訪ねる
「おはようございます」
「お早う」
しかし参った、と柳蓮二は新年度2ヶ月目にしてまだぼんやりと思っている。
「いい天気ですね」
その‘参った’原因の女性がアパート備え付けのゴミ収集のボックスをひょいっと開ける。開けて、そこにゴミ袋を置いたのを見て、柳は彼女はやはりこのアパートの住人なのだ、というごく単純な事実に、毎度のことながらぼんやりと思い至る。
『橘といいます。隣の部屋に越してきて』
『……え?』
『へ?』
一人暮らしのそのアパートの隣人は、ある日曜の朝に訪れた。
『あ、すみません!もっと前に来てたんですけど、いついらっしゃるか分からなくて、日曜になったらご挨拶しなきゃって』
引っ越しの日はいなかったから、とか、遅くなってしまい失礼しました、とか、柳にしてみれば頓珍漢なことを彼女は連ねていた。
『橘、杏?』
『はい?』
問い掛けに、彼女は不思議そうに応じた。
『あれ?私、名前言いましたっけ?』
見事に記憶の裡から削除されていた自分に、柳はぼんやりと「先程聞いた」と嘘を吐いて、引っ越しの手土産を受け取った。
*
再会した彼女―――橘杏と会うのはいつも朝だ、と思いながら、柳はビールを呷った。
「彼女は本当に橘の妹さんなのか?」
「間違えてはいないと思う。名前も一緒だし」
「まあ、そうは言うても中学時代の一対戦校の一選手だからのう」
続けた仁王をたしなめる様に真田がつつく。
「それでも、かつての知り合いが隣に住んでいるというのは気になるものだろう?」
「それは恋愛ゲーム的な意味でか、真田」
「違うわ!」
漫才のように会話を繰り広げる真田と仁王を前に、柳はやはりぼんやりとした気分でビールを呷った。
「オイオイ、あまり飲むなよ。主賓じゃろ。まだ幸村も赤也も来とらんというのに」
そう言われて、彼はそう言えば、前祝い、と言われたな、と思い至った。
明日は彼の誕生日だった。
「違和感があるんだ」
「と言うと?」
「憶えていないなら、何故あんなに声を掛けてくるのだろう、とか」
「今の時代、近所付き合いというのもなあ…橘の妹さんなら分からんでもないが」
「何故?」
純粋な疑問をぶつけたら、真田は驚いた様に、それでいて、彼が考えていたのとは全く違うことを言った。
「いや、ただのイメージだ。義理堅いというか、なんというか、そういう」
「ああ。それもそうだな」
自分で仕掛けておきながら、と一瞬思ったが、柳ははぐらかす様にそう言った。
*
結局、飛行機の関係で遅れてきた幸村をはじめとする立海メンバーと終電前まで飲んで、アパートに帰り付いた時は随分な時間だった。隣の部屋はもちろん電気など消えていた。明日だって、全員が全員休みと言う訳ではないだろうに、と思ったら、たまらなく可笑しかった。
「いつまでも若いつもりでいるもんじゃないな」
まだ十分若いが、と自分で言ってしまうあたり、大分酔っているのかもしれない。
「懐かしいな」
主賓、と仁王は言ったが、そんなの口実でしかない。幸村がたまたま日本に戻って来る日で、立海のメンバーで集まろうという話になり、たまたまその次の日が柳の誕生日だっただけのことだ。
些細なことでも騒げる、というのは、本当に学生の頃に戻ったようだったし、同時に、彼をそういう気分にさせるのは、やはりいつも彼らだった。
「本当に、懐かしい」
かつての自分が。
今だって十分若いのに、それ以上に若くて、鋭角的だった嘗ての自分が、ひどく懐かしく、彼自身には思えた。
*
「暑くないのか」
訊ねた時、少女は西日の照り返すアスファルトの上にしゃがんでいた。ぼんやり振り返った少女は、それから柳の顔を一瞥して、そうしてそれから立ち上がった。
「大丈夫です」
「とてもそうは見えないが」
引退してから、たまたま足を向けた初秋のストリートテニスコートに、客は彼女と彼しかいなかった。
「立海の参謀さんが、東京くんだりまで何の御用ですか」
嫌味の二乗といった風情のその言葉に、柳は思わず笑ってしまった。
「もう参謀ではないよ」
「……辞めたの?」
「そりゃあな。三年生だから」
会話は、互いが互いのことを知っていることを前提にして進んでいた。
「兄さんが…兄が、テニスを辞めるって言うんですよ」
「それは惜しいな」
唐突に話題に上がった彼女の兄のことについて、だが、柳は文句も言わずにそれに付き合った。妙な感覚だった。そんな話題に乗る必要ないのに、どうしてか、彼女の方に行ってしまう。
それは、遠目から見た時から何故かそれが‘彼女’だ、と確信していた感覚に似ていた。
大会の会場で何度か会ったことと、選抜合宿で後輩とひと悶着あった程度しか面識はないけれど、彼女を介さない情報だけはあった。
『立海の件は放っておけと言うのに手に負えん。とんだじゃじゃ馬だ。お前らも構うなよ』
『それを敢えて俺に言うか、橘』
彼女の兄に釘を刺されていたというのに、どうしてか、そうやって与えられた情報が、却って彼の興味を引いたのだった。
だが、興味を持ったところで、他校生で、しかも住む都道府県も違っていたら、関わることもなかったが。
それが、今日になって突然関わることになったからだ、とか、もう引退したから橘の言葉は無効だ、とか、適当な理由を付けて、彼は興味だけで彼女に関わろうとしていた。
(興味…?)
