そしてわたしたちは


「髪……」

 ぼそりとつぶやいて、ロード・エルメロイU世はブラシをどこに置いたのか思惟した。
 今日は珍しい休日だった。講義もない、事件もない、屋敷に呼ばれてもいない。
 ただもう一つ付け加えるならば、内弟子のグレイが義妹に取られていること、だろうか。女子会とパジャマパーティーだから泊まりなのだと言っていた。たぶん日本のコミックの知識ですね、とグレイがはにかみながら伝えてきたときには「ああ、この純粋な内弟子はあの悪魔の本質を見間違えている」と信じてもいない神に妹に代わって懺悔でもしてやろうかと思ったほどだ。
 そうしてベッドから起き上がるのも面倒なほどだが、サイドテーブルに無造作に置いてあったブラシで彼は長い髪を梳いた。

「伸びたな」

 グレイに任せきりにしているから痛んでいるところはないが、確かに伸びた。そうして自分でいじると余計に伸びたことを実感する。
 何のために伸ばしているのか、と問われれば魔術的要素のある物質だから、と答えることになるが、自分のこの髪が時価幾らで取引されるか考えただけで憂鬱だった。例えばこれが義妹の金糸のような髪ならば。

「なぜ私がそんな不毛なことを考えねばならん。くだらん」

 実にくだらない、と思ったところで、アパート、もとい、フラットの呼び鈴が鳴った。

「誰だ。こっちは久々の休みで忙しいんだ」

 そうだ。2ヶ月前に発売された日本のゲーム3本をやっとクリアしたのが昨日の夜。今日は休みだからリプレイしながら感想と改善点のエアメールをきっちり書くのと、それからクリア後だからこそ必要な公式のガイドブックを通販で買えないだろうかという、とにかくオタク趣味で忙しい予定だったのだ。昨日、「明日は魔術的な仕事はなし!無罪放免!」と内弟子がいないために買ってきたフィッシュアンドチップスというなんとも言えない夕飯を前に叫んだのは記憶に新しい。
 それでもきっちりドアを開けるのは、発売日が近いゲームがあったからなのだが。

「毎度思うんだが我が兄よ。そのTシャツはいろいろな意味で残念がすぎるぞ」
「クソッ、発売日は来週か!」
「なんと?可愛い可愛い妹は絶賛発売中だしなんなら売約済みだが?」
「帰れ!!」

 大戦略のTシャツのままだった彼は思い切り扉を閉めようとしたが、ついと足を挟まれる。さすがにそれを無視してドアを閉められるほど、彼の性根は腐っては、というよりも彼はそこまで勇気のある男ではなかった。例えば怪我でもされたらあとが怖い。彼の勇気の総量はそちらが先行する程度だった。

「だいたい何が売約済みだ。君主の私にも知らせず男でもできたか?目出たいな!これで私は御役御免だ!」

 玄関先でこれでは近隣の迷惑になると考えたエルメロイは招き入れるわけではないがドアから背を向けて、勝手に入ってくる妹のライネスのしたいようにさせることにして、そう嫌味を言った。
 そうしたら、いつもなら10倍近くになって帰ってくる返答はなく、彼女はぽてぽてと彼の後ろをついてきた。

「な、なんだ。熱でもあるのかレディ?」
「いや、別に。兄の格好があまりにもだらしないから言葉もなかっただけだ」
「まさか本当に男でもできたというか縁談か?」

 その手の話をライネスが心底嫌うのを知っていたから思わず神妙な面持ちで聞いたら、ライネスは思い切り笑い出した。

「そんなはずあるワケないじゃないか!ロードたる我が兄に相談もなく?あり得ない!むしろそんなことをそのTシャツを着て真面目に言う方がどうかしている!」

 いつもの悪魔的なテンションを取り戻したライネスにエルメロイは大きく息をつく。

「そうか。ならエルメロイの姫君は今日はどのようなご用件で?」

 当主はそちらだろうという嫌味を言ってやろうかとも思ったが、そういうことは余計に彼を疲弊させそうだったので、これからの予定を考えてライネスはそれをぐっと飲みこんだ。

