胡蝶之夢
ひどく冷える。
斎藤は引き金に掛けた指がかじかむのを感じながらぼうっと遠くの出来事を思った。
京は盆地で、冬ともなれば雪も降り、底冷えもした。だけれど、この会津という土地の寒さはそれとは別種のもののように彼には感じられた。
「例えば」
だから、例えば京に残っていれば、江戸に隠れれば、あるいは、ここよりも寒い土地へと行った男のように進めば、この土地の寒さに慣れるということはなかったのかもしれない、と。
それは郷愁に似ていて、哀惜に似ていた。
彼は、もうすべてが終わったことを、すべてを見届けてしまったことを知っていた。
*
「蕎麦食いてぇ」
「斎藤さんっておそば好きですよねぇ」
カルデアの食堂でコロッケそばを平らげた後に、もう一度そばが食べたいと言った男に、沖田は呆れたように言った。
「今食べたじゃないですか。まー、見廻りのお昼とかも二杯とか食べてましたけど」
「まあね。でもあれよ、うどんより蕎麦が好き」
「どんよりを使って例文を作れ……駄目だこの人」
妙な言葉遊びは新撰組というくくりというよりかは同郷ゆえに通じるそれか。
「蕎麦ってさ」
「はい?」
「不毛な土地で育つんだよ」
斎藤はそう言ってごちそうさまでしたと手を合わせた。
「そんであったかい蕎麦はどこで食ってもあったまる」
遠くを見つめるように言った斎藤のその言葉を、沖田はぼんやりと聞いていた。
不毛な土地、温まる。
まるで自分たちに必要だったすべてがその食べ物にあるのだと言っているような男のそれが、郷愁で、そうして哀惜だと彼女は分かってしまった。
何を愁い、何を惜しむか、誰にも分からないままに。
*
「寒い」
布団にくるまって、ここの空調は全く問題がないはずなのに、と斎藤は思った。それから、ああ、あんな話をしたらだ、とそうして思う。
「寒い、惜しい、寂しい、悲しい」
寒さは、そのまま嘆きのように、憂いのようにその身を苛んだ。
「もう北へ、行かなくていい。ここ、で」
つぶやいて彼は浅い眠りに落ちた。
*
会津の冬は底冷えがした。だが、自分の生はそこでは終わらなかった。それでもなぜか、あの日、あの時、あの場所にいた記憶がこびりついて離れない。
そうして、そこに行けなかった女と、そこからさらに北に行った男に向かって、自分が何か叫んでいるのを、夢の中の自分、というものを俯瞰しながら斎藤は見ていた。
行かないでくれ、やめてくれ、来てはいけない、ここは違う
そんな断片的な単語が口から零れ落ちる。それは叫びなのに、ごうごうと吹き荒れる吹雪に掻き消された。
「行かないで、くれ」
頼むから、誰も彼も。
*
「ぬくい」
「ちょっ、斎藤さん!?」
あまりに斎藤が起きてこないから、とマスターに言われて彼の自室(なぜボイラー室から脱走したんだろう、と彼女は思っている)に沖田は彼を起こしに行ったら、なぜかこんなことになっていた。
こんなこと、というのは…
「さいとーさん、おーきーてー」
「んぁ……熱源」
そう寝言のように言って彼を揺さぶっていた彼女を斎藤はそのままベッドに引きずり込んだ。
「ぬくい」
そして彼女は即席の湯たんぽか懐炉になったのである。
*
「寒い」
寝言の様に、譫言の様に言いながら、彼は彼女をぎゅうぎゅうと抱きしめたまま起きやしない。寒い?ここは空調もばっちりなのに、と思ってそれからふと、ああ、彼は夢を見ているのだと沖田は思った。
「もう、北に行かなくて、いい。ここで」
「斎藤さん、起きて」
「ん?んん?うわっ!?沖田ちゃん!?湯たんぽ!?」
鼻を摘まんで彼を悪夢から呼び覚ます。そうしたら訳の分からないことを言いながら彼は飛び起きた。
「起きましたか?」
