これも違う、あれも違う、と沖田は大学生が使う狭いアパートの洗面台であたふたと着替えを繰り返していた。もちろん、このアパートに鏡台なんていう気の利いたものはないから、どうしてもこの狭い洗面台でしか洋服を決められない。

「だって」

 ぽつんと彼女は言う。今日一緒に出掛ける相手の横にいる女の子は、いつも綺麗に着飾って、あか抜けていて、と。もちろん学業は修めているが、剣道の腕を買われて就職やら何やらもそちら方面に寄っている彼女には、どうして同級生が、もっと言えば彼の周りにいる女の子たちはこんなに甘い香りをさせているんだろう、どこでこんなに可愛い服を買うんだろう、とこの頃思うようになっていた。

「その子たちの方が、絶対いいのに、同じ部活だからって気にしなくていいのに」


カラギーナン


「おーきーたーちゃん」

 掛かり稽古に全力を出し切って、面を取ると思わずごろんと広い道場に転がった沖田に、気の抜けた声が掛けられる。部活の最後が掛かり稽古なんてスパルタだなと前々から思っていたが、苦になるものでもない。ただ、息が上がって寝ころんだのは昨日徹夜でレポートを書いたからか、なんて思ったら自分が情けない。そう荒い息で見上げたそこにいたのは同じ部活で腐れ縁の斎藤一だった。
 腐れ縁、というのは、高校の時からライバル校にいたから顔見知りだったのだ。女子と男子では全く違う畑なのだが、互いにほとんどトップの成績を収めていた男女ともなれば話をすることもあった。その相手がまさか同じ大学に入って、同じような進路を選ぶとは思ってもみなかったのだけれど。

「一緒帰ろ」
「ちょっと、待ってください」
「はいはい貧弱ちゃん」
「からかわないでください!」

 そうしてその腐れ縁は、アパートの位置まで近くて(同じ大学なのだから当たり前なのだが)、斎藤は毎日のように沖田を送っていた。
 だけれど、と荒い息で彼を見上げながら沖田は思う。「今日は先に帰るね」と彼が言ったことは一度や二度のことではない。別に毎日送ってもらえるのが当たり前だなんて思ってはいないが、その時に彼が付き合っているか、思われている誰かと一緒に帰ったり、食事に行ったりしているのだ、と思ったらどうしてかひりひりと心が痛んだ。

「今日は誰もいないんですか」

 だから沖田は起き上がって思わずそんな嫌味を言う。だって、嫌味の一つも言いたくなるだろう。この男は顔と性格だけはいいからか、そこらの同級生にしろ先輩にしろ後輩にしろをとっかえひっかえしても人気が落ちないのだ。それどころか順番待ち、と後輩が言っているのを更衣室で聞いてしまい、唖然としたこともある。

「なーにが?僕はいつでもフリーですけど?」
「嘘ばっかり。着替えてきます」

 そう言って更衣室に向かった沖田の背中を、斎藤はにこりと見送った。





「ねー、沖田ちゃん」
「はい?」
「今週の日曜とか暇?」
「え?」

 帰路、突然斎藤にそう言われて、彼女の中にあったのは驚きよりも「ついにか」という感情だった。今まで友人だと思っていた。そんなふうに、彼の周りの女の子たちのように見てはもらえないだろうと思っていた。でも、その一方で、一日、いや、一晩限りの、「友達」になりたかった訳ではないのに、と。

「暇ですよ、どうせ」

 だからぶっきらぼうに言ったら、斎藤はへらっと笑った。

「じゃあ駅前に6時ね。夕方だからね、朝は駄目だよ」
「当たり前でしょう!」

 そんなことを言っているうちにアパートに着いてしまう。そこで別れて、今週の日曜まであと三日ほどしかないことに彼女は気が付いた。
 三日程度しか、もう彼とこんなふうに過ごせないのか、と。
 ああ、明日から試験の関係で部活がないな、と思ったらどうにも遣る瀬無かった。





 結局、リブセーターにスカート、寒いから厚手のタイツというどこにでもいそうな服に落ち着くころには、時計は5時半を回っていた。今から駅前に行っても十分間に合うが、妙なところで律義な彼はきっと待っている、と思ったら焦りが出た。
 そうしてもう一度だけ鏡を振り返る。

