弔う


「なんだ?」

 隊長は、あたしの行動にずいぶん驚いたようだった。定時に隊舎にいるだけでも驚きなのに、という風情だった。

「今日の分の書類、終わってます」

 トンっと揃えた書類を隊長の机に乗せたら、いっそ気味が悪いという表情をされた。大変遺憾である。

「松本…頭でも打ったか…」
「打ってません」

 一言返して、乗せた書類の上に一枚紙を置く。

「判、お願いします」

 許可出ますよね、と続けたら隊長は今度は違う意味で驚いた顔をした。

「有休だあ?」

 ペラッと一枚乗せられた紙は、有給休暇の書類で、隊長はますます怪訝な顔で、それでもそれに判を捺す。あたしの有休だって死ぬほど余っているんだから。

 休む暇なんてない。
 それはあたしが副隊長だから?
 それはあたしが‘死神’だから?

「四番隊か?」

 書類を受理した隊長が、今度は怪訝な顔から曇った顔をしてこちらを見た。彼の中では、あたしのこれが、先の戦いで受けた傷の治療だと納得されたらしい。

「違いますよー!やだなあ、心配性!四番隊なら業務で行きますもん!」
「じゃあ、」
「お酒飲みに行くの」

 言い差した彼を遮って、あたしは言った。彼は、その勤め人としてあり得ない発言に、心配して損した、とあたしを怒鳴ろうとして、だけれどそれから言葉を失った様にぼんやりとこちらを見た。
 多分、あたしは、彼が驚くほどに酷い顔をしていたんだろうと思う。
 酷い?違う。
 透き通るほど、何もない顔だっただろう。

「冬獅郎には関係のない宴よ」

 静かにあたしは言う。
 それに冬獅郎は、静かに目を伏せた。
 そうして呟くように言った。

「何処へなりとも、松本副隊長」

 あたしは笑った。
 静かに、笑った。





「こんなところまで来ると思う?」

 隠密機動とか、最悪、刑軍とか、とあたしは、廃屋の土間で呟いた。
 隊舎を出て歩いてきたら、もう昼だった。

「来る訳ないわよね。だって、誰も知らないもの」

 ここに、あんたとあたしが住んでいたなんて。いや、誰かが知っていたとして、それでもここに来る謂れも必要もなかった。


 だって、彼はもういないから。


 仮に何かあったとしても、その罪を誰が問えるだろう。
 彼は何一つこの世に残さなかったのだから。

「お酒持ってきたのよ。これ、憶えてる?」

 誰もいないその座敷に上って、あたしは抱えてきた薄水色の瓶と、それから懐に入れた杯二つを出して、その酒を注ぐ。

「あんた、ダメよね。お酒呑めないんだもん」

 笑ったあたしに、彼が困った様に応じてくれない事が、どうしたって悲しかった。





 その日の隊長と副隊長での宴席は、酒類持ち込み可のどんちゃん騒ぎだった。
 あたしはその日、ひどく酔っていて、ほとんど正体を失っていた。

「これどうにかなんねえのかよ」

 志波隊長の声がしたけれど、構わずあたしは畳の上に寝転がっていた。

「隊長、うっさい」
「乱菊ぅ…ここに卯ノ花さん呼ぶ訳にいかねえんだよぉ…勘弁してくれ」

 ただ寝ていればよかったものの、その日のあたしは何故か悪酔いしていて、ひどく気分が悪かった。強いはずの酒は悪く回って、頭がガンガンして、気持ちが悪かったのを憶えている。そんなことまで憶えているのは、多分、そのあとにやってきた男のせいだったと思う。

「志波隊長、お困りですか?」
「うおっ!お前が出てくるってなに!?市丸!」

 その宴席の騒ぎの中で、あたしの悪酔いなんて、どうでもいい部類でみんな飲んでいたから、持て余していた隊長を除けばあたしたちのところに来るやつなんていない筈だったけれど、彼……市丸ギンは薄水色の瓶を抱えて、ごろごろ畳と友達になっていたあたしの方に近づいてきた。

「いやあ、ボク、全然呑めんのですわ。松本副隊長尊敬するわー」
「なにあんたけんかうってんの?」
「乱菊、他隊の隊長にそういうこと言わないのな。ちなみにそれが嫌味でもそれは事実だからな」

