(あかん…ぐらぐらする…)
教壇の上では、数学の担当教師が例題の解説をしていて、それから前の席から順々に生徒が当てられている。宿題の答えを言っているのだ、と思った後で、相変わらずこの先生は当て方に何のひねりもないな、と友香里は思った。列を決めて、真っ直ぐに当てていく。それからぼんやりと、かけられているのはこの列なのだ、と思った。
前の席の子が答えを言った。次は自分に当たるのだ、とやっぱりぼんやり思って、彼女は宿題を書いてきたノートに目を落とした。
x=?y=?
連立方程式だった。答えの数字がぼやける。
(なんなんやろ)
「白石さん」
不調の理由が分からないまま、友香里は立ち上がろうとした。
x=?y=?
その先の記憶は、ない。
方程式X
誰かが英語でしゃべっている、最初に友香里が感じたのはそれだった。途切れた記憶の合間で、誰かが英語でしゃべっている、そう思った。
(数学の時間やんなあ…)
ぼんやりと思って、それでもそれを聞いていたら、それは、ただの英語ではなくて、旋律を伴ったものだということに気がついた。それから、ひんやりした感じが額の辺りでした。
薄っすら目を開けたら、合板の安っぽい天井が見えた。目を開けて、すぐに天井が見える状況なんて、学校生活ではそうそうない。
(どこ…?)
頭は、授業中同様まだぼんやりしていた。顔を動かそうとしたけれど、額に何か冷たいものが載っていて、動かしたら落ちてしまいそうだったからやめた。なんだか、本当にどうでもいいことにばかり頭が働いている気が、少しだけした。そういうことを考えること自体が瑣末なことのような気もして、やっぱり思考は正常に働いていないらしかった。
歌が聞こえる。聞こえてくるのは男の声で、流暢な英語の歌だった。
(歌…?)
それはほとんど呟きというか、鼻歌のような、歌っていたとしても、人に聞こえるような音量ではなかった。歌っている彼も、彼女を起こそうとか、聴かせようとかいう意図は全くなかったはずだ。
だけれど、熱を帯びた彼女の思考には、その歌声が脳に直接響くように聞こえた。熱のせいで聴覚が鋭敏になっているのだ、と、考えたのはやっぱり、授業がどうなったのかとか、ここはどこなのか、誰が歌っているのかとか、そういうことではなくて、感覚が鋭敏になっているという瑣末な思考だった。
(熱…?)
そこで、ぼんやりしていてわずかに痛む頭に友香里は気がついた。それから、身体全体が重く、怠いことに気がつく。掛けられた布団が重たくて、少し考えて、きっと自分は保健室かどこかのベッドに寝かされているのだ、と思った。
歌はまだ続いている。最初は耳や脳に響く様だったが、囁くような声は、少しずつ脳にやわらかに落ちてきた。
「眠い…」
思わず友香里は呟いた。声は、弱弱しくて、それで、掠れていた。
「寝とれ」
歌声が止んで、いつも聞いているような気がする声がした。それから、薄っすらと開いていた目蓋を、大きくて節ばった手が撫でて、閉じるように促す。
眠い。眠い。
目蓋に当てられた手が温かくて、友香里はとろんとして薄っすら開いていて目を閉じた。それを見てか、男の手はまた戻されて、彼が座った気配がした。それから、またゆったりとした歌声が聞こえてきた。
(子守唄、かいな)
また、とろとろと眠気がやってきて、友香里は眠りの淵に落ちていく。その中で、彼女はふと考えた。
(財前、の…声に似とる)
そう思ったところで、彼女の思考はまた途切れた。
授業中のことだ。数学だった。財前光は、授業中にもかかわらずイヤホンからイギリスのインディーズの曲を聴いていた。だがまあ、今日はこの列が当てられるのが決まっているから、宿題のノートに書いてある答えをちらちら確認していたところだった。
前の席の白石友香里がかけられた。
(ん?)
