へばりつくような夜気が嫌いだった。あの日は夏で、雨が降っていた。
 討ち入り、と言えば豪勢だが、その日の雨は夏の暑さと相俟ってひどくねばつくような、へばりつくような夜気だった。
 あの日のことを、今も思い出す。

 あの日、やったことを、ではない。
 あの日、血を吐いた彼女を、思い出す。

 雨がやまない。
 止まない、已まない。


やまない


 自分の記憶と、彼女とのそれは、いつも雨で繋がっていると僕は思っていた。池田屋の時の夏の雨も、大坂での冷たい雨も、最後に別れを告げた時の土砂降りも。
 どれもこれも、彼女との記憶は雨に染まっている。

「雨、なんて降るわけないか」

 地球が白紙化したとか、もう僕みたいな人斬りじゃあ手に負えないようなそれに、僕はぼんやりと雨が降ればいいのに、と思いながら外も見えないのにじっと壁を見た。
 雨は嫌いだ。だけれど、自分と彼女をつなぐのはいつも雨だった。

 雨を含んでへばりつくような夜気も、凍るような雨にさらされた自分たちも、土砂降りの中で別れを告げたそれも。

 そうして思う。ああ、だとすれば、人理という大それたものがあるとすれば。
 自分と彼女を立ち合わせた時に、雨を降らせたのは当然なんだ、と。





 あの時例えば、自分が吉田を斬っていれば、沖田ちゃんは血を吐いたりしなかった。本気でそう思っている。そんな馬鹿げた夢のような話を、本気で僕は信じている。
 彼女の病に、彼女の生に、自分が関わっている、などという誇大妄想。
 信じているなんて嘘だ。それはただの願望で、我儘で、どうにもならない妄言だった。
 だから、カルデアで言われたことがひどく自身を苛んだ。


『病弱の剣士沖田総司が血を吐くのは自明よ』


 手軽に、気軽に沖田ちゃんが血を吐いたから思わず駆け寄ったら、自分よりも沖田ちゃんのことを知っているふうに、女の信長公が言って、「ほっとけ」と言ってきたのがひどく許せなかった。

 許せない?誰を?





 信長公の言葉が引っ掛かったままに、僕はいつも通りにコロッケそばを食べていた。いつも通り。普段通り。沖田ちゃんが血を吐くのは自明。そう、人理に刻まれたのだから。
 納得はできる。確かに彼女は病弱の天才剣士、としか形容のしようがないだろう。だけれど、それは彼女の一端でしかなく、そうしてそれは自分のせいだ、などという大それた妄言をやはり思った。
 だから僕は、あの雨の日に血を吐いた沖田総司が天才として人理に刻まれたことを「理解できない」。そうして「許容できない」。許せない、というよりは許容できないのだ、というところまでは自分の心理が理解できていた。

「隣、いいですか?」

 そう考えながらそばをすすっていたら、ふとそう考えていた沖田ちゃんが言った。

「どうぞ」

 だからいったん手を止めて、立ち上がって椅子を引く。

「ああ、すみません。なんだか紳士ですね」
「それほどでもー」

 そう言って座り直し、彼女の今日の昼食はカレーか、と思う。ずいぶんいろいろなものを食べるようになったし、元気になったのに、『血を吐くのは自明』なのだ、という現実が妙に生々しく差し迫った。

「明日はカレー蕎麦にするか」
「とか言いながら明日もコロッケそばを食べる斎藤さんでありました」

 ぽつんと言った言葉に妙なナレーションを付けて、それから沖田ちゃんはいただきますとそれを食べ始めた。

 その姿に、病弱さの影はない。
 だから僕は思わず問いかけていた。

「沖田ちゃんって雨好き?」
「はい?」

 そうしたら、不思議そうに彼女はこちらを見て、それから、ああ、とつぶやいた。

「嫌いですよ。雨が降ると剣が鈍る」

 そうしてきっぱりとそう言った。

「体も鈍る」

 そう、彼女は言った。まるですべてのことを知っているように、あの日、雨の中で血を吐いたことが当たり前だったと言うように。

「そうしてあなたが逸る」

 すべてを見透かしたように、そう言った。
 それから彼女はこちらを見つめて言った。

「あの日から、雨がやまない」

 あの日?いつのことだろう。京、池田屋、大坂、江戸、会津、函館、薩摩。彼女の知っているところにも、知らないところにも、すべてのところに雨は降り込めて、そうして止まない、已まない。

「雨は嫌いです」

 彼女は短く言って黙々とカレーを食べた。雨は嫌いだ。彼女と自分を、自分と彼女をつなぐものがいつだって雨だから、雨は嫌いだ。
 ああ、だけれど。だから、僕は彼女を、雨を、愛して已まない。

 明日はカレー蕎麦にしようか。
 だけれどたぶん、僕は今日と同じものを食べる。
 今日と同じ日常を、送る。

「今日さ」
「はい?」
「一仕合付き合ってよ」

 僕から彼女に仕合を申し込むことなんて、普通あり得ないそれに、彼女は驚くだろうか、それとも、と思ったら、そのすべての予想を覆すように、だけれど当たり前のように、静かに彼女は言った。

「いいですよ」

 肯定されたことが、どうしてか息苦しかった。
 そうして、明日も同じ日常を過ごすのだと知っていたから、今日などと言った自分が、どこか遠かった。





 何となくシミュレーターを起動させて、何となく雨を降らせて、何となく沖田ちゃんを呼んだ。あの日、邪馬台国で降り出した雨とは違う、自分自身が降らせた雨なのだ、と思ったらひどく滑稽だった。
 もし、人理という大それたものがあるのなら、彼女と自分を繋ぐのは雨だとあの日降ってきたそれに思った。それを再現できるはずもなく、自分自身で降らせた雨はひどく可笑しかった。
 だから、その滑稽さをごまかす様に、だけれど本心から、その雨の中で僕は言った。

「お前の病を治したかった」
「はい」
「でも、それも含めて沖田総司は沖田総司だった」
「そうかもしれません」


 人理にそう、彼女は刻まれた。刻まれてしまった。


「だとしたら―――」


 だとしたらそれは僕のせいなんだ、あのときお前を救えなかった、僕のせいなんだ。


 だから。

「雨は嫌いだ」

 あの日を思い出す。あの、へばりつくような雨を含んだ夜気を吸い込んで、彼女が人理に刻まれた日を。
 彼女の在り方が自分のせいだ、などという馬鹿げていて、そうして誇大で暗い願望は、だけれどどこかに自分の希望が含まれている、と思った。

「嫌いだ、全部」

 そんな馬鹿げた願望も、彼女も、自分も。
 子供じみたことを思う僕を、『病弱の天才剣士』沖田総司はじっと見つめていた。

 ざあざあと、雨が降り込めた。やまない。