その日はざあざあと篠突く雨が降っていた。

「雨」

 だからぼんやりと彼女は言った。自身の刀を検めながら、ふと、このような雨の日があったなと思った。
 雨が降ると思い出す。そうして、こんな、篠突くように強く、すべてをかき消すような雨が降ると、傷が痛む。
 ―――傷なんてどこにも残っていないのに。





 その日は雨が降っていた。
 討ち入り、なんて豪勢なことを言うな、と斎藤は思った。そうして思う。討ち入り、か、と。先陣を切るのは相変わらず沖田だろうし、藤堂あたりは逸って手傷を負うかもしれない、なんて他人事のように考えた。

「人斬りねぇ」

 くるっとさしてこだわりもない刀を手の中で回す。

「俺たちが人斬りなら、相手はどうなんですかね」

 やってることは一緒じゃないか、と思って、人を斬るや斬らぬやに思想も理想もあったもんじゃないと思っている彼は、だからそのすべてを鼻白んだ。

「今更戻れない、か」

 そうしてそれから一つの解にたどり着く。今更戻れない。誰も彼も。





「何やってる、沖田!」

 だから、その討ち入りのあとで沖田が喀血したと聞いて、斎藤は彼女の休んでいる部屋にバタバタと駆けこんだ。案の定沖田が先陣を切ったし、藤堂は傷を負ったし、なんて適当に考えていた自分の思考回路が滅茶苦茶になるのを感じながら。

「ああ、斎藤さん。すみません、ちょっと調子が悪いみたいで」

 そう笑って答えた彼女に「何やってる」と問いかけた自分の浅ましさを思った。彼女が血を吐いたことに彼女は関与していないのに、これではまるでそれが彼女のせいだと言っているみたいだ、と。

「ちょっと本気で心配させないでくれる。心臓止まるかと思ったじゃん、沖田ちゃん」

 やっといつもの通りにへらへらと、それでも何とか取り繕うように言ったら、彼女はやっぱり笑った。

「本当に、どうしたんでしょうかね。どこも斬られていないと思うのですけど」

 そう言ってからけほと小さく咳をした彼女の背を斎藤はゆっくり撫でる。

「寝てな。起こして悪かった」
「いえ、ありがとうございます」

 ああ、笑っている、と斎藤は思った。貼り付けたような、繕ったような笑み。
 いつから彼女はこんなふうにしか笑わなくなったのだろう。
 その笑みを封じ込めたのは、誰だったのだろう。

 遠い出来事のようにそう思って、彼は部屋を出た。





 だから、大坂で彼女が隊を離脱したとき、自分があの時吉田某を斬っていれば、こんなことにはならなかったのに、と斎藤は思った。


 あの時、彼女が血を吐いたのは彼女のせいではないのに。
 あの時、彼女が吉田に斬られかけたのを止めらるわけではなかったのに。
 あの時、それを止めたら彼女の病が治ったわけではないのに。


 やはり、どう考えても因果が成立しないそれが、なぜかどうにも脳裏に焼き付いて離れなかった。





 その日はざあざあと篠突く雨が降っていた。

「雨」

 だからぼんやりと彼女は言った。自身の刀を検めながら、ふと、このような雨の日があったなと思った。
 雨が降ると思い出す。そうして、こんな、篠突くように強く、すべてをかき消すような雨が降ると、傷が痛む。


 ―――傷なんてどこにも残っていないのに。

 そうして思う。なぜ自分は使えもしない刀を検めているのだろう、と。もう振るう力も、況や何かを斬る力も自分には残っていないのに。
 そう思って、沖田は刀を仕舞うとごろんと布団に横になった。ああ、もう何も残っていないと思いながら。
 傷、ともう一度沖田は思った。千駄ヶ谷の小さな家の一間で、傷、と。あの時確かに私は吉田に斬られた、と思った。斬られていないかもしれない。だけれどあの日の傷が疼くのだ。

「間違っていたかもしれない、なんて」

 あの日あの時、あの討ち入りは正しかったのか、そう思うと、ありもしない傷が疼いた。
 近藤や土方を疑うなんてそんなことなかった、なかったはずだった。ただ、大坂で隊を脱して、一人でこの匿われているそこにいると、どうしてか思う。失った仲間も、自身が斬った仲間も、敵対して斬った誰かも、本当に、それは正しいことだったのだろうか、と。

