見舞う
あれから、一年が経とうとしている。
彼はいつも夜におとない、彼女に罪を思い出させる。
「済まんなあ、志摩」
ぼんやりと、雨の降る夜の庭を眺めて蝮は呟いた。
本当は分かっている。
彼にそんなつもりなどないことを。
そうして分かっている。
言わなければならない事があることを。
*
彼女の魔障は、右目を失っても未だ完治していなかった。右目を失ってから、一年が経とうとしているのに。その事実と、頑な娘に、蟒は大きくため息をついた。
「どないしたんです?」
その大きなため息に気が付いたのは、奇しくも詰所の自販機の前で鉢合わせた柔造だった。
「柔造さんか」
「蟒様も休憩ですか。珍しですね、一番隊と時間被るんは」
「ああ、そやな」
応じながら、蟒は一瞬自販機のボタンの前で指を彷徨わせ、それからガコンと落ちてきたブラックコーヒーを、柔造に渡した。
「あ、すんません。幾らでした?なんか最近微妙に値段変わってんねんなあ」
「時流やな。いらんよ。ちょっと話しでもしていき」
そう言って、蟒はミネラルウォーターのボタンを押す。……ブラックコーヒーは、一番隊が仮眠明けなのを知っていたからだった。それに、柔造はちょっと頬を掻いて、自販機の前の休憩スペースに座った。
「柔造さんには、聞き苦しい話かもしれん」
「……」
言葉は唐突だった。だけれど、それは同時に蟒が言わんとしていることが明確だったからかもしれなかった。
「私は、蝮の魔障が治らんかったらええと思ってる節がある」
「……はい」
柔造は、短く答えてコーヒーを開ける。
「親として、こないなこと言うべきやないと知っとる。けどな、あの子は、魔障が良うなったら、多分明陀を捨ててどこぞへと行ってまう」
今となっては、と蟒は思う。彼女の魔障が重く、一年が経とうとも彼女を苦しめる時があるのが幸いだった。その様なこと、考えるべきではないのに。
「治ってほしいと思う。思う反面、治ってもうたら、もう、明陀も、私らも、あんたも捨てようとしてる娘がいるのを知っとる」
「そう、ですね」
「そうやって、罪を償おうとしてる娘を、私はどうしたらいいのか分からんのや」
蟒は苦く笑った。
柔造は、あの日蝮を娶ると言ってから、仕事が終わり、時間に余裕があれば宝生家に寄って蝮を見待っていた。それはいつも夜のことだった。
彼が帰ると、彼女は決まって言った。『私には、あんまり眩しすぎる』と。
そのことを、蟒はずいぶん前から柔造に伝えていて、だけれど柔造に来ないでくれとは言わなかった。言えなかった。眩しいその相手に望まれて在ると、彼女に思ってほしかった。
「俺じゃあ、駄目ですかね」
柔造は言った。そこには決然としたものが含まれていた。自分では駄目だなどと全く思いもしない語調のように、蟒には思えて、そういう彼だから、蝮を任せようと思えるのだと知っていた。
「柔造さんなら、きっと蝮を任せられると思ってるのになあ……」
蟒は、ぼんやりと応じた。
柔造も知っていたが、蝮には縁談が出ている。と言っても、身内の僧正家の跡取りが結婚宣言をした手前であるから、そう簡単なことではないのも確かだった。
(寺格は確か明陀より上か……どこぞの門跡?知らんけど)
柔造はコーヒーを呷って、役員会で行われたその話を思い返す。
祓魔に理解があって、そうして寺や僧侶としての格が自分よりも高い相手なら、そういう話も出せる訳だ、と思ったのをよく憶えていた。逆を言えば、そういった枝葉末節以外には、欠片も興味がなかった。
「渡す気なんぞ、欠片もないですよ」
「ほうか」
「でも、終わりにせなあかんのですかね」
「どうやろなあ。あの子も大概わがままやから」
我儘で済んだなら、どれだけ良かっただろうと、言いながら蟒は思う。
我儘だった娘は、大人になってしまった。
大人になってしまった娘は、だから彼を受け容れられない。
いっそ我儘な子供のままなら、多分彼女は柔造の思いをもっと簡単に受け取れたのだろうと思う。
「大人になんぞ、なるもんやないなあ」
蟒はふと笑った。
しがらみも、罪も、罰も、何もかも擲って、幼子のように彼女を求めることのできる、唯一人の男を見詰めながら。
*
「何が見える」
「なにも」
会話は短かった。初夏の夜に、彼女は濡縁から真っ暗な庭に視線を落としていた。何も見えないだろうに、と思いながら、何が見えるかと問うたら、何も見えぬと返ってきた。
「縁談、出てるんやてな」
「うん」
短く応じながら、だけれど彼女は視線をこちらに向けることはなかった。暗い庭に視線を向けたまま、彼女は言う。
「受けよう思て」
「なんで」
「あてが丁度ええのよ。明陀にもよその寺の縁者が出来るのはええことやと思う」
ぽつり、ぽつり、と蝮は言った。