「そうそう。姫君からのご要望なんだ、兄上」
「まあなんだっていいが彼女は?」
「ああ、先にそれを謝らねば。グレイなのだがね、まさかあんなにパジャマパーティーが盛り上がるとも思わず酒なども入れてしまい」
「いや、日本的なそういうあれで酒は飲まないだろう、普通」
「テンションの問題さ。まだ寝ているんだ。起こすのも忍びないからそのまま屋敷で寝かせているよ」

 これについてはさすがにさらに叱られるとライネスは踏んでいたのだが、エルメロイは大きく息をつくだけだった。

「まあ、彼女もたまには息抜きをした方がいい」
「おお、優しいんだな。ではその優しさで一つ、スーツにでも着替えてもらえないかな?」
「はあ!?私は忙しい!レビューと要望とそれから通販が!」
「私とデートしてくれ!」

 姫君からのご要望だ!と声高に言われて、エルメロイの目から完全に生気が失われた。





「いやなに、昨日彼女と話をしていてね、買い物も満足出歩けないじゃないか、私たちは」
「それで?というかそれが?」
「あ、これどうだろう」
「赤はよせ、どうせ似合わん」
「ひどいな」
「背伸びしたいならチャコールくらいにしておくんだな」

 トリムと揃いだ、と言って、彼はブティックの一角、コートの中から一着を適当に選んでライネスに当ててみる。

「それで?」
「ああ、うん。買い物にも行けないし行く相手もいないという話題になってね。パジャマパーティーとか女子会とか、極東ではそういう時そういう話をやるんだろう」
「君と彼女が?そういう話を?ああ、これでいいな。着丈も問題ない」

 話の途中だというのに、面倒そうにそう言って、エルメロイは店員を呼ぶ。二言三言とカードを預けてそのチャコールグレーのコートを買う旨を伝えると、店員は当たり前のようにそれを受け取る。それをライネスはびっくりしたように見ていた。

「それで?付き合っている男がいないからなんだと?」
「え、ああ。なんというかいろいろ吹っ飛ぶな、我が兄といると」
「なにがだ?」
「いや、抱かれたい男ランキングとか言われる理由がわかるという意味だ」
「それは嫌味か?」

 ぎろりと義妹をにらみつければ、ひらひらと手を振られる。ここまでも大量の買い物をしたというのに、彼女は手ぶらで、対する彼は荷物の袋を3つか4つ持っていた。

「そういうところだぞ、兄上」
「はぁ?」

 そうしているうちに、丁寧に包まれたコートを店員が二人の元に届ける。

「ああ、ありがとう」

 それをはやり自然な手つきで受け取ったのはエルメロイの方だ。

「無自覚なのがすごいな」
「もう十分だろう。帰るぞ」

 ブティックから出てそう言えば、聞こえていなかったのか帰ると言われた。まあ彼の手の荷物を見ればもう十分すぎるだろう。実を言えばグレイの分の服や装飾品もライネスが選んだのだから荷物はどんどん増えていった。デート、という雰囲気ではなかったが、当初目的の男を伴っての買い物という点ではもう十分だろうという意味だった。

「情緒のかけらもない」
「情緒も何もあるか。それとも本当にそういう男がいるのか?」
「なあ、朝から思っていたんだがね、私に男がいるのいないのと、まるで父親か何かだぞ?」
「うるさい黙れ。私は未婚だし君のような悪魔と類似した子供を設ける予定もない」

 そう言いながら、収まりがつかないのだろうと察したエルメロイは通りの小奇麗なカフェに入る。そこでもほとんど流れるように紅茶とそれからライネスの分だけスコーンを頼んで彼は荷物をドサッと椅子の近くにあったボックスに入れてふんぞり返るように座った。

「葉巻は?」
「残念ながら環境保護の観点から禁煙の店だ」

 向かいに座りながら聞いたライネスは、だけれどこの通りなら他にもいくらだって煙草を吸える店があるのに、と思い、それから、彼が朝から一本も葉巻を吸っていないことに気が付いた。

「私に気を遣う必要はないんだがね」
「あのな、いや、普段から目の前で吸ってはいるがね、一応買い物というかデートがしてみたかったのだろう、君は。ならレディ、いちいちタバコを吸わないとイライラが抑えられないような男と付き合うのはお勧めしないとだけ姫君には忠告しておこうか?」