「それが傷、だなんて」

 妙に可笑しくなって彼女は笑った。その時だった。

「あー降られた降られた」

 洋装に蓑笠という、なんとも言えない格好の男に、彼女の目は見開かれた。





 玄関で家主に話をし、体を拭いてから来たのだろう。濡れ縁から見えた彼がこの部屋に来るまでずいぶんかかったような気がする、と思いながら、ぼんやりと沖田は自室に入ってくる斎藤を見つめた。

「なんだろうね、昨日まで晴れてたってのに、急に降りやがって」
「さいとう、さん」

 ぼんやりと彼女は彼の名を呼んだ。斎藤は、当たり前のことのように今日の天気について言った。当たり前の会話が妙に現実離れしていて、沖田は彼をじっと見つめた。

「なに?二枚目に惚れちまった?」

 緩く笑ってそう冗談を言った彼に、彼女はゆっくりと応じた。

「寄ってくれたんですね」
「まあ、ね」

 すとんと腰を下ろした斎藤に、沖田はゆっくりと身を起こす。

「寝てろ」
「いえ、今日は調子が良くて。さっきまで刀を検めていたんですよ」
「馬鹿かよ」

 斎藤はその言葉に本気でそう言ってしまった。彼女にそんな力が残っていないのを知っていたからでもあるし、本当にもうやめてほしいと思っていたからでもあった。

「ねえ、斎藤さん。北へ行くんですね」
「ああ」

 その最後にここに寄ってくれたと知っていた。もう、新選組という組織が形を成していないのを、彼女は知っていた。

「これで最後になりますね」
「そうだな」

 先ほどから短い言葉の応酬が続く。そう思いながら、沖田はこれを問いかけることは本当に正しいのだろうかと思いながら、彼に問うた。

「斎藤さん、私たちは正しかったでしょうか」
「……」
「私はたくさんの人を斬りました。敵も、仲間も。それが正しいと思っていた。でも、今になって思うとそれが正しかったのか分からないのです。どうにもそれが傷のように疼く」

 それに、斎藤は返す言葉を持たなかった。

『やってることは一緒じゃないか、人を斬るや斬らぬやに思想も理想もあったもんじゃない』

 いつか自分が思った通りのことを、彼女が思うのが怖かった。
 自分が思うのは当たり前のように感じていたのに、彼女が思うと、それが現実になるような気がして、怖かった。

「変ですね、傷なんてどこにもないのに」

 彼女は笑った。相変わらず何かを押し殺したような顔で。

「なあ、沖田」
「はい」
「俺たちは正しかったか正しくなかったか、正直俺にも分からん」

 何かを押し殺したその顔は、すべての感情を押し殺していた。だから、分からないと斎藤に言われて、彼女の中の何かが決壊した。ぽろぽろと涙がこぼれた。

「生きたい、行きたい」
「沖田ちゃん、落ち着いて」
「行って、生きて、あなたたちと」
「落ち着け」

 落ち着け、と言いながら、彼女以上に自分が取り乱しているのを斎藤は感じていた。


 生きたい。
 行きたい。


 その言葉の意味。自分たちが正しかったのか分からないと言う彼女。それが遠い出来事のように、近しい現実のように、彼には差し迫って思えた。

「止まってください、行かないでくださいと言ったら斎藤さんはここにいてくれますか」

 そう言った後に、激昂したように、泣き叫ぶように彼女は言った。行きたい、生きたい、だけれど止まってほしいと叫ぶ彼女を、彼は緩く抱きしめた。

「ごめん、先に行くよ」
「分かって、います」
「見届ける、全部」

 自分たちが間違っていたのか、誰が間違っていたのか、何を間違ったのか、そのすべてを見届けると男は言った。

「本当はついて行きたい。本当はあなたを止めたい。だけれど私にはもうそんな力は残っていません」
「うん」
「だから」

 彼女のほっそりとした手が彼の頬を撫でた。

「あなたに終焉を見届けさせてしまう私を、どうか許してください」

 ああ、終焉が来ることを彼女は知っているのだ、と彼は思った。
 それが誰の、何の終焉なのか、誰にも分からないままに。





「末期まで」

 明治という激動の世は、江戸の終わりからたくさんの屍を積み上げて、それでもそれに意味を持たせようとした誰かが成し得たそれだと斎藤は床に伏したままに思った。

「例えば、その一端に自分たちがなれていたのかと」

 そう、夢幻のようなことを思った。

―――彼は、末期まで新選組の、あるいは戊辰、西南の役での多くを語らなかったという。





「結構お手軽なのねこれ」

 レイシフトとやらで帰りますよー、とか、その前に契約結びますよーとかマスターが言ったり、通信機の向こうの少女が言ったりしているのを聞きながら、斎藤は、まあ確かに副長にまたしばらく世話になりますなんて言ったしなあとぼんやりそれに従っていた。

