今宵あなたと


「サイッアクだ」

 ぼそりとつぶやいたが、いつものようにその仏頂面に葉巻を持って行くことすらできずに、口寂しさを紛らわせるわけではないがエルメロイU世はもう一度「最悪だ」とつぶやいた。

「何が最悪なんだい、我が兄よ」
「……ライネス、今日の会とやらは」
「だから同伴者がいると言っただろう?」

 時は一日ほどさかのぼる。

『今度ね、外交とまでは言わないがちょっとした社交パーティーと言ったらいいのかな』
『どうせどこぞの派閥との折衝みたいなものだろう』
『まあそうなんだけれどね。必ず同伴者が必要なパーティーで、兄上に助けてもらおうと来たところさ』
『珍しいな。グレイに頼めばいいだろうに』

 ああ、友達いないもんなと嫌味を言いかけて、それからそれが貴族の社交なら誘える者も限られてくるだろうと思って、エルメロイはその嫌味を飲み込んだ。

『まあ、そんなところにレディを連れていかれても困るんだが』
『では決まりということで』

 優美に微笑んだ義妹の顔が、今でも彼にははっきりと思い出せた。

「最悪だ」

 エルメロイはもう一度つぶやいた。その苦渋に満ちた顔がどうしようもなく楽しく、嗜虐心をそそられる、などと思いながら長躯の先の顔をライネスは見上げた。

「何がだい、我が兄よ?」
「これの、どのあたりが、社交で?」
「舞踏会なんてありふれた貴族の遊びじゃないか」

 ふふと笑ったライネスにエルメロイは言葉を失っていた。
 同伴者が必要なパーティーなんて時点で気づくべきだった。別に事件があるわけではない。だけれどこれは重大事案だった。


「レディ…お前、私が踊れないの知っていて誘ったな」
「おお!まさか我が兄、ロードともあろうお方がダンスも踊れないなどということがあるはずがないと思っていたのだが、苦手なのかい?」
「とぼけるな!」

 彼はそう言ったところで、ライネスに視線が集まっているのを覚った。そうか、同伴者以外とも踊るのは当たり前か、と思って、彼は大きく息をついた。

「レディ、私を困らせて気は済んだだろう。仕事をしてきたまえ」
「兄上は厳しいな」
「あくまで私は同伴者、だからね。悪いが向こうで飲み物でももらってくるとする」

 そう言ってエルメロイがライネスのそばをすっと離れれば、ライネスのもとには何人かの若い貴族が一曲の時間の誘いに訪れた。それを横目で見て彼は大きく息をつく。

「虫除けか、私は」

 片手で適当に受け取った酒が思いのほか甘くて、それも相まって彼はグラスを持っていない方の手で眉間を押した。

「確かにアイツの嫌いそうな社交ではあるがな」

 そう言ってから彼は本当に自分は踊れないのだから、と思いながらも、ひらひらと蝶が舞うように、その主催の屋敷全体に響くような音楽の中を、代わる代わるの相手と踊る妹をぼんやりと眺めていた。
 嫌いであってもこなすこと、それがエルメロイのためになるならば、という妹の思考はすぐに分かる。分かるが、踊れもしない自分が来ても意味はないし、若い貴族が適当に容姿だけでライネスに声を掛けるような舞踏会に意味があるとは到底思えなかった。
 ただ、相手方の顔を立てるという意味合いが強いその踊りは、だけれどひどく優美だ、と彼は思いながら甘い酒杯をあおった。

「あの、もし」

 それで、彼は自分の横に女性が来ていることに気が付くのに一白遅れた。

「ああ、私ですか」
「よければ一曲、ロード・エルメロイ」

 すっと差し出された手に、ああ、この手を取らないといけないのか、と一瞬思ったところだった。

「兄上、探したんだぞ。もう戻らなければならない時間だろうに。おや、ご婦人、これは失礼。我が兄はこれから会議でしてね。こんな夜更けに私を連れまわした上に会議だなどと、情緒のかけらもない」
「おいっ」
「あ、いいえ、姫君。お引き留めしましたわ、ロード」

 ふふと笑ってその女性は立ち去っていく。なるほど、自分の素性を知ろうが知るまいが、踊る相手はいくらでもいる、そんな会だったか、と彼は妙に得心した。

「ということで、帰ろうか我が兄よ」
「レディ、大丈夫なのか」
「ああ、ここの御子息と3曲も踊ったんだよ、私は。褒められてしかるべきだし、今の言い訳を先ほど言いふらしてきたところさ。妹をいたわっておくれよ」

 そう言って本当に疲れたようにひらひらと手を振ったライネスの手を彼はすっと取った。

「ご苦労、ライネス」
「ん?なんだい?本当に労われると少し怖いない」
「お前の中の私はどうなっているんだ」

 そう言いながら、彼は取った手をゆっくりと持ち上げた。

「それでは一曲お相手願おうかな、我が妹」
「おや、これは珍しい。足など踏まないでおくれよ、我が兄」
「この一曲で帰るからな」
「はいはい」

 やれやれと言いたげなのに、ライネスはどこか楽しそうだ。オーケストラの演奏が耳に届く。すっと彼がステップを踏んだところで、全く違う動きでライネスが彼を引き込んだ。

「おい、ライネ、ス」
「一曲踊ってくれる礼さ」

 大好きな我が兄、といたずらっぽくライネスは笑って、何事もなかったようにステップを踏む。

『葉巻がなくては口寂しいだろう?』

 そう言って口づけたませた妹に、エルメロイU世は苦笑して慣れないダンスのステップを踏んだ。




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2020/8/15