 その言葉に、ライネスはぱちくりと目を瞬かせた。

「なんだ、『デート』の趣旨は理解しているぞ、私でも」

 試してみたかったんだろう?と聞かれてライネスは面喰ったあとに笑いだしてしまった。

「なーんだ、私の一人芝居か」
「はぁ?」

 ははと笑ったところで二人分の紅茶と一人分のスコーンが届く。それがひどくおかしくて、そうしてひどく物悲しかった。


 この兄は全部分かっている。
 売約済み、などという冗談は冗談ではなく、いずれ自分がエルメロイの家名と共に売約される君主であることも、「デートを試してみたい」こと、裏を返せば「デートは試さなければできない」、自由恋愛などという世界から最も程遠いということも、何もかにも分かった上で「男がいるのか」と尋ね、「試したかったのだろう」と見抜く。本当に、腹が立つくらい上出来で、そうして愚鈍な兄だ、と思った。


「いや、私だけが勝手に盛り上がっていたんだな、と思ってさ」


 そう言って紅茶に口をつける。さらりと金色の髪が落ちたのを、エルメロイの武骨な指が掬った。

「綺麗だな」
「それはどうも」

 自然とこぼれた賛辞に、流れるように応じれば、エルメロイは続けた。

「本当に綺麗だと思う。私の髪と違ってな。例えば切り取って売ればいくらになるか考えることはある」
「は…?」

 さすがに剣呑な内容になっているそれに、思わず顔を上げれば、驚いたことにそれを言った兄は至極真面目な顔をしていた。からかわれているのかとばかり思っていたのに、だ。

「いや、その髪で贖えるなら君ももうエルメロイに縛られることもないだろうと思うことがあるという戯言さ」

 そう言って彼は彼女の髪から指を離し、背もたれに寄りかかる。それから優雅な動作で紅茶を一口飲んだ。

「不毛な戯言だがね」


 ああ、例えば。


 その髪で、この魔術という不可解極まりないすべてを贖えるならば、君はきっと自由に恋をして、自由に生きて、何者にも害されることなく平和に生きるのだろう。
 この髪で、この君主という地位を贖えるならば、私はきっとすべてを捨てて、いや、それでもこの妹のことは捨てられないのかもしれない。


 例えば、と彼は考える。いかにも不毛なことだった。


「本当に不毛な戯言だ、我が兄よ。エルメロイの家名はそこまで安くないぞ」


 ふふんと妹は笑った。


 ああ、例えば。
 私のこの髪で、この瞳で、すべてを贖えるならば、私はあなたとどこまでも逃げてしまいたい。
 あなたが思うような男が、あなたであればいい。


 ああ、でも。例えば、例えばなしでも、あなたがこれを知る必要はない。
 これは私だけの秘密。


「これを飲んだら帰ろう。久々に屋敷に、ね」
「悪魔か、お前は」
「何を言う。ロード・エルメロイ」
「二世をつけろと言っている。だがまあ」

 そう言って、彼は言葉を切った。

「元気のない君は面白みがない、ライネス」
「え?」
「朝からずいぶん元気がないので、グレイと何かあったのかと思っていたが、機嫌が治ったなら何よりだ、姫君」

(ああ、じゃあ全部)

 全部知っていたんだ、と思ったら、悲しくて、泣きたい気持ちになった。
 そうして、嬉しくて、泣きたい気持ちになった。

「全く、これでは恋人もできんな」
「心配なのかい?」
「一応兄だからな」
「兄にべったりな妹はお嫌いかな?」
「うるさい。帰るぞ」

 エルメロイはそう言って席を立つ。もちろんすべての荷物を持って。

 例えばこの荷物を持ってそのまま列車にでも乗って、どこか遠くへ行けたなら、きっともっと違う何かがあると知っていた。
 だけれど、自分たちはここで生きていく。生きている。

 その間だけでも、この世間知らずの悪魔のような、だけれど大切な妹を守らなくてはと思う。

「不器用だな、私たちは」

 ライネスの言葉に彼は答えなかった。


そしてわたしたちは




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2020/7/15