 ガンガンする頭を押さえて、あたしはギンを一発殴ってやろうと思って起き上がろうとしたら、それを軽い力で制される。

「志波隊長、松本副隊長はボクが見ときますわ。どうせボクも彼女も結果的には酒呑まれんのやし」
「いいのか?」

 頭上で、隊長とギンが喋っているのが聞こえた。一頻り話したら、志波隊長が視界から消える。

「乱菊、アカンよ、さすがにここまで飲んだら」

 さらさらとあたしの髪を撫でてギンが言った。

「全然呑めないくせに煩いのよ」

 ギン、と呼ぼうか、市丸隊長、と呼ぼうか、あたしは迷って、迷った割に、頭の中身は酒の酔いのせいでぼんやりしていて、結局「ギン」と声は落ちた。
 誰も見ていないし、誰も聞いていない。
 誰もがその喧騒の中にいて、誰もがあたしたちのことなんて見ていなかった。

「ちょっと起きられる?」

 ギンはあたしの背中に手を当てて、支える様にしたので、あたしはそれに従ってゆるゆると半身を起した。

「はい」

 向けられたのは、薄水色の小ぶりな瓶から出された透明な液体で満たされた杯だった。

「今日はもう飲めないわ」

 ギンに支えられた状態で、あたしは反発するように言った。この状況で、更に酒を飲ませようなんて、鬼だ、とも思った。そうして同時に、彼がこういう席に酒を持ち込むのは珍しいな、なんて思った。

「酒やないから、大丈夫や」

 反抗しようと開き掛けた口に、彼はその杯をぐいっと差し入れてきて、必然的にその透明な液体が喉を通る。だけれどそれは、酒のように喉を焼くこともなかったし、酒の匂いもしなかった。
 それが胃に落ちたら、ふと苦しかった吐き気や気分の悪さが和らいだ。

「何これ…」
「煎じ薬や」

 いつも通りの飄々とした声で言われて、あたしはすごく可笑しくなった。
 可笑しくなったら、段々眠くなってきた。

「馬鹿ねえ、宴会に薬持ってくるなんて」

 本当に馬鹿ねえ、と呟いたところで、あたしの意識は途切れた。





「馬鹿ねえ、ほんと」

 酒が飲めないからって、薬を持ってくるなんて、とあたしは笑って言った。
 それは、そんなに昔のことじゃない。

「探すの大変だったわ、これ」

 その透明な液体の入った薄水色の瓶を探すのは、案外骨が折れた。自分ではいつも酒しか飲まないからかもしれなかった。

「あんたと呑むなら、これが良かったのよ」

 あたしはそう言って杯を乾す。彼の杯の中身は、一向に減るはずもなかったけれど。
 あたしは杯をもう一度その瓶の薬で満たす。口をつけようとして、その前に誰もいないそこに言った。

「志波隊長の息子、あんたは知ってたのね」

 ずっと前から、と呟いたそれは、責めるように聞こえただろうか。

「いい子よ、とても」

 彼が最期を託した彼は、だけれど、その戦いに巻き込まれることを宿命づけられてしまったのもギンたちの…藍染や市丸たちのせいだった。

「あの子はまだ、何も知らないわ。でも、志波隊長にはこっそり挨拶したの」

 お前は変わってないな、と隊長は笑った。


『あの子は―――』

 あたしたちは知っていた。黒崎一護という存在のことを。彼とまみえた時に、過去を知る者で気づかない者はなかった筈だ。彼が、志波一心の霊圧を継ぐ‘死神’だということに。

『乱菊、俺はあんまり運が良くなかった。それは確かだ。だけど、それ以上に幸運だった。それも確かだ』

 彼の息子のことを言い差して、それから頭を下げることしか出来なかったあたしに、隊長は笑って言った。

『真咲は俺が一番愛する人だ。俺はそんな存在に出会えた。そうして一護は、俺がこの世で一番愛する人の自慢の息子だからな』

 愛した人、と隊長は言わなかった。
 愛する人、と隊長は言った。


「ねえ、ギン」


 あたしは、酔うこともないその杯を乾して言った。


「あたしもあなたを愛するわ」


 いつまででも。
 たとえ、あなたがもうここにいなくても。

 どれだけ月日が経っても。
 どれだけ静寂が怖くても。

 たとえ、痛みしか遺らなくても。


「全てが終るその日まで」


 いいえ。
 全てが、世界が、あたしが終るその日の先すら。


「あたしはあなたを愛し続けるわ」


 微笑んだあたしの向かいの杯のみなもが揺れた。どこかから風が入ったのだろう。
 だけれど、その杯を満たす酔わない酒が減ることは、もう永遠にない。

「ねえ、あんたは―――」


 君に問う
 もし赦されるのなら、私は永久に貴方を愛す
 君を訪う



2014/6/2