「まあサーヴァントとかいうのになっちゃったみたいなので、死なない程度に働きますよ」
「うーん、稲刈り楽しかった!ね、斎藤さん」

 そうぼんやりしていたら、そんなもの慣れたもののような沖田に声を掛けられた。

「沖田ちゃんてば元気ね」
「だってカルデア!お米もいいけど麺類も食べたい!」
「元気になったなあ」

 そうして笑顔になったなあ、とは続けられなくて、彼はその何物も遮られない、押し殺したところのない笑顔の彼女にへらっと笑いかけた。





「沖田ちゃんが笑顔になったのってさ」
「はい?」
「なんで」

 カルデアでの生活にも慣れてきたもので、食堂で当たり前のように食事を摂ったり、シミュレーターで訓練をしたり、戦闘に出たりと、忙しく日々は過ぎていった。その忙しさで誤魔化すように、斎藤は沖田と接触することを避けていた。


 問いたいことがあった。
 応えたいことがあった。
 話したいことがあった。
 話したくないことがあった。


 だから、その日、その時、目の前で昼を食べていた二人、というのは、いずれ来るかもしれない、と互いに思っていた瞬間だった。

「昔の私は笑顔ではなかったですか」
「うん、僕にはそう見えた」
「斎藤さんが言うならそうなんでしょうね」

 言葉の応酬は空しいだけだった。ひどく、息が詰まると斎藤は思った。

「斎藤さん、仕合してください」

 いつものせがむようなそれではない。透徹し切った目で彼女はそう言った。

「いいよ」

 だから彼はそれに静かに答えた。応えた。





「本当にいいのかなあ」

 ダ・ヴィンチはシミュレーターを起動させて、斎藤と沖田の二人を送り出してから言った。確かに、マスターに何も言わずにシミュレーターを起動させてストレス発散やら訓練やらをするサーヴァントは多い。だけれど「仕合をします」と言った沖田と、何も言わずに剣を携えていた斎藤に、彼女は気圧されたような気分でシミュレーターを起動させてしまったきらいがあるな、と自分で思っていたからだった。

『大丈夫です。霊基が壊れるようなことはありませんから。ただ、マスターには見られたくなくて』

 その言葉が妙にひっかかる、と思った彼女の後ろで、壁にもたれていた男は言った。

「別に大丈夫だろ。それに」

 新選組副長は、呆れたように、飽いたように、そうして安堵したように、続けた。

「あいつらに決着なんて着くわけねえんだ」





 フィールドは森林、天候は雨。お誂え向きだ、なんて斎藤も沖田も思っていた。
 いつかの再来だ、と。

「僕らに誂えたみたいなとこじゃん」

 ね、沖田ちゃん。と続けた男に、女は鯉口を切った。

「答えてください」
「分かってる」

 カチと彼も刀に手を掛ける。長脇差も抜くか抜かぬか、という余計な思考の瞬間に、沖田が飛び上がる。突きが来る、と思って彼は後ろに飛び退いた。飛び退きざまに抜いた脇差と、それから刀を構えて言った。

「俺たちは間違ってた」
「なぜ!」
「違う。人を斬るのも斬られるのも、誰も彼も間違ってた!」
「そんなこと、分かっています!」
「誰も彼も分からないままに、俺たちは走り続けた、止まれなかった、止まればよかった。あの日!」

