眠れない者には夜は長く、疲れた者には一里の道は遠い。
真理を知らぬ愚か者どもには、生死の道のりは長い。(仏典・ダンマパダより)





 私は大きく煙を吸い込んで椅子に座った。背中を預けるそれがキィと小さな音を立てる。
 机の上に置かれた半分だけ飲んだウィスキーはいつものビールではないし、決して安いものでもない。

 眠い。昨晩寝ていないからだと私はぼんやりと思う。
 疲れた。昨晩になって「人形作り」を寝ずにやったからだと{私}は思う。

 ニコチン、タール、アルコール。

 そのどれも、私に致命的な肉体的損傷を与える要素足り得ない。

「ああ、眠い」

 口に出して言ったら、その眠気は何倍にも膨れ上がった。言霊の国は伊達ではないなと、どうにも魔術師のようなことを考えた。
 そうして口に煙草を咥えたままゆっくり目を閉じ、椅子の背もたれに深く寄りかかる。
 そうしたら、砂粒に飲み込まれるように私の意識と身体が重く引きずられていくような感覚に陥った。
 これでは歩けない。これでは眠れない。
 これでは    。

 その先の記憶は、ない。


『馬鹿な真似だよ、本当に』

 起動した私はぶつぶつ言いながらそのマンションに向かっていた。
 私を殺すなんて、本当に馬鹿な真似だ。
 傷んだ赤色なんて呼ぶからぶち殺さざるを得なくなってしまったが、アイツには腐れ縁として最後の講義くらいしてやるべきだろう。
 それからアラヤはどうなるだろう。式が何とかするのだろうな。
 あの男は抑止力を甘く見ている。
 両儀家が「式」を生み出すのと、お前がここに来るのが同時だったことが、何よりも大きな抑止力だと、なぜ、お前ほどの魔術師が気が付けない。
 その子はお前を根源に至らしめる存在ではない。
 その子は根源に繋がっているからこそ、ただお前を阻む抑止力になる。

 ああ、すべてがどうでもいい。
 すべてを終わらせて、{私}を作り直さなくては。





「寝タバコってすごく危ないですよ」

 口元から何かが引き抜かれ、冷たい空気が口中に入ってきたことで、私の意識は浮上する。そこにいたのは従業員の黒桐幹也だった。

「黒桐くん、来ていたの?」
「しかも眼鏡をかけたままとか。火事だけじゃなくて怪我しますよ」
「眼鏡をかけたまま寝ると怪我をするというのは経験済みなのかしら」

 ふふと笑ったら、彼はひどく面倒そうに私の口元から引き抜いた煙草を灰皿に押し付けた。この居眠りは時間にして15分というところか。彼が事務所に出勤する時間と、私がここに来た時間からざっと逆算しただけだが。
 そんなことを考えながら、私は眼鏡をはずす。魔眼、か。オリジナルにあるものはすべてのレプリカにある。いや、私はオリジナルなのかもしれないが、そうだとしても、オリジナルの時点でもうずいぶん衰えていた眼だ。気にする必要もない。

「黒桐。一つ講釈を垂れてやろう」
「はいはい」

 私のたわごとにも全く動じずにコーヒーを作りに向かった彼の背中に、私は言った。

「真理を知らぬ愚か者どもには、生死の道のりは長い」

 一言いえば、彼は怪訝そうな顔でこちらを振り返った。それは、彼に言うべき言葉ではなく、私自身に言うべき言葉だろうと知っていたから、私はその心持をごまかす様に続けた。

「古い友人が少しだけうらやましいという話さ」





 眠れぬ夜は何よりも長く
 疲れた脚では先に進めず
 愚かである故、死ぬこともできぬ。

 生死の道のりの果てにたどり着けた友たちを、私は言祝ぐ。


「真理とは、その生の果てにある」


 私には成し得ぬ真理にたどり着いたであろう友たちを、私は言祝ぐ。




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禅定に至る


「記号として」
「長く短い祭り」とか


2019/01/09