明日私が死ぬとして


「眠い」

 口に出して言ったら本当に眠くなった。
 いや、眠たかったのは事実だ。もうこの仕事場に詰めて何日になるか、フラットに戻っていないどころか、外出していないことも考えれば、身だしなみを整えていられるだけ、内弟子に感謝すべきだろう。
 その彼女も今はいない。うずたかく積まれた本、整然と気の棚に埋められた本、紙という紙が、空気を、音を、喧噪を吸い上げていくようなこの部屋は、私のテリトリーであり、テリトリーではない。

「静かだ」

 ぼんやりと私は言った。口に含んでいない葉巻の煙さえ、そこに並ぶ本に吸い込まれ、ゆったりと色味を帯びていくような気さえした。

「私は、結局」


 何がしたかったのだろう。
 何を成したかったのだろう?





「寝タバコほど馬鹿のすることもないな、我が兄よ」

 ライネスの声に思考は一瞬で浮上する。目覚めは単純だった。自分の癖なのか分からないが、私は眠りが浅いわけではないがいつもすとんと目覚める。まるで日本のブシのようだと彼女が言っていたのはいつのことだったか。

「そういうお前こそ、書類の山は片付いたのか」
「ああ、それで兄上を頼って来てみたらこんなところで寝タバコをしていたという塩梅さ」

 そう言われて、自分が葉巻をつけたまま寝入っていたことに気づく。

「失敬」

 葉巻の火を消してシガレットケースに仕舞う。その吸い殻、といっても吸ってはいないのだが、その長さから考えても良くて15分程度しか寝ていないだろう。

「別に吸っていてもかまわないんだがね。慣れている」
「いや、君の前で吸う気分じゃない」

 言葉の応酬に、ライネスは退屈そうに、それでもどこか達観したような目で私の机の向かいのソファに座った。妹はこんな目をするような少女だったろうか、と、曖昧な思考が思った。

「それで、書類というのはどうせ嘘だろう」
「おお、さすが我が兄。ご慧眼だ」
「慧眼なものか。昨日すべて終わったと聞いた。人伝手にな。レディから直接聞きたいものだったがね」
「ということはお兄様は昨日も今日もここに詰めていらっしゃると」
「からかうのはよせ」

 私が制するとライネスは今までの舌鋒が嘘のように口を閉ざして、じっと私を見た。
 魔眼に魅入られるような心持で私はそれを見返した。理由は知れない。

「我が兄よ、これで満足か」

 ああ、本当に魔眼に魅入られているのかもしれない、と私は思う。彼女の言葉が、視線が、音が、振動が、すべてがこの部屋中にある紙という紙に、神という神に吸い込まれる。

「あなたはあなたの望む王に出会った。仮初かもしれない。だけれど出会った」

 言葉はゆっくりと私の脳に染み込んだ。


「私は別れを選択した」


 言葉に私はゆっくりと、彼女の言葉を継いだ。

「それで良かったのかと、私に聞く権利があるのか分からない。だけれど聞きたい」

 ライネスの言葉に、私はたくさんのことを思った。
 あの王と駆けた日々、師を死に至らしめた罪、君主となったこと、目の前の妹、アトラスの秘奥、内弟子。


 そして、ボクが退去させた「ライダー」。


 だから


「満足だ。これ以上ないほどに」


 答えはこれ一つきりだった。それで十分だった。


 その答えを、彼女は反芻するようにゆっくりと聞いていた。
 ああ、音がしない。自分の声の残響さえ、そこらに散らばる紙が、壁が、そうしてなによりそこに反響するはずの大気が吸い込んでいく。
 私にとってこの結末は、それほどまでに静謐で、そして正しいものだった。

「ウェイバー・ベルベット、あなたの物語は一つの結末を迎えた。もし望むのならあなたはあなたの物語をまた始めることが出来る」

 その結末を知っているから、知っていたからこそ、この妹は、この義妹はわたしにそう言った。
 それがおかしくて、それが悲しくて、それが楽しくて、私は椅子から立ち上がってその可憐な少女に近づいた。

「それもまた楽しいかもしれないな」

 新たな物語、か。
 それでも私は、それでもボクは、あの王に近づく以外の物語を持たない。
 持てない。

「だがねレディ、私は今のこの生活、君ふうに言うならこの物語にも満足しているのだよ」

 カツカツとソファの前に近づけば、驚いたようにライネスは私を見上げた。

 その見上げる彼女に目線を合わせるように、いや、それよりもさらに下に目線が行くように、私は片膝をついた。

「兄上?」

 きょとんと視線が私よりも上になった彼女は私を見上げた。先ほどまでとは全く逆だ。
 私はゆっくりとその白い手を取る。

「お前が、いや、あなたがいなければ、ボクはあの王に再びまみえることはなかっただろう。それがどんな形であれ、だ」
「え?」
「ありがとう、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ」

 私の言葉に彼女は何を言われているのか分からないというように首を傾げた。
 それが少しだけおかしくて、そうして私は手を取った彼女のその手の甲に口付けた。

「ライネス、我がただ一人の妹。私はあなたを敬い愛している」

 静寂の中に言葉が響いた。
 そこに残ったのは、私の吐息と、彼女の呼吸だけだった。




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手の甲のキスは敬愛

2020/7/31