「どこにでもいるじゃないですか、こんな子」

 どうして私なんだろう、と思って彼女は部屋を出た。





「待ちました?」
「待ってないよ」

当たり前のように言って斎藤は空になった缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。

「待ってましたよね?」
「待ってないって」

 それは、初めて出掛ける冬に相手を待たせた罪悪感か。
 その合間に、彼はガコンと自販機から甘ったるいココアを取り出した。

「はい。冷えるから」
「つっ」

 へらっと笑ってその缶を沖田の頬に当てる。急なことに驚いたように見上げてきた彼女に、「寒いでしょ」と斎藤は言った。

「待ってた斎藤さんの方が寒かったと思うんですけど」
「うん?慣れてる。待たせるより待つ方が一ちゃんは慣れてますよ」

 その一言が、嬉しいはずなのに彼女はちょっとした引っ掛かりを覚える。自分以外の誰かを待つことが、きっと彼には何度もあったのだろうと思ったら、嫉妬に似た感情を抱いた。

「そういうとこですよ」
「うん?」

 だから何とは言わずにちくりと言ってしまった自分、というのもまたなんだか格好がつかなくて、彼女はちょっとうつむいた。うつむいて、それからココアの缶を開ける。

「甘い」
「でしょ」
「斎藤さんはこうやっていろんな女の子にジュース買ってあげてるんですね」

 ほら、やっぱり口から出てくるのはそんな嫉妬じみた言葉だ。せっかく二人で出掛けるのに。初めてなのに、と思ったら、そんな些細なことで子供のように駄々をこねる自分が嫌だった。

(そーいうとこですよ)

 それに斎藤は笑う。そういうところですよ、そうやってすぐ嫉妬してくれるから楽しくなってやっちゃうんですよ、と沖田の思考なんて見抜いている彼は、遊び慣れていると言うべきか、それとも執心が過ぎると言うべきか。

 いろいろな子と遊んでいるのなんて彼女も知っているだろうし、そうして今日誘ったのだってその遊びの範疇だろうと彼女は思っているのも分かっていた。
 だけれど、斎藤にとって沖田は高校の頃から憧れのアイドルのような存在だった。女なのに強くて、ぶれなくて、何よりどんなことにも靡かない、染まらない。
 そんな彼女と同じ大学に進学したのは偶然だったが、自分の遊び癖を見られるのは必然だった。

(本当は)

 こんなひどい男の典型のようなこと、言えたものではないのだが、本当を言えば本命は高校の頃から沖田一人だ。ただ、その牙城を崩すのは難しくて、そうして自分の軽薄さも相俟って遊び歩いたことは反省している。

「セーター可愛いね。足も冷えないようにしてるし」
「お世辞ならいいですよ。これくらいしか服持ってないので」

 つっけんどんに言った沖田は自分ではこの嫉妬心を飼いならせそうもないから、早くこのデートとやらを終わらせたいと思っていたが、斎藤は本気でそう思っていた。私服なんて見慣れているけれど、自分のために着飾ってくれた彼女が嬉しくて仕方ない。
 それをどうやって伝えようか、と思う。

「ね?」
「はい?」
「ココアだけどさ」

 だからどうやって伝えようか迷った末に、彼は先ほどの話題を蒸し返した。

「沖田ちゃん以外の女の子にやってたら怒る?」
「怒る権利ありません」
「怒ってくれないの?」
「なんなんですか、からかってるんですか!」

 ココアを握りこんで上目遣いに抗議してきた彼女に、斎藤は笑いかけた。

「沖田ちゃんが怒ってくれないと僕寂しいし、今もこれからも僕のこと怒れる権利を持ってるのは沖田ちゃんだけですよ」

 その言葉に、やっと沖田は自分の悋気も何もかにも眼前の男が仕組んだことなんだと気が付いた。

「好きだよ、沖田」

 優しく言って、斎藤は少しかがむとその唇に触れるだけの口づけをした。ココアの甘い香りが移る。

「遊びじゃなくて、本気でね?」

 その言葉に、彼女は真っ赤になる。下手に付き合いが長いから、それが嘘か本当かなんてすぐに分かった。

「好きなら初めから素直に言ってください」
「うん。でも焦らして嫉妬させて、振り向くの待ってたけど待てなくなっちゃって」

 さらりとすごいことを言った男に、つばを飲み込むようにごくんと彼女はココアを飲み切って、ゴミ箱に捨てた。

「こんな性格悪い斎藤さんと付き合ってあげられるのは私くらいです」
「そういうこと」

 そう言って、斎藤は彼女の手を取った。冬の入り口、夜はまだ早い。