おちかた
その比丘尼は、霊脈に椿を植えて歩いていた。
「道満、私に何を見る」
「何も」
比丘尼の髪は長く、黒く、そうして足取りは軽やかだった。
女の童のような爛漫さを持ちながら、その声は金属が触れるように重く、そうして何よりも、その魂の質量が重くのしかかった。
「貴女が拙僧に見るべきものを持たぬように、拙僧に貴女の何を計れましょうか」
「そうか」
「貴女は、何を望む」
「死を」
「拙僧には与えられそうもない」
「そうだな。では、若狭へ行くか」
「どこへなりとも」
ぽとり、と椿の花が落ちた。春の終わり、夏の始まりの頃だった。
*
「ええ、ええ!だからあり得ない」
「お前は八百比丘尼を知っているの?」
「知っていますとも、我が娘にして我が母、永遠の童女、永遠の貴人」
だからあり得ない、とそのアルターエゴは言った。カルデアにいることが間違いなのは、私もこいつも一緒か。
「ねえ、永遠を生きることの辛さを知っていて?」
「知りません」
「正直でいいものね」
「しかし、拙僧はその『永遠を生きる』貴人に仕えていた。育てたなどあり得ない!あれが人の手に負えるものか!」
人魚の肉を喰らって千年の命を得たという比丘尼は、その二百年を人に譲り、自らは八百の歳月で生涯を閉じたという。しかし、このアルターエゴはそれはあり得ないのだと叫ぶ。
「若狭で、あの方の死すところを拙僧は見ていない。あの方が死ぬなどあり得ない」
「なぜそう言える?」
そう問えば、アルターエゴはけたたましく笑った。
「あなたなら分かるはずだ、芥ヒナ子!雛芥子の貴婦人、虞美人よ!」
「その名を呼ぶか、蘆屋道満」
「呼びますとも、何度でも。永遠の命を繋いだあなたなら!」
けたたましい笑いと叫びに、私はだけれどそれを不快とは思わなかった。ああ、そうか。八百比丘尼は今も生きている、と感じることが出来た。
「だからお前は人類悪になれないのだ、リンボ」
「ああ、なんという。そうでしょうとも、あの方を語ったビーストは、しかし確かにヒトを愛していた。あの方は確かに、世界を愛していた!」
「そうでしょうとも。私には出来なかったが、その比丘尼には出来たのね」
「しかしあの方は人類悪にはならないでしょう」
「なぜ?」
「あの方は―――」
そこで男は言葉を切った。夏の悪夢が明けてすぐのことだった。
*
比丘尼よ、人魚の肉を啖うた比丘尼よ、貴女は。
「私は人を愛してはいなかった。貴女は世界を愛していた。しかし貴女は、貴女には誰かを愛するということがあっただろうか」
例えば私を。或るいは、貴女自身すらを。
「ああ、そうです、過去形にするのは間違っている!」
貴女はいまだ、遍く衆生を救うために鈴のように笑いながら、錫杖を手に椿を植えていると私は信じている。
だが。
「そこには一片の愛もないのだと知っていました」
貴女が私を顧みることが一度もなかったように。
「若狭へは、行きませんとも」
貴女はそのおちかたにはいないと知っていた。
そのおちかたに、貴女の墓などないと知っていた。
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永遠の貴人、八百比丘尼と虞美人を並べたかった。そしてパイセンはリンボが人類悪になれないのを知っている。リンボは比丘尼が人類を愛していないのを知っている。無限ループと見せかけた道満にだけ救いがない。
2021/5/26
2022/5/6 サイト掲載