sugarless


「で?」
「うん?」
「これのどこが重要事態なんだ!!??」

 エルメロイU世の控えめな怒号が、菓子店のイートインコーナーのさらに奥、特別な部屋に響いた。しかしいくら奥でもこれ以上の声を荒げる気にはさすがの彼もならなかったが。





『我が兄よ、少しいいかな』
『また何か厄介事か?』

 アパートとは打って変わって整然とした仕事場で、エルメロイは突然来訪した妹ことライネスのその言葉にこめかみが痛んでくるのを感じていた。
 端の方でそわそわとグレイが心配そうにこちらを見ているのが救いだ。

 すべてが終わって、もう聖杯戦争などということに全てをかけることをやめた、いや、聖杯では叶えられないその『目標』のような『夢』を描いてからそう日は経っていない。
 だが、ほとんどすべての事後処理を済ませ、様々な派閥との折衝や、現代魔術科の今後の動きなどを総括したのが昨日だ。


 そうだ、昨日なのだ。


 昨日の今日でなぜこの悪魔のような妹が厄介事を抱える体でここに来る、というのが彼の本音だった。正直に言うと、ライネスが「少しいいかな」というときは、大概が「少し」の範疇を大きく逸脱すると知っているからだった。
 本当だったらアパートに帰って泥のように眠りたい。だが講義はあるし他にもやることは山積みだった。

『あの、師匠。ライネスさんは、その』

 内弟子であるグレイが剣呑な雰囲気になってきた二人の仲を取りなす様に、しかしうまい言葉が出てこないようにうつむき加減で言うと、今度はアッドがカラカラと笑う。

『イッヒヒ、コイツはチョコレートひと箱で買収されたのさ!』
『アッド!』

 グレイがそう制したら、エルメロイの視線が彼女の方を向く。

『チョコレート?』
『あの、だから、そのなんと言えば…師匠、ライネスさんのお願いを聞いてあげてください』
『話が全く見えないのだが、レディ?』
『まったく我が兄はグレイに甘いな。ほらほら、グレイからもお願いだぞ?重要事項なんだ。付き合ってくれ』

 にんまりと笑ったライネスと、それをまさかチョコレートひと箱で買収されたとは思えないグレイの組み合わせに、彼はひどい頭痛をおぼえて眉間を強く押さえた。





「もう一度聞くがね、レディ。これのどのあたりが重要事項なんだ?」
「おお、このラズベリーの使い方は素晴らしすぎてまずいな。体重が増える」
「君は年頃だから思う存分カロリーを摂取すればいいと思うがね」

 もはや自分の話を聞かずに次から次へとスイーツを食べる妹に嫌味の一つを言うが、やはり状況が見えない、というのは相変わらずだった。
 重要事項だ、と言われ、グレイにも頼まれ、またどうせ厄介事だろうとライネスに付き合った結果としてたどり着いたのがこの店だ。
 ライネスが幼い時から権謀術数に巻き込まれて、だから信用できる菓子に目がないのは知っている。そしてここも、グレイとよくお茶会をしている店だというのも知っている。知っているが、圧倒的に情報が足りない。

「我が兄よ、こういう場所でまで眉間の皺を増やさないでくれるかい?ほら、これならどうだ」

 ずいっと差し出されたのは真っ黒なチョコレートに赤い線、きっとベリーだろう装飾が施された、一種の工芸品のような品だった。

「レディ……」
「美味しいぞ?」

 そう言われて、エルメロイは大きく息をつく。もうどうしようもない、という達観からそのチョコレートを摘まむ。甘すぎることはなく、ほのかに果実の酸味が感じられる品だった。

「美味しいかい?」
「まあな」

 そう言ってから、エルメロイはふと目を見開いた。舌を刺激する甘さ、酸味、それから飲んだあつらえたような紅茶。

「そういうことか」
「実に人間的だと思わないかね、我が兄」

 ぱちり、と義妹が片目をつぶる。それにエルメロイは大きく息をついて、それから今度は自分でカラフルなマカロンに手を伸ばした。

「おや、それは甘いぞ?新作なんだ。ナッツのシリーズでね」
「お前が好きなのはピスタチオだったか。遠慮なくもらうぞ」

 そう言ってエルメロイはそのマカロンを咀嚼する。甘い、と小さく思った。

「葉巻を吸って眉間にしわを寄せているから忘れがちだが、兄上はこういうのも嫌いじゃないだろう?」

 ライネスは向かいでタルトにフォークを入れていた。

「まあ年相応にカロリーを、と言ったが太っても知らんぞ」
「その時はしっかり運動するさ。というかその言葉は我が兄は今くらいの私がお好きということかな?」
「からかうのも大概にしろ、レディ」