立ち上がろうとした友香里を見て、財前はイヤホンをはずした。わずかに、ふらついている気がしたからだ。
その予想はぴしゃりと的中した。
「白石さん」
「はい」
立ち上がろうとした友香里は案の定ふらり、と倒れた。後ろに、だ。
「っ!阿呆か!」
財前はとっさに立ち上がって、机から乗り出すようにして彼女を受け止めた。
彼女の体は、思った以上に熱かった。
「阿呆…」
財前はもう一度そう呟いて、それから教壇の教師に言った。
「こいつ、このまま保健室連れて行きますわ」
その言葉は、もちろん了承された。
財前は彼女を抱えて廊下に出ると、小さく舌打ちした。
「無理すんな、アホが」
彼女の体は、思うよりもずっと軽くて、青白い顔はなんだか普段のイメージからはかけ離れているので、友香里がか弱い存在のように思えて、それがどうにも彼の心を波立たせた。
保健室につくと、養護教諭が彼女を受け取ってくれて、まず検温をした。37度8分。高熱と言っても差支えないだろう。親に連絡しようといっても、こうやって倒れて、寝入って…昏倒しているのだ。時刻は午後最後の授業の真っただ中だ。寝かせておいて、放課後まで待った方が賢明だ、と養護教諭が判断して、彼女はベッドに移され、氷嚢を額に載せられた。
その間、保健室に入った時刻とか、体温とか、症状(多分頭痛だろうと財前は推測した)とかを財前が用紙に記入していた。
「少し落ち着いたみたいやわ。寝かせておいて、親御さんに病院に連れていてもろたら風邪て分かるやろし、薬ももらえるやろから」
「そうっすか」
「記入終わった?」
「はい」
そう言って、その記入用紙を養護教諭に渡すと、財前はすたすたと友香里の眠るベッドに向かい、ためらいもなくカーテンを開けるとベッド脇の椅子に座った。
「財前くん?授業まだ終わってへんやろ?」
たしなめるように養護教諭が言ったら、財前は少しだけ笑った。
「もうそろそろ終わりますやろ。サボタージュ」
その言葉に、何か言おうとして、それでも彼女は諦めたように息をついた。
「そんじゃ、サボタージュの財前くんにお願い。先生、今から職員室行って、いろいろせんとあかんから、白石さん見とってや。もちろん白石さんと財前くんがいても私は不在やから鍵は掛けておくし、不在のボードも掛けておくから誰も来うへんと思うから」
「了解っすわ」
やる気のなさそうな返事に、ため息をついたあと一つうなずいてみせて、彼女は保健室を後にした。
カキン、と、少なくとも財前にしてみれば間抜けと言っても差し支えないような、金属と野球ボールがぶつかり合う音がした。
それで財前は、いくつかのことを認識した。
まず、自分の耳に常駐しているイヤホンと小型のプレイヤーは、彼女をここに連れてきた時に教室に置いてきてしまったのだということ。
次に、保健室はグラウンドに面しているのだということ。(多分、けが人が出やすいからだ、と今更ながら彼は思った)
最後に、そんな音がするということは、部活の開始時間はとうに過ぎているのだろうということ。
「あー部長怒ってんかなあ。あれやんな、千歳センパイがサボって怒られんのと俺が怒られんのが同値ってのが納得いかへん」
寝ている友香里を見ながらぶつぶつ言って、財前は手持無沙汰というように、制服のポケットに入っていた携帯を取り出した。
サイレントマナーモードに設定してあった携帯にはけっこうな数のメールが入っていた。大半はクラスメイトから来るものが入るように設定されているフォルダに入っていて、内容は見なくても分かる。目の前の少女の容態についてだ。暇も手伝って一通一通開けてみたが、男女問わず、中身は文面こそ違えど、文意はほとんどが彼女を心配する内容だった(たまに、それのついでに「お前はどこで油を売っているんだ」というような指摘もあったが、彼は別に気にしなかった)。とりあえず、今は落ち着いていること、まだ保健室で寝ていること(そう書いたって、鍵が掛かっているから誰も来れやしないのを分かっていて、財前はそのことを書いた)、多分明日は休むだろうということを簡潔に書いたメールを作って、一斉送信する。一斉送信だからいいのだ。無駄に分けたり、送信一覧にずらずら名前がなかったりすると、勘違いする輩がいるから。
「まあ、部長と似てるってことは美形ってことやからな」
青ざめた顔をちらりと見て、財前は思ったことをそのまま呟く。―他意はないはずだ。メールの送信一覧も、美形だと認めたことも、他意はないはずだ、と先程の一言を口に出してしまってから、財前は思った。だから、他意がないから口から零れたのだろう、と、思うことにした。
問題はメールの別の受信フォルダに入っているメールだ。入っているのは2通。こちらもやはり、目を通すまでもなく内容が分かった。だが、クラスメイトからのメール以上に開かざるを得ないのだ。
「めんど」
やっぱり心を口に出して、とりあえず財前はスケープゴートの方からメールを開けた。
『from:ケンヤさん
アホ!部活サボんな!なんで俺が怒られてん!?』
「ほんま…なんていうかこの人は…」
それからもう1通を開けば、この意味不明ともとれるメールの大体が分かる気がした。分かる気がしたから、もう1通の方は開きたくなかったが、開かない訳にはいかなかった。
『from:白石部長
title:財前?