 カチンと鍔が競り合う。至近距離で彼は言った。

「あの日、お前の言葉に従って江戸に残っていればよかったと今も思うよ」

 命のやり取りをしている極限状態なのに、それは睦言のように柔らかかった。

「どうして」

 じゃあどうして、と沖田は思う。こんなにも優しくそう言うのに、どうして止まってくれなかったのか、と。そうして、だけれど思う。

「私は止まりたくなかった!あたなは先に進めた!」

 その叫びに、斎藤は一度刀を離して後ろに下がる。下がってそれから、両方の手の刀をバタッと投げ捨てた。

「え?」


 そうしてそのまま、ゆっくりと構えを解かない沖田に近づいた。
 まるで、その刀でずたずたと斬ってくれとでも言うように。


「あの日、吉田を俺が斬っていれば、お前は池田屋のあとに血を吐いたりしなかった」

 幻影が、付きまとう。

「あの日、お前が血なんか吐かなきゃ、お前が死ぬことはなかった」

 ああ、嘘ばかりがその口から零れ落ちる。

「全部、嘘だ。お前の病を俺は癒せなかった。俺たちは時代に逆らった」


 その言葉に、からんと沖田は刀を落とした。

「私たちは」
「誰が、何が、間違っていたかじゃない」

 斎藤はゆっくりと手を伸ばした。その手を、沖田はゆっくりと取った。

「ごめん、答えなんてないんだ」
「はい」
「俺たちは、間違っていた。俺たちが斬ったやつらだって、山南さんだって、芹沢さんだって、伊東さんだって、副長だって、局長だって、間違ってた」
「私も、あなたも間違っていた」
「うん」

 ゆっくりと取った手を、そのまま引き寄せるように彼は彼女を抱きしめた。

「だけれど止まれなかった」
「私は止まりたくなどなかった」

 進みたかった、生きたかった。そう思ったら、涙がこぼれた。

「なぜ笑えるのかと、斎藤さんは訊きましたね」
「うん」
「それはたぶん、私がもう私ではないからです」
「それは違う」

 そう言って、より一層強く斎藤は沖田を抱きしめた。

「沖田は変わってないよ」

 俺が保証する、と彼は続けた。

「たぶん、たくさんのことがあったんだと思う。いろいろ聞いたし、いろいろ見た。じゃあ、俺は。お前には変わって見えるだろう?」
「……」
「あのあと、俺は生きたよ。会津で副長を見送って、そのままそこにいて、それから新政府の時代になって、警察になって、西南戦争に行って、そうしてそれから、ゆっくり死んだ」
「はい」
「見届けるって沖田ちゃんと約束したからなんだぜ」

 ちょっとだけふざけたように言った男に、沖田はしがみつくようにして、そうして叫ぶように言った。

「ごめんなさい」

 叫ぶように、祈るように。

「あなたは、あんなにも必死だったのに、私は、あなたに全てを預けてしまった」

 その生命までもを、あなたに預けてしまったから。
 その魂までもを、あなたに預けてしまったから。

 ああ、傷が痛むと彼女は思った。
 傷なんて、どこにもないのに。


(ああ、違う)

 誰かを斬った時、誰かに斬られた時、誰かを裏切った時、誰かに裏切られた時、確かに私は傷ついていた。

「私は、ではなんだったのでしょう」
「分からない」
「それがあなたの答えですか、斎藤さん」
「ああ」

 だけれど、と彼は続けた。

「もう傷つかなくていいよ、沖田」

 もう何にも縛られないで、何にも傷つかないで、何をも恐れないで。
 そう在りたいと、ずっと願っていたのは誰だったろう。

「斎藤さん、あの日、私はあなたに全てを預けました。傷も、痛みも、未来も」
「うん」
「だから、あなたももう傷つかないで」

 今度こそ、守ってみせる。
 ……何を?誰を?どうやって?
 答えはどこにもない。


「大切なものをもう取り落とさないように」
「そう在りたい」

 静かに彼は答えた。

「帰りましょう。みんなきっと心配しています」

 ぱっと離れて、刀を拾い、それから沖田は何の憂いもない顔で笑って言った。
 ああ、彼女が笑っている、と彼は思った。

「あー、絶対夕飯食い損ねたわこれ、沖田ちゃんのせいだからね」
「斎藤さんの腕が鈍ってたからじゃないですか」
「うるせーな、もう一遍やるか?」
「やった!」
「あータンマ、今のなし今のなし!僕猛獣使いじゃありませーん!」

 ふざけ合いながら、じゃれ合いながら、二人は同じ場所に帰ろうとしていた。
 遠い昔に、同じ屯所に帰る道すがらのように。
 傷はもう痛まない。
 疵なんて、最初からなかったのだろう、と、彼女はやっと思えた。


「もう痛くありません」
「そう」


 女の言葉に、男は短く答えた。
 それが二人の答えだった。