 そう言って、それからエルメロイもライネスが食べていたのと同じタルトの皿に手を伸ばす。
 ……忘れていた、というのが本当のことなのだ。
 人間的、なんて魔術師には縁遠い言葉だ。工房に籠って誰にも会わずにすべてを終える魔術師がいたってなんら不思議がないくらいの世界だ、ここは。


 だけれど、いや、だから。


 チョコレートが甘いと思う。紅茶が爽やかだと思う。葉巻を吸うことを一時忘れることが出来る。


 そんな時間が今ここにあることに、エルメロイはふと天井を見上げた。口中にはまだ甘さが残っている。


「私もまだまだだな」
「何がだい?」
「レディ、君とグレイの共謀だろう、これは」

 そう言ったらふふとライネスは笑った。

「ご明察。あれ以来ずっと兄上が仕事場に詰めているのでね、連れ出した方がいいとグレイと相談したのさ」
「悪いことをした」
「いいさ。もとは私が巻き込んだことだからね」

 ここの「もとは」とは、どこを指すのだろう、どの時間軸を、と一瞬思ったが、彼はすぐにその思考を放棄して、眼前の紅茶を一口含んだ。

「私は、あれでよかった」
「分かっている。だからこうして今もここにいてくれるんだろう」

 言葉は主語を欠いていた。だけれど二人にはそれで十分だった。

「美味いな」

 ああ、生きている、と彼は思う。
 味覚があり、触覚があり、妹の声を拾う聴覚がある。
 生きている、のだ。

 死にかけたことが怖かったわけではない。
 死を超越したあの王に並び立ちたいけれど、それは今ではない。
 仕事場でほとんど人間的な生活を放棄していた。

 大きな出来事から小さな出来事まで、昨日ですべてにケリをつけたそれらが波濤のように押し寄せる。
 やっと実感が沸いてきた、というべきか。

「グレイがいて、お前がいて、私は生きていて」
「うん」

 そこでエルメロイは細いが武骨な指でライネスの頬を撫でた。そこには一筋の滴が流れていた。

「あなたは、いつも私たちを置いていくから」

 ぼろぼろとライネスが泣いているのを、ああ、では今までずっと自分は気づいていなかったのだと思った。きっと泣き出したのは美味いと言ったあたりだろう。だけれど違う。
 ずっとずっと、この結末に、彼女は泣きたかったのだ、と思った。

「もう、置いていかないでくれ」
「大丈夫だ」

 しゃくりを上げて泣く妹が、どれだけ、あの一連の事件で身を削ってきたのか、いや、どれだけ自分が彼女に不安を与えていたのか、と思って、エルメロイは優しく彼女の頬を撫でた。

「私はな、ライネス。あの王と並び立てる英霊になりたい」
「うん」
「だがそれは今じゃない。いつかの、夢物語のような未来だ」
「それは!」
「ああ、そうじゃない。捨てたい訳じゃない。違うんだ」

 ゆっくりとエルメロイはライネスの目を見つめる。

「今は、今ある幸福を取りこぼしたくない。今を、現在を、取りこぼしたくない」

 言葉に、ライネスは静かに目を閉じた。

「だから、ありがとう、レディ。私はその幸福を自分で手放しかけていたんだな」
「違うさ。兄上がワーカホリックなだけだから、優しい私が連れ出してやったのさ」
 やっと調子を取り戻したように言ったライネスの頬からエルメロイは手を引く。
 そうして言った。

「では姫君のお薦めなどあればいただこうかな?」

 ああ、日常が帰ってくる、と彼女は思う。
 平凡かもしれない。凡庸かもしれない。退屈かもしれない。
 だけれど、それが最も幸福な日常なのだ、と彼女は思う。

 ごちゃごちゃしたアパート、馬鹿騒ぎの教室、物静かな内弟子、無茶苦茶な義妹。

 彼を構成する要素を作り出したのは自分かもしれない。
 だけれど、だからこそ。

「お疲れ様、私の大切な兄上」

 おかえり、と言ったら、彼は優しく笑った。




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2020/08/01