お前がサボりなんて珍しいやん。真面目な方やと思っとったんやけど?一言くらいメール寄こせ。はよせんと忍足謙也くんがヒドイ目にあいます』
「いや…おかしいやろ…このドSが…文脈がおかしいやろ…日本語の因果関係が全く成立してへん…」
そうぶつぶつ言ってから、返信しようかしまいか、彼はしばし悩む。このまま忍足謙也が犠牲になってくれればいいという思いがあったからだ。何というか、先輩に対して最悪と言っても過言ではない思考である。
悩みながら、財前は結局メールを作成した。もちろん、部長である白石にだけだ。返信に際し、件名は削除しておいた。件名が入っただけでなんだか彼の書いてよこしたことが本気めいていて、妙に背筋がざわついたからだ。
彼の妹が授業中に倒れたこと、風邪と思われること、放課後まで寝かせておくのに付き合っていて部活に遅れたこと、を簡潔に書いて送信する。
送信し終わってから、彼は友香里の額の氷嚢をはずし、ぺったりとくっついてしまった前髪を掻き上げてやった。氷のおかげもあってか、額は冷たいが、なんとなしにするりと首筋に手を滑らせたら、その白い肌はやっぱり熱を帯びていた。
(下心なんてあらへん…って言いたいところやけど)
その彼女の首筋の温度と白さ、滑らかな肌に、財前は少しだけ浮かび上がってくる感情を抑えつけようとした。そうしているうちに、むずかるように「うーん」と呟いて、結局友香里はまた薄く目を開けてしまう。
「あれ…財前?」
さっきの英語での歌声は、彼だったのだろうか、と合板の天井の代わりに見えた彼の顔に、彼女は思った。財前の声がした気がした、というのは確信に変わった。だって、そこには端正な彼の顔があるのだから。
「起こしたか?すまん。もう少し寝ててええから」
それは、毒舌家の彼から発せられる言葉にはどうしても思えなくて、もしかして、夢を見ているのだろうか、と友香里は思った。だけれど、氷嚢でぺたりとした前髪を、彼はもう一度掻き上げて、そこに啄ばむような口付けを落とした。―先程とは違って、そこには確実な他意があることを、財前は認めざるを得なかった。それから先程やったように瞼を閉じるように節ばった大きな手で促した。それは確実に質量や熱を伴っていて、それが夢の出来事ではないのだ、と友香里は戸惑いとも、焦りともつかない感情で確信した。そして彼は流暢な英語のゆっくりとした歌を歌い始める。いろいろなことが分からない。だけれど、瞼に載せられた彼の手はあたたかくて、また眠気がやってきた。
(なんでキスしたんやろ?あやすため?)
眠りの淵に落ちていく中で友香里はぼんやりと考えた。でも、それを少しも嫌だとは思わないのだ。不思議な感覚だと思ったら、不思議な感情がやってきた。嫌ではない、とはどういう意味だろう?
(なんでキスしたんやろ、なんて…現実逃避か)
一方の財前は、その理由が分かっている。だけれど、認めてしまったら引き返せない気がして、今まで気にかけて、部長の妹だからと接して、たまには悪態をついて、喧嘩して。―静かな感情が己の中にあることをあることを、知っていた。知っていたが、認めてしまうのが怖かった。
だけれど、だけれど。
その先に、出来ることなら進みたい。彼女がそれを受け容れてくれるかはわからないのだけれど。
あと5分もすれば、猛然とした勢いで、彼女の兄がここにやってくるだろう。
それまで二人は、眠りの淵に落ちていく中で、或いはグラウンドから聞こえてくるホイッスルや打球の音の中で、その感情の答えを必死に探そうとすることになってしまった。
方程式X=未知数
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初財友。付き合う前。財→→→友くらいの温度。
2012/10/13