「外の目があれば、あてみたいに馬鹿な真似する者も、減ると思う」
(ああ―――)
「もっと、流動的な組織。それを壊したんがあてなんや、その責任は取らなならん。この話を受ければ一石二鳥や」
「お前は、残った身一つすら明陀に差し出せるんやな」
そこで、蝮は初めて柔造を振り返った。
夜。
濡縁に面した部屋の中には灯りが付いていて、笠から漏れた蛍光灯の灯りが、男の姿かたちをはっきりと見せていた。
(外はこんなに暗いのに)
眩しいと思った。
(私はこんなに暗いのに)
見ていることが辛いほどに。
(貴方は、本当に眩しい)
「差し出せるもんがこれしかないから」
(私は、貴方のようにはなれない)
「そんなんやったら、俺はどうしたらええ」
「そやね」
蝮はぼんやりと彼を見返して、そうして、彼が言わんとしていることを全て知っているから、彼から視線を外した。外して、その真っ暗な庭に落とす。その黒にひどく安堵したのが、自分自身でも可笑しかった。
「済まんなあ、志摩」
「謝るくらいやったら、その身一つを俺に寄越し」
「それは出来んよ」
本当は、明るくて眩しい貴方が好きなのだと、言えない歯がゆさがあった。
「この上、明陀の何一つ、あてには壊すことが出来んの」
「俺と一緒で何が壊れる」
「それは……」
「蝮、それは駄々や。ただの我儘や」
はっきりと断じる彼に、彼女は再び視線を戻す。光が目を射って、視界が眩んだ。
「俺たちはもう、子供じゃ居れん」
「そうや。だから」
「だったら、自分の身一つで何とか出来ることを擲つんか、お前は」
反駁を遮られて、蝮は目を見開いた。今度こそ、光に目は眩まなかった。
「それは子供の我儘や」
「何を!阿呆やないか!そんなん、あては!」
(分かっていたの)
叫び、反駁し、詰りながら、彼女はだけれど思考のどこかでぼんやりと思っていた。
(本当に償うと言うのなら―――)
彼の言を受けるべきだと。
でも、それでは罰にならないと思った。
だって、それは余りにも幸せで、余りにも辛いから。
「どうして、どうして」
言葉が形に上手くならない。
「どうして……許せるの」
「お前は悪ない」
「あてだったら許せんもの」
「許そうなんぞ、思っとらん」
最初っから、と彼は続けた。
「お前が悪いなんぞと俺は思っとらん」
最初から、悪いと思ってくれる‘誰か’が良かった。
彼以外の‘誰か’が良かった。
これは罰だからと、お前は悪だからと、初めから言ってくれる誰かが良かった。
彼はいつも夜におとない、彼女に罪を思い出させる。
だけれど、罪を思い出しても、思い出しても、彼が思い起こさせる罪は、彼女を悪にしなかった。
「やり方は悪かった。それは認めなあかんやろな。けど、それでお前の全てを悪と判じるのが正解なんか」
お前すら、と彼は言った。
「お前すら、それを善しとするんか?お前は明陀のために生きたいんやないのか?そのお前がお前の行いをただの悪と判じるのか?じゃあ明陀のためにどこぞに嫁ぐっていうのは明陀から逃げるための詭弁か?そんなもん、全く役に立たんのと違うのか?」
彼の言葉が空に紛れて、彼女は静かに目を閉じた。
「あては、ただ、罰してほしいだけや」
「十分やろ」
「え……?」
「一年も、俺に詰られたっちゅー‘噂’が立ったら、十分やろ」
驚いたような顔の蝮に、柔造は、その人好きのする、それでいて裏を見せないいつもの笑顔で笑い掛けた。
「そうやなかったら、そもそも志摩家の前でお前の縁談なんぞ出せやせんわ」
「まさか、あんた……」
逃げ道を作ってくれたのすら、貴方だとしたら。
その逃げ道を、平気な顔で断つのが貴方だとしたら。
「うーん、毎晩みたいに夜志摩の跡取りが来とって?そんな‘噂’が立っとって?それで、志摩家の跡取りの機嫌そこねてまで余所に嫁いで?けっこう苦しいわな?」
な?と笑った男に、彼女の大きく見開いた瞳から滴が落ちた。
「阿呆やないの、そないなこと……」
「いや、わりとマジに」
進退窮まってるえ、お前。と自分でやっておきながら、柔造は笑った。
「ここは大人になるしかないんやないでしょうか、蝮さん」
「あんたは、ほんまに阿呆やなあ」
泣く彼女を、彼はふと抱きしめる。
彼の肩口に押し付けられた目許に、庭の闇とは違う暗さが広がって、だけれどその黒は、ちっとも彼女を追い詰めない。
「まあ今日で一つ歳をとる訳で」
「大人にならなあかんのね」
「そういうこと」
肩が震えて、そこに額を預ける蝮には柔造が笑っているのが分かった。
「プレゼントに俺をやるから」
君に問う
代わりにお前もくれるだろうか?
君を訪う
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蝮さんおめでとうございます。
子供同士の話。
2014/6/4