愛していた、何よりも。
 愛していた、誰よりも。
 新選組というその集団を、だから俺は、愛していた。


赤の女王仮説


 その日は粘つくような夜気が立ち込めていた。
 夏。夜。暑さ。雨。

「ひどい条件だな」

 夕暮れ時から、その濃密な夏の大気が粘つくように付き纏って、夜の討ち入りに備えて刀を検めながら、俺はぼんやりと屯所の濡れ縁から暮れていく空を眺めていた。

「斎藤さん」
「あー、沖田?何、副長?山南さん?」

 呼んでんの?と、後ろに全く気配を感じさせずにやってきて、声を掛けた沖田に俺は驚きを押し殺すように呑気に振り返る。相変わらず、殺気立ったコイツは気配の一つも見せやしない。

「もうすぐですよ」
「まあね。でもまだある、逸るな」

 俺の言葉に沖田はぼうっと隣に座った。

「これで、京を守れるんですよね」
「急だねえ」

 沖田の言葉に俺は適当に返す。いつか、芹沢さんを斬ったときのようだと思った。これが本当に正しいのか、考えあぐねているような、それでも進まざるを得ないような、そんな、ひどく濁った感情が伝わってくる。

「そんなことより魁先生の心配でもしなさい」

 入るの一緒でしょ?と続けたら、沖田は軽く笑った。

「藤堂さんは、まあああいう人ですから」
「怪我しても知らねえって言っといて」
「それは藤堂さんが可哀想ですよ」

 それに彼女はやっぱりふふと小さく笑う。そのささやかな笑い声がどうしてか嫌だった。

「斬っても斬っても、終わらない」
「いまさら」

 俺はこの時の言葉を今でも後悔している。今?それはいつのことだろう、と思った。
 『いまさら』なんて言葉で誤魔化して、彼女の心にも、自分の心にも蓋をして、それで何になっただろう。それで、何が出来ただろう。

「進み続けるしかない」

 ここにいるためには、これを続けるためには。

「そう、ですね」

 俺の言葉に彼女は小さく答えた。





 その日の夜、池田屋に討ち入りするとなった時、夏の粘つく夜気はひどく重たくなっていた。

「血」

 先に入った沖田や藤堂の後から入って、それでその雨の湿度と夏の暑さが合わさったそれに、血の匂いが染みついて、俺は面倒になって適当に刀を振るった。どしゃ、と誰かが動きを止めた。

「うるさい」

 そうしたら、その建物の奥から獣のような、それでいて女の高い声も感じさせる、ひどく短い声が聞こえた。沖田だ、とすぐに分かる。派手にやっているな、なんて呑気なことを考えた。
 とんとんと近づけば、今日の捕り物の一番手柄だろう相手と対峙している沖田を見つけた。

「大義もない女ごときが」

 吐き捨てるように男は言った。片腕がない、と妙に冷静に思う。

「うるさい」

 それに彼女はもう一度そう言って、吉田某を斬り捨てた





「沖、田?」

 結局池田屋の一番手柄は沖田で、藤堂は手傷を負って、やっぱりな、なんて思っていたら、沖田が喀血したと山南さんに聞いた。バタバタと彼女が寝ている部屋に駆け込んだら、彼女は昨日垣間見せた苛烈な表情なんて一つもなく、いや、むしろ柔和な表情で笑った。

「ああ、斎藤さん」

 だけれどその顔は生気というものが感じられないほど青ざめていて、俺は起き上がった彼女の背中をゆっくりと撫でて、それから彼女を横たえた。

「寝てろ、馬鹿」
「いえ、もうだいぶいいんです。近藤さんも土方さんも山南さんも、心配性なんですよ」

 ふふと彼女はやっぱり柔和な表情で笑った。それが、ひどく怖い。

「すみません、心配かけて」
「謝るな」

 そう言いながら、俺は池田屋で「うるさい」と吉田を斬って捨てた彼女を思い出す。なんの因果もないのに、なぜか、あの時「大義がない」と言った吉田を斬ったのが彼女だったことがひどく重く感じられた。

