浪士組の名前が新選組になって、それから。
 様々な剣客が揃った。様々な部隊が出来た。様々な、なんだろう。
 僕はあの日の政変で何をしたという訳でもなかったつもりだが、隊を一つ任された。それは副長の立案だったと聞いているが、それにしても、と思う。

「え、俺が師範?やだぁ」

 ぽつんと言った永倉さんを思わず小突いたら副長が溜息をついた。

「なに、一に殴られることこの頃多くない?ガキのくせに生意気ですよ?」
「うっせーな」

 言い合いが始まりそうになったところで、副長が面倒そうに、それでも諦めたようようにもう一度溜息をついて続ける。

「こんなところで喧嘩すんな、ガキども。あのな、沖田が他人に剣術教えられるワケねーのは分かるだろ?」
「あー、まあそれは。無理でしょうねぇ……ていうか教えられたほう、死ぬわ、絶対」
「それから山南も俺も忙しい」
「それもそうね」
「斎藤は人に教えるたまじゃない、沖田とは違う意味で」
「だって一ちゃんガキだもん」
「テメ、ちょっと黙れ」
「おまえも黙れ、斎藤。この組で剣術っつったら、とりあえず沖田、斎藤、永倉の三人なんだよ。で、適役がおまえしかいないって言ってんだ、分かれ」

 副長のその言葉に、永倉さんは長い溜息をつく。

「なんでこう、剣士ばっかり揃ったんだろ……」
「そういう組織なんだから当たり前だろ」

 僕がそう言ったら、永倉さんはもう一度溜息をついた。

「そこなのよねー。総司も一も強いことは俺も十分分かってるし、俺自身、間諜なんてガラじゃないから隊長と師範の方が気楽だけどさぁ……」

 その一言に、なぜかどくんと心臓が鳴って、頭に血が上りそうな感覚を味わう。この人に、強いと言われたことが、僕が強いことを分かっていると言われたことが、どこか、何かがくすぶるように思えた。

「あんまりこういうこと言うと、おまえ、調子乗るから言いたくないんだが」
「中身聞く前だけど、土方さんひどくない?」
「ひどくない」
「ひでーよあんた」

 副長と永倉さんの訳の分からん遣り取りの後に、土方さんは溜息をついて、それから言った。

「沖田と斎藤もいるがな、組で最強って言われてんのはおまえだぞ、永倉」

 いや、絶対調子乗るでしょこれ、と思ったその言葉に、だけれど永倉さんは少しだけ笑って、副長を見返した。
 何だろう、これ、この感覚。
 僕は、永倉さんに勝ったことがない。
 だけれど多分、永倉さんは沖田に勝ったことがない。
 僕も、沖田に勝ったことなんてない。
 だけれどこの人が最強だと言われるのだとして、だったら何だろう、これ。

「ふーん、世の中って結構、というか世知辛いですね」
「まあ、俺もそう思う」

 永倉さんの訳が分からない返答が理解できずにいた僕に比して、その通りだとでも言うようにうなずいた副長に、余計訳が分からなくなる。
 最強?世の中?世知辛い?
 何だろう、この不明瞭な感覚は。

「俺が最強なら、総司は猛者でしょうね。そんで一は無敵ってところかな」
「なんだっていいが、おまえらはそういうもんだろ」

 沖田が猛者?僕が無敵?永倉さんが最強だから?そういうもん?
 次々に分からなくなって、次々にどこか不安になるような感覚がしていたところで、永倉さんが言った。

「ま、そういうもんですね。じゃあまあ、そういうことなら隊長と師範の件は承りましたよっと」
「面倒だけは起こすなよ」
「はいはい。というか任命したの土方さんのくせにー」

 笑いながら言ったその人の考えていることも、副長の考えていることも分からないままでいたら、永倉さんがこちらを見て笑った。

「子供はそれでいーの、分かんないままで。おまえも、ま、総司もね」

 その言葉が馬鹿にされたようで食って掛かろうとしたのに、その視線は笑顔なのにあまりにも透明で、僕は言葉を失くしていた。





 それがいつのことだったか、なんていうのはたぶん些末なことで、というよりかは、それはいつものことだったようにも思う。
 試衛館で初めて立ち会った時も、京に上った時も、新選組の名をもらったあの日の戦いも、或いは、池田屋も。
 いつでもそうで、いつでもそうじゃない。
 沖田は、天才だと思った。人じゃないと思った。神様なんてものがいるとして、いないとしたって何かもっと人からかけ離れたものから、剣の才能を与えられた女だと、僕は確信していた。

「勝てっこない」

 あの才能には、あの剣技には。
 いつ見ても美しいほどに、凍り付くほどに、それでありながらなんの感情もなく誰かを斬る、誰かを殺す姿に、憧れとは違う、だけれどどこか遠くに手を伸ばすような思いを抱いた。
 だから。
 だから、じゃあなんで、そんな才能がある訳でもなく、人のままで、そうでありながら当たり前のように剣を振るうあの人は。

「なんで勝てないんだよ」

 吐き捨てるように一人の部屋で言ったそれがあまりにも惨めで、そうしてそれなのに、どうしてか不安で。
 永倉さんに勝てないことは、組で最強と呼ばれる男に勝てないことは、どうしようもなく不安になった。なぜなのか、自分でも分からない。

『俺が最強なら、総司は猛者でしょうね。そんで一は無敵ってところかな』

 あの日言われた言葉が脳裏を過った。
 勝てないことが悔しいワケじゃないと知っている。
 ただ、隣に並ぶことが出来ないのが、僕は―――





 勝てない、勝てない、勝てない。

「なんで」

 唇を噛み締めて、一言呟く。あの人に、勝てない。
 沖田に勝てないのはもう諦めた。あれは人じゃない、なんて思う。
 天才だと、思う。
 だけれど、永倉さんは天才じゃない。人なのに、俺と同じ場所にいるのに、勝てない。
 何度挑んでも、勝てない。そうしてなぜか、あの人に勝てないことだけはひどく自分が矮小に思えて許せなかった。