「あー、ごめん、起こしてくれたのね。手近な熱源につい」
そう言った彼に彼女は静かに問いかけた。
「会津は寒かったですか」
それに斎藤はぱちぱちと、寝起き特有のそれか、それとも何か他に心当たりがあるのか、不思議そうにこちらを見た。
「いつから……?」
「いえ、斎藤さんは何も言っていませんよ」
沖田の目は彼にどう映るだろう。彼は彼女のこの言葉をどう思うだろう。
「読心術?沖田ちゃん」
けれど、そんなこと何も感じさせないように、ふざけたように言ってから、斎藤はもう一度沖田を抱きしめた。
「あーぬくい。これでいいんだよ」
「ちょ、起きて!」
彼女の言葉なんかお構いなしに、これでいい、と彼はもう一度言った。
そうして、彼女は遠い夢から醒めた彼に、されるがままになっていた。
それもいいと思いながら―――
*
「サーヴァントってさ」
沖田を抱きしめたまま斎藤は言った。寝坊のことはもういいだろう、と互いに思っている。昼まで寝ていたって、たぶん誰も怒らない。
「はい」
「夢、見るんだね」
「……そういう人も中にはいるみたいです」
逡巡して、沖田は答えた。彼の見ていた夢の内容を聞きたいし、聞きたくなかった。
「会津は寒かったなあ」
沖田を抱きかかえたままで彼は言った。
「ほんとに寒くて、あーここは貧弱ちゃんの沖田ちゃんじゃ耐えられませんわ、と思いましたね」
それはまるで、もし叶うなら彼女もそこに行けたのだ、と言っているようにも聞こえた。
それがどうにも悲しくて、どうにも嬉しかった。
「況や、副長の行った函館なんてムーリー」
ふざけたように言って、だけれど彼は沖田を抱きしめる手を緩めない。何かを恐れているように。
「みんなバラバラになっちまった」
「はい」
「同じ方を向いていたはずだったのに」
そう言って、彼は殊更強く彼女を抱きしめた。
「夢を見ていた」
「はい」
「俺は、やめてくれと、行かないでくれと叫ぶのに、誰も彼もが一番つらい道に進もうとする、夢」
そうしてそれから、彼は自嘲気味に笑った。
「それは夢でもなんでもなくて、現実なんだ」
「そう、でしたね」
「沖田ちゃんが起こしてくれなかったら」
彼はそこで言葉を切った。
彼女が起こさなければ、どうなったというのだろう。
それは言わなくたって分かっていたし、言わなければ分からないことだった。
「北の方には蕎麦畑があった」
「……はい」
「蕎麦は不毛な土地で育つ。俺たちみたいに」
ぽつりぽつりと、脈絡もなく彼は言った。
「住んだこともない土地に、なぜか郷愁を覚えたし、ひどく息が詰まった」
それは郷愁に似ていた。哀惜に似ていた。その土地がもう持たないことを知っていたからかもしれない。
「負け戦なんてガラじゃない。だけど」
「はい」
「蕎麦はどこで食ってもあったまる」
まるで繋がっていないことを彼は言った。まるでそれが当たり前のように。
「沖田ちゃんみたいに、ね」
そう言って彼はぎゅうと沖田を抱きしめた。
「私は温かいですか」
「うん、すごく」
「じゃあ起きましょう」
だから沖田は、この話を、遠い夢と遠い昔話を終わらせようとそう言った。
「みんな心配してます。だって斎藤さんがあんまり寝坊するから」
ふふと笑って言ったら、斎藤も笑った。
「そうだね。起きた方がいい」
こんな夢からは。こんな夢幻からは。こんな、現実からは。
覚めてしまった方がいい。醒めてしまった方がいい。
「さーって。蕎麦でも食いますか」
ゆっくりと彼女を解放して、彼は大きく伸びをした。
「相変わらず好きですね、おそば」
そりゃあね、どこで食ってもあったまりますから、と彼は思いながら、そう言った彼女を見つめた。
遠い夢から自身を揺り起こしてくれた、彼女を。