と呼ぶには遅すぎる


 定期的にワックスが掛けられるカウンターは、そのワックスと煙草のヤニとでひどくなめらかな、しかしもう元の木の色を思い出せないような暗い飴色をしていた。
 橙子はそのカウンターに両切りの煙草をとんとんと打ち付ける。それから火を着けようとして、いつもの灰皿がないことに気がついた。
 カウンターの中の店主にそれを告げようとしたところで、頭上から声がした。

「景気の悪い顔だ」

 次いでごとんと灰皿が置かれる。相変わらず人一人くらいなら殴り殺せそうなガラス製のゴツゴツした灰皿には、一本だけ吸いかけてやめたような煙草が入っていた。

「お前に景気の良し悪しを言われるのは不愉快だ」

 アラヤと続けて、それから橙子はマッチを擦ると整えた煙草に火を着けた。
 煙を吸い込んでそれから、彼女はカウンターの中で影のようにグラスを磨く店主に声を掛けた。

「コーヒー、二つ」

 この店はバーだったが、ここで酒を飲むことは橙子にも荒耶にもなかった。あるいは酒を飲む者もいたが、酒は思考を鈍らせる。鈍った思考は魔術には向かない。それだけのことだ。
 サイフォンの動きを確かめるように無言で二杯分のコーヒーを作る店主を横目に、荒耶はカウンターに載った缶から煙草を一本取った。この店では煙草を勝手に吸っても料金を取られなかった。

「だがお前にも理はある。景気の良い話などここにはほとんどない」
「ほとんど?全くないの間違いだね」

 ことんとコーヒーが二つ、二人の前に置かれる。ニコチンとカフェインの組み合わせを気にするほどの体ではなかった。
 橙子の足許にはアタッシュケースがあるばかりで、荒耶にしてみれば思うより身軽そうだった。

「お前ならば封印も悪くないと思うがな」
「ハッ。私はお前が思うよりもまだ根源とやらに未練があるのさ」
「違うな。お前の未練は根源などではない」
「同じことだ」

 それは魔法への未練になるのだろう。魔術は究めた。究めた結果が至上の封印指定だ。喜ぶべきかもしれない、と橙子はあり得もしない感想を思い浮かべた。
 しかもそれは未練だった。彼女に辿り着ける魔法はもうない。彼女だけではない。すべての魔術師に辿り着ける魔法はもうない。だが、橙子にとっては「私に」辿り着ける魔法は「もうない」というのがなによりも深い喪失だった。その喪失を埋められるものはどこにもなかった。根源の深淵にすら、なかった。

「自己の同一性に興味を失ってさえ、まだ生きる意味を問おう」
「生きる意味?概念的な問だ」

 橙子は面倒くさそうに煙草を吸った。
 生きる意味などというものが具体性を持っていたのは、いつまでだったろう。例えば、ここで自身の目を抉り出したとて、生きる意味などというものが具体性を持って差し迫ることはないだろう。

「自己の同一性にも、魔法にも、魔術にも、あるいは根源にさえも興味のないお前が生きる意味とはなんだ」
「何を為そうとするか、ではない。何を為したか、だ」

 そう返答して橙子は十分短くなった煙草を灰皿に押し付けた。隣の男はその言葉をまるで公案か何かのように思っているようだった。

「結果論しか我らには残らぬ」
「死ぬまでに誰が何を為すか」
「では死こそ我らが求め得る叡智の至上の形だろうか」
「知らんな。私はそこまで死に急いでいないのでね」

 それどころか、もうその死すら、彼女には真っ当に訪れることはないと彼女自身も荒耶も知っていた。永久に彼女はバックアップされ、彼女の肉体と知識は刷新され続ける。

「ああ、それかも。永遠に新しいものが見てみたいのかも」

 適当にうそぶいたそれも、しかしほんとうを言うと嘘ではない。

It takes all the running you can do, to keep in the same place.

 歌うように言った橙子に、荒耶は目を細めた。

「だからたぶん、ある意味で私はもう魔術師でもないのさ」
「だがお前はまだ魔術師であることを望むから消えるのだろう」
「そうだな。止まってもいいと思う者だけが封印なり何なりとされればいい」

 そう言って橙子は立ち上がった。カウンターに置かれた小さくない額の金に、店主が少しだけ眉を顰め、それから間違いがないか古い伝票を何枚も確認した。この店ではいつもツケ払いでコーヒーを飲んでいた。積み重なったそれは、ヤニとカフェインとアルコールとが積み重なったカウンターに似ていた。口数も少ない影のような店主は、橙子に一つうなずいてみせた。

「私はもうここに留まらないのさ」

 アタッシュケースを引きずって、女はその店を出る。
 男はやはり吸いかけてやめた煙草を灰皿に押し付けた。
 永遠の問答を繰り返すように、男はその灰を眺めていた。





「昼酒ですか」
「仕方ないのさ。朝起きたら、あービール飲みてえという気分になる時が大人にはあるのだよ」
「そういう気分になってもいい大人は昼からビールを飲まないんですよ」
「そうかもね」

 黒桐の言葉を聞き流しながら、私はふと、アルコールを摂取せずに魔術の研鑽に没頭していた自分を思い出した。そこから飛び出すその日さえ、私は酒を口にはしなかった。
 根源や魔法に到達しようとしていた私は、あるいはもうどこにもいないのかもしれず、あるいはまだそこにいるのかもしれなかった。
 私が私である保証などもうどこにもないのだと知ったその日に私は―――

「封印されたって良かったさ」
「何か言いました?」

 黒桐の言葉に応えずにいても、彼は適当に書類整理を始めてしまう。どうでもいい応接だった。

「ただ私は止まりたくなかった。赤の女王がそう言うように」

 私は深い悲哀を以て一人の魔術師の死を悼んだ。

「あの日と同じ言葉を送ろう」

 私はまだあの男の死を悼み、悲しむことができる。


「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」


 哀惜はけれど、愛や思慕には遅すぎる。




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赤の女王仮説について。
荒耶→→→(中略)→橙子みたいなぬるい温度の低温火傷。
「長く短い祭」(椎名林檎)とかですね。

2018/10/04 ブログ掲載
2018/10/25 サイト再録