律の調べ


 秋、襲の色目の美しい着物を着たその方は、ぽろりと琴を奏でていた。この方が籠られたこの邸に出入りする者は少ない。何の曲であるかは、俺には分からなかった。

「何をしている?」

 そうしていたら、ふと庭先でその方の娘御を見つけた。少女はいつもどこか隠れるようにしていたのを覚えている。

「爪」
「え?」

 少女は小さく言った。その手にはめられていたのは、琴を弾く時の爪だった。

「母上が厳しくて、逃げてしまいました」
「琴の練習か?」
「はい」

 どこか落胆したように少女は言って、それからその爪を外してしまう。

「どうして、母上のようになれないのでしょう」

 息をついて、彼女は秋の高い空を見上げた。





 大江山で斬り落とした腕を見る。この腕を取り返しに、茨木童子は来るだろうか、と思いながら。鬼の、鋭利な爪。

「これでは、琴は弾けぬだろうよ」

 ぽつりとつぶやいて、それから自分は何を言っているのだろうと可笑しな心持になった。秋のあの日、美しい音色をさせていたあの方と、そのようになれぬと息をついて「爪」を外した少女と。

「茨木、覚えているか?」

 あの日のことを。いや、きっと覚えてなどいないのだろう。
 ふと思う。あの日、あの時、俺が何かもっと言葉を掛けることが出来たなら、あるいは、などと。きっと変わらないと知っていたけれど。

「お前の奏でる琴が聴いてみたかった」

 叶わぬ願いを口にしてみる。ああ、俺はいつも彼女の美しさすべてを台無しにしてしまう。
 そうだというのに、彼女を斬ることだけが、あの日、あのすべてを奪った「鬼」を斬ることだけが俺の人生の全てなのだと知っていた。
 抱えた大きすぎる矛盾に、静かに目を閉じた。秋の空は高く、空気はひどく澄んでいた。

「この爪では、弾けぬよ」

 もう一度、戯言のように呟く。
 思い出してくれと願いながら。
 すべて忘れてくれと願いながら。




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これもお題に沿って書いた話でした。この二人というか綱さんはいろいろ屈折していると思った。
2021/6/10
2022/5/14 掲載