「俺が、吉田を斬っていれば」
「……?」
「悪い、何でもない」

 横たわった沖田は、俺の言葉に不思議そうに首を傾げた。
 そうだ、彼女が血を吐いたことと、彼女が吉田を斬ったことと、俺が吉田を斬らなかったことには何の関係もない。そうだというのに、例えば、彼女が池田屋に行かなかければ、あの濃密な死の匂いと夏の雨に降り込められなければ、こんなことには、血を吐くことなんてなかったのではないか、なんて、馬鹿みたいなことを考えた。

「ねえ、斎藤さん」
「なに?」
「進むしかないとあなたは言いました」
「……ああ」
「私は進めていますか?」

 問いに、俺は咄嗟に答えられなかった。その場にとどまるためには進み続けなければならない。そう、思った。確かにそう思ったのに。

「止まりたきゃ、止まれ」
「それでもあなたは進むでしょう?」

 言葉に、俺はやはり返答に窮する。進めるのに、走り続けるのに、彼女は止まらなければならないのか、と。

「斎藤さん、一つお願いしてもいいですか?」
「なに?」
「すごく我儘なんですけど、いいですか?」
「いいよ」

 内容も聞かずに、それでも俺はそう答える。先ほどのように返答に窮することはなかった。

「抱いてくれませんか?」
「え?」
「生娘なんて面倒なら、いいですけど」

 言葉に、俺はぼうっとしている彼女に口づけた。
 それが一時の迷いだとしても、それが口を衝いて出ただけの言葉だとしても。


「愛してる」 「お上手ですね」

 ああそうか。
 俺は隊を愛している。
 俺は何よりもここに執着している。
 そうして俺は。
 俺は沖田を愛している。





 喀血した後だ、無理はさせられなくて、ゆっくりとした共寝ののちに、沖田はすーすーと寝息を立てた。生娘を抱いたこと、よりも沖田を抱いたことを思って、その柔らかい髪を梳きながら俺は昨日と変わらずに暑い夜を思った。
 そこには血の匂いも死の気配もない。ただ息苦しいほどの夜気が重く垂れこめた。

「俺で良かったの」

 答えはない。だけれど、沖田を抱いて初めて、俺は彼女に劣情を抱いていたことを知った。いや、初めてではない。知っていた。だけれど、彼女にそういった感情を向けるのは間違っていると思っていた。

「好きだ」

 聞こえていない言葉を紡ぐ。

「ずっと、こうしたかった。誰かに取られたくなかった。進み続けたかった」

 言葉は届かない。なぜ、彼女が抱いてくれと言い出したのか、本当は分かっていたから、聞こえていなくても良かった。

「お前が俺を好いていてくれなくとも」

 ただその傷を紛らわせるために抱いてほしいと言ったとしても。

「俺はお前を愛しているよ」

 傷も、痛みも、悲しみも、本当に愛しているから、だから。

「許してくれ、きっと」

 そうして、その柔らかな髪をもう一度梳いて、俺は彼女を抱きしめて目を閉じた。





「あの日」

 千駄ヶ谷の沖田が匿われているそこに寄った時、彼女の露命はもう尽きようとしてることが一目で分かった。それがひどく焦燥を駆り立てた。新撰組、という組織はもうその体を成していない。それでも俺は、そこにいた。

「斎藤さんが抱いてくれて、本当に嬉しかったんですよ」

 ほっそりとした手を伸ばして、彼女は俺を掻き抱いた。

「斎藤さんにとっては何でもないことだったかもしれないけれど、あの日、そうしてくれなかったら私は進めなかった。本当のことを言うと、あの日、私は女を棄てたかった」
「それは」

