながら、熱と痛みでぼんやりした頭の中で、ネムは気がついてしまった。


 休めとおっしゃるのでしょう? 私の分の仕事もなさるとおっしゃるつもりでしょう?


 そんなの駄目だ、と思った。自分の仕事は自分でしなければならないし、そんなの、彼が優しいのを知っていて、付け込んだみたいだ、と熱に浮かされた頭はそんなことまで考えてしまった。

「両方くらいできる。三席なめんなよ」
「書類…」

 もはや縋るように、彼が絶対実行できないであろう事案をネムは持ってきてみた。困って、それは出来ない、とでも彼が言って、この優しさを圧し折れればいいのに、と思いながら。それに阿近は、人の悪そうな笑みを浮かべた。

「サボり」
「え?」
「重要書類はサボる。『そもそも隊長がいないんで、捺せる判も捺せません』以上」

 以上、という言葉の響きは、思ったよりずっと軽かった。そうして、ふんわりと、業務や書類というものを彼女から遠ざけようとした。


 ぼんやりする。思考がぼんやりする。


 薬も手伝って、ネムはその『以上』という言葉の響きに、それ以上の思考を遮断されてしまった。

 ネムがなにも言わないのに、阿近はそれを了承と取った。
  昔から、ネムをこうやって言いくるめるのは得意だった。彼女は、周りが考える以上に頑固な部分があって、『命令』で言いくるめなければマユリすら手を焼くほど、殊、義務だったり責務だったりというような、重要と思われる事案に対しての責任感が強かった。そこを上手く折るのが、阿近は昔から上手かった。
 それは付き合いが長いからでもあり、近くにいるからでもあった。

(兄妹、か)

 卯ノ花に先刻言われた言葉を思い出し、阿近は小さく自嘲に似た笑みをこぼした。
 兄妹のように映っているのなら、それは多分正解だ。少しの嘘もそこには含まれていないのだから。だけれど、その一方で、それは本人である阿近にとっては『嘘』なのだ。

(付き合いが長くとも、近くにいても、分からないことや出来ないことはあるだろう?)

 小さく思って、だけれどそれはやっぱり別の自嘲になってしまう。現に、今回気がつかなかったではないか、と。

「休め」

 だから、そういう自分の感情にもけりをつけるように、阿近は短く言った。その一言には、今度こそ本当に、優しさしか含まれていなかった。

「ごめんなさい」

 だから、いつものように、困ったような声で彼女は言った。彼から、本当の優しさばかりを受け取ると、どうしてもこう言いたくなる。でもこれは、真っ当な意味での謝罪ではないのだ、といつだか思ったのをネムはぼんやりする頭の中で思った。

「ああ。お相子だ。無理をしたお前も悪いし、気づかなかった俺も悪い。すまない」

 だから、必ず彼も最後には「すまない」と返すのだ。その‘謝罪の言葉’の応酬には、深い意味がなくて、それでいて、二人にだけ分かる符号のようなものでもある。だけれど、そう返される度に、その度ごとに、ネムは泣き出しそうな気持ちになる。理由はまだ分からない。
 ‘ごめんなさい’ともう一度言おうとして、彼女は代わりに、彼が触れている手を小さく握り返した。そうしたら、彼はやっぱり優しく笑った。

(嗚呼―)

 熱を帯びた吐息は、感嘆に似ていた。

 これ以上彼の優しい顔を見ていたら、これ以上彼の優しい声を聴いていたら―

(泣き出してしまう)

 そんなことには耐えられそうもないのだ、と思って、彼女はゆっくり目を閉じた。
 やわらかな眠りが、落ちた。


He goes against the stream






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流れに反しても、その先の岸に彼と彼女は辿り着く。

2012/10/15