「なんででしょうね、ここまで来るとまるでアンタに執着してるみたいで自分でも反吐が出るんですが」
「うっさ。そんなこと言いに来たの?」

 ヒュッと空を切る音がして、それからその人は一言言って汗をぬぐった。

「もう夜ですけど」
「もう夜だからガキは寝な」
「俺さ、アンタのそういうところが嫌いなんですよ」
「……はあ?」

 不思議そうに、というよりは迷惑そうに言ったその人は、誰もいない夜の道場で、一人で竹刀を振っていて、だから俺は壁に凭れてそれをただ眺めていた。俺が眺めていると知っていても、彼はそれを止めなかった。ただ竹刀を一人で黙々と振る姿が、ひどく疎ましい。

「アンタ、十分強いでしょう?」
「知らね」

 短く答えて、永倉さんはこちらを振り返りもせずにまた竹刀を振ることに戻った。
 人の、定められた領域、枠組みから、確かに俺も永倉さんも出られなかった。沖田を見ていれば分かる。天才とか、人じゃない何かってのは確かにいる。だけれど、それでも、永倉さんは十分強かった。
 考え方だって、思考だって、その強さに比例するように、どこか人間離れしていて、それさえもひどく疎ましく、ひどく怖く、だけれど最後の一線を越えないその人に勝ちたくて、その人が腹立たしくて、それなのに。
 彼はいつも一人で、誰も見ていないところで剣術の技を磨いていた。
 もう十分だと誰が言っても、もうこれ以上どうにもならないとどこから見てもそうだとしても、彼はそれを止めなかった。
 何人斬っても、何人殺しても、誰に届かなくても、人間を辞められなくても、誰に勝っても、誰に負けても、何があっても、何がなくても、永倉さんはただ一人で竹刀を振る。
 練習なんていう分かりやすいものじゃない。
 ただ、繰り返すように。ただ、続けるように。それが当たり前のことのように。

「強くなりたいんですか、永倉さんは」
「……どうだろうね。一は強くなりたくないの?」
「俺は強くなりたいですよ。だけど、アンタは強くなりたくてこれをやってるワケじゃないでしょう」
「そうかもね」

 笑いながら、ただそれを振りながら、その人はそう言った。永倉さんと俺以外に誰もいないその場に空を切る音がただ響く。

「何人殺しても、何度斬られても、俺は強くなれない」
「アンタは十分強いだろ」

 言葉に思わず反駁すれば、その人はやっぱり笑ったまま言った。

「俺は総司みたいにはなれないし、なる気もない。だけど」

 だけど、と言ってその人はもう一度大きく竹刀を振りかぶった。そうしてそれを振り下ろして、それから汗を軽くぬぐって言う。

「今晩はおしまい。寝ろよ、ガキ。背が伸びなくなりますよ」
「うるせーな、余計なお世話って知ってるかこの馬鹿野郎」

 言い返した俺に軽く笑って、永倉さんは竹刀を片付けた。





「だけど」

 誰もいないそこで、俺はただ竹刀を振って、それからふと呟いた。
 あの後、続くはずだった言葉が今なら分かる気がしたから。

「俺はアンタに勝てなかった。俺はアンタが嫌いだ」

 今でも、ずっと。
 だけど、人という枠組みの中で、俺たちは生きた。生きてしまった。
 生きてしまったから、そうして刀というものを取ってしまったから、だから、だけど、追い付けない才能はあった。だけど、ただ人であるままで、ただ刀を振っていることに、俺たちは確かに意味を持っていた。

「だけど、人のままでいたかった、人のままでいるしかなかった」

 強くなれなくてもいい。アンタには勝ちたかった。アンタに並びたかった。だけど、それでも、ただ。

「勝ちたかったですよ。勝てない、頭に来るほどに、自分が嫌になるほどに」

 だって、俺はやっと気が付いた。アンタがあの日、あの日も、その先もずっと一人で竹刀を振り続けたそれは、俺がどう頑張っても勝てなかったそれは、ただ人のままでいたかった、人のままでいるしかなかったというだけのことなのだから。

「俺からすれば、アンタだって十分に、人並外れてたのに」

 それでも、俺たちは人として生きて、そうして幸いにも人のまま死ねるのだ、と思ったら、ひどくそれが空しく思えた。


 冷たいような、突き放されたような、無言の空白。虚しさ。虚無。


 その天賦の、天与の何かに、俺たちの居場所はない。


 居場所がないから、人のまま生きられた。
 ただ生きて、ただ死ねた。
 人のまま生きるしかなかった。
 ただ生きて、ただ死ぬしかなかった。


「あ、れ?藤田さんでしたか」
「ああ、今晩はあなたが当直でしたか。申し訳ない。今消しますから」
「いえ、別段大丈夫ですが……こんなことなさるんですね?おひとりですか?お相手しますかと言いたいところですが、藤田さんは剣術の方も随分達者だと伺っているので、私程度ではどうしたものかな」

 同僚に声を掛けられて、一人で竹刀を振っていたその場所の道場をぼんやりと眺める。それからもう夜か、と天井を見上げてから振り返る。

「弱いですよ、私は。ただの手慰みです。今、消しますから少しお待ちを」

 不思議そうに首を傾げた同僚に、もう一度言う。

「弱いですよ、私は」




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2023/8/16
2023/10/11 サイト掲載