何か違う気がする、と彼はぼんやり思った。西日は、沈みかけていた。
「あなたは、辞める?」
テニス、と消え入りそうな声で彼女は続けた。柳は、逡巡して、だけれど分かり切っている答えを言った。
「辞めるだろうな」
「……どうして?」
「その質問は難しいな」
難しい、と言ったけれど、柳はぽつりぽつりと語った。
高校では続けたいこと。だけれど幸村や、手塚といった間近で見た天才たちに追い付けないことは分かっていること……
「男の人って、けっこうそういうこと悩むのね」
「女子は悩まないのか」
納得したのかしないのか、分からないようなそれだったのに、彼女の返答に柳はふと聞き返した。
「そうですね。女子がそういうことで悩むのは、まあ、恋愛とかですかね」
「ふうん」
「けっこうさっぱりするの、私たちは。うだうだしないっていうか。私だけかもしれないけれど」
「なるほど」
なるほど、と応じながら、どうしてか柳の心臓は早鐘を打った。それに柳は心中眉をしかめる。
(まずいな)
これじゃあまるで、彼女に恋をしているみたいだ、と。
輪郭だけだった少女のことが気になっていたその興味は、もしかしたら―――と思う。橘に構うなと釘を刺されるよりも前、試合後のベンチで片付けをする立海の方をキッと睨んだ彼女と目が合ったのを、柳は思い出していた。
(多分、あの時)
それは怒りであったけれど、迷いなく、真っ直ぐにこちらを見遣る彼女の視線が好ましかったその時から、ずっと、興味と偽ってすり替えた思いは、恋情だった。
「柳さんも、恋したら分かりますよ」
女子じゃないけど。とからかうように、だけれどからかいなど全く含まれない声音で、真っ直ぐテニスコートを見詰めて言った彼女は、そうしてそれから不意に横に立つ彼を振り返った。
それに、柳は視線を合わせて静かに言った。
「俺はな」
「はい」
「一目見た時から君が好きだったよ」
叶わないと知っている。知っているのに、こんなに簡単に零れた言葉に、彼自身驚いていたが、驚きはもちろん彼女にもあった。動揺とも驚きともつかない表情だった彼女は、だけれど何が可笑しかったのか、ふふふと女性らしい笑いを零した。笑って、言った。
「10年後にあなたはきっとテニスをしていなくて、それでも10年後にまたそれを言ってくれたなら――――」
橘杏という少女は、その頃からとても屈託なく笑っていた。
*
「憶えていないのだな、彼女は」
あの日の約束の10年と、それから少しが経った。だけれど、彼女は憶えていなかった。
シャワーを適当に浴びて、ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出すと、ベッドを背もたれにしてそれを飲む。髪から落ちてくる滴が首許を濡らしたが、どうだって良かった。
明日…というか今日、彼はこうなることを予見して有休を取っていたから、ベッドにもたれかかったまま、眠りに落ちた。
*
ピンポーンといっそ長閑なインターホンの音に、柳の意識は覚醒する。
時計を見たら朝の8時だった。こんなに早い宅配もないだろう、と思いながらも、スラックスにカッターシャツという、昨日ベッドにもたれて寝入ったままのだらしない格好で彼は玄関に向かう。
二日酔いでガンガンする頭は、備え付けのインターホンの画面も、魚眼レンズも確認することをすっ飛ばして、扉のチェーンを外し、鍵を開けた。
「柳蓮二さんのお宅ですね?お届け物です」
「あの、頼んだ覚えが…」
言い差して、柳は目の前いっぱいに広がる色とりどりの花で造られたブーケの様な花束と、そうしてそれを持っている自分からしたらずいぶん下にある顔に目を見開いた。
「橘、杏?」
橘さん?、と言うべきところだったが、昨日から続いている昔の記憶に、出てきた言葉は彼女のフルネームだった。
「私、一度も下の名前は名乗ってないわ。ここで初めて会った日まで、ずっと憶えててくれたのね」
「俺、は…」
「10年後も憶えていてくれたなら」
そう言って、彼女は柳にその花束を渡した。
「誕生日おめでとうございます、柳さん。この日まで黙っていようと思って」
悪戯をした幼子のように彼女はあどけなく、そうして屈託なく笑って言った。
呆然としながらも、柳は、彼女が全て憶えていたのだ、ということにそこでやっと思い至った。今までの違和感にもそれで説明が付く、なんてぼんやり思う一方で、妙に回転の速い思考が落ちた。
「橘さん、俺は今でも君のことが好きでも構わないだろうか」
君に問う
あの日の約束は、まだ有効だろうかと。
君を訪う
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柳おめでとう
2014/6/4