 違う、と言いたかったのに、言葉はうまく形にならない。

「あなたは私を愛してくれた。慈しんでくれた。だけれど、あの日私があなたに縋ったのは、私はもう女を棄てたかったからなんです。女扱いするなとたくさんの人に言いました。だけれど、私は『女』でしかなかった」
「そんなことない」
「いいえ。吉田と立ち合って思いました。うるさいと、彼が言っていることは正論だと思ったから、うるさいと思いました」

 違う、と言いたいのに、喉がからからに渇いて言葉がうまく紡げない。

「だからあの日、斎藤さんに抱いてもらって、だから私は」
「もう、いい」

 そう言って俺は彼女に口づけた。急なことに彼女は驚いたように目を見開いた。

「移ります」
「関係ない」
「斎藤さん?」

 不思議そうに言った彼女を、ゆっくりと布団に倒す。

「俺はお前を愛していた。愛している。だから、女を棄てさせるために抱いたんじゃない」

 大義?壬生狼?女?
 何もかにも関係ない。そこに彼女はまだいるのだから。

「抱かせろ」
「え?」
「お前を、」

 愛しているから。





「進み続ける、か」

 会津の地で、北へと行った男を思って、俺はぼんやりと板の間に寝転んだ。その冷たさが、あの日、最後に沖田に会って、彼女を抱いたことを思い出させた。

『あの、斎藤さん?』
『俺はね、新選組が好きだったよ』
『え?』
『だけど壊れちまった。お前もいなくなっちまた』
『それは……』
『俺は、お前のことを愛してるよ』
『それは、新選組を愛していたように?』
『そうかもね』

 睦言にはあまりにも程遠い言葉に、彼女はゆっくりと俺を抱きしめた。

『あなたに、終わりを見せたくはなかった』
『そんなもんだ』
『ああ、違います』

 俺の適当な言葉に、女は言った。彼女は間違いなく女だった。

『私が終わりを看たかった』

 小さく笑って彼女は言った。

『私はもう、進めない』





「結局のところ」

 会津での戦を終えて、西南の役に行って、伴侶も得て。
 もし新選組というそれの終末を見たというのなら、それは嘘かもしれない、と思う。

「その場に留まるために、走り続けてしまったから」

 『女』を棄てると言った女を抱いた二つだけの夜を思って、俺は永い永い眠りに就いた。





「沖田ちゃんはさ」
「はい?」

 カルデア、というのは本当に因果なところだと思う。再び巡り合い、やり直し、過ぎ去っていく。そんな一度終わった物語を、誰もかれもが再現するような、再演させられるようなところだ、というのが、邪馬台国からマスターちゃんと契約してここに来た僕の率直な感想だった。

「やり直したいこと、ある?」
「特には」

 その女性は、僕の知らない、そうして知っていた柔和な笑顔でそう言った。

「ただ、斎藤さんともう一度会えたことは嬉しかったですよ」
「そう」

 それに僕は短く答える。言葉が雪のように静かに降り積もった。

「あなたは隊を愛してくれた。最後まで見届けてくれた」
「そうかな」
「ええ」

 沖田ちゃんはふわりと笑った。そうしてゆっくりと手を伸べて、僕を抱きしめた。

「抱いてくれませんか?」
「え?」
「今度は、私を女にしてください」

 いたずらを言うように、彼女は言った。

「私たちは速く走りすぎた。だけれど、そこにいるためにはそれしかなかった」
「留まるために、走った、か」
「だから、今度こそ止まりたい」

 だから、と続けようとした唇に、ゆっくりと自分のそれを重ねる。

「もう、止まろう」

 もう、走らなくても留まれるから。留めてみせるから。

 もしそこで、走ることをやめたからすべてが止まってしまっても、その先に何もなくなってしまっても、もう、いい。

「愛している」

 その末期までもを。
 言葉に、女は笑った。




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「赤の女王仮説」:進化生物学者リー・ヴァン・ヴェーレンによって提唱された仮説。
小説「鏡の国のアリス」の中の登場人物「赤の女王」の台詞「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」から、種、個体、遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならない比喩として用いられる。
2021/1/6