プールサイドにいると、いつも塩素の匂いがして、だけれど私は入れなくて、水着にも着替えずに、体育着でそこに座っていると、どうしようもないほど面倒な気分になるから、プールの授業は嫌いだった。
 塩素の匂いも、色素が薄い髪や肌を焼く日の光も、何よりも、プールに入れない自分自身も、嫌いだった。
 ―――夏が、嫌いだった。


次亜塩素酸カルシウム


『入らないの?』
『入れないんです』
『ふーん』
『冷たそうでいいですねぇ……』
『じゃあ、そのうちどっか行く?』

 夏だし、と少年は続けた。逆光で顔の表情はよく見えない。
 夏休みだっていうのに、プールに行くために登校しなくてはいけなくて、そうだというのに私は気管支がどうのこうので、やっぱり授業と一緒でプールサイドに座っていて、そんな私に、水に濡れた彼は当たり前のことのように言った。
 小学生が行ける場所なんて、どこにもないじゃないか、と思ったら、無性に腹が立って、そうして、プールから上がって、水に濡れた髪が普段の色よりももっと青く見えて、そうして塩素の匂いがして。

『どこに行けるって言うんですか、夏休みもプールで遊んでるくせに』
『じゃあ約束。将来、おっきくなったらおきたちゃんのこと、どっか連れてくから』

 そう言って彼は笑った。夏のことだった。





「水……」

 嫌な夢を見た、と思いながら、その夢のせいなのか、それともそもそも夏だからなのか、喉がカラカラに渇いていて、そうして今日は会社が休みだったから少し寝坊したんだ、と気が付く。寝坊したからクーラーが止まっていて、余計に暑くて喉が渇いた。

「馬鹿みたい、です」

 あんな無意味な約束をして、と思いながらぼんやりと起き上がって、パジャマのままでキッチンまで行って冷蔵庫を開けたけれど、麦茶は作り忘れているし、ミネラルウォーターも切らしている。余計に馬鹿馬鹿しくなって、私はコップを取って水道から水を汲んだ。

「馬鹿みたい。どこかに行こうなんて言っていたくせに」

 そう言ってそのままその水を飲んで、私は思わず顔をしかめた。

「プール……」

 プールの匂いがする、と思わず思ってそう呟いたが、塩素だ、とそこで気が付く。今時水道水の消毒に塩素って何です?今もそうなんですか?知りませんけども、プールの水飲んじゃったみたいで、プールになんて入れなかったのに、そう無駄な八つ当たりをしながら、私の住む部屋の水道に、浄水器なんていう便利なものは勿論ついていないから、一旦薬缶で沸かさないと、と思ってそのまま水道水を薬缶に入れて火にかける。
 そうしたら何とも言えない溜息が出た。

「いいなあ、なんて」

 思ってもいないけれど。
 今朝、夢に見た少年……斎藤さんは、私の幼馴染で、大学まで一緒だったうえ、就職先まで一緒になってしまった彼が変わったのは何時からだっただろう、なんて考える。
 大きくなったらどこかに連れて行ってあげる、なんて言っていた男は、いつの間にか派手な女遊びをするようになって、そうだというのにずいぶんモテて、大学時代なんて『順番待ち』と言っている女の子たちに眩暈がした。
 そうだというのに、斎藤さんはいつも私を気にかけてくれて、そうして就職先でも女の子をとっかえひっかえだというのに、女の子がいない時は私を送ってくれたり、夕飯を一緒に食べたりするから、この間、総務部の女の子に連絡先を聞かれた。刺されないだけマシなんでしょうが、何と言いますかねぇ。

「潮時、というか、私は」

 ただ単に幼馴染なだけで、別に斎藤さんの好みでもないでしょうし、と思って薬缶のお湯が沸いたところで、玄関のインターホンが鳴る。
 荷物も何も頼んでいない休日。当たり前のように部屋まで来るのなんて、一人しか思いつかなかったけれど、億劫な気持ちを抑えて私は玄関まで行って鍵を開けた。

「やっほー!沖田ちゃん。寝ぐせ……っていうかパジャマじゃん。そんなカッコでふらふら出てきちゃダメだよ。寝てたの?」
「……」
「ん?」

 そこにいたのは斎藤さんで、当たり前のように、私が今日お仕事がお休みなら、この人もお休みなんだ、と思ったら、何となく腹が立って聞いてしまう。

「今日はデートのご予定ないんですか?」
「え?大事な予定があるけど?」

 さらりと言われて、目の前の男を殴り飛ばしてやろうかと思ったのに、彼は当たり前のように部屋に入ってきて、後ろ手で鍵を閉めて、当たり前のようにリビングのソファに座っていた。

「何なんですか、デート、遅れますよ」

 嫌味のようにそう言ったら、斎藤さんはまあまあといつものヘラヘラした顔で笑う。
 その笑顔も、声も、何もかも、大好きなのに大嫌いで、だからもう帰ってほしい、と思ったら、目に涙が溜まっていた。

「どこかに」
「んー?」
「おっきくなったら、夏はどこかに連れて行ってくれるって言ったくせに!」

 八つ当たりのように叫んだら、ヘラリと笑った斎藤さんがそのままバッグに手をやって、何かのチケットを取り出した。

「来週からさ、夏だし、とか思って土方部長に休みもらった。僕と沖田ちゃんの分」
「……え?」
「海行かない?将来、おっきくなったら沖田ちゃんのこと、どっか連れてくからって約束したじゃん」
「何、言って……?」

 この人は、何を言っているんでしょう、と思ったのに、目の前で斎藤さんは笑っていて。

「ごめんね、女の子と付き合うと沖田ちゃんが嫉妬してくれて可愛くてずーっとやってたんだけど、新八にも土方さんにも怒られるし、何より俺が我慢できなくて」
「はい?」
「本命の子と一緒にいたくて、我慢できなくて」
「なに、言って?」

 先程までとは違うように、喉がからからに渇いて、言葉が掠れて、斎藤さんは、何を言っているのでしょう、と思った。

「沖田ちゃん以外と約束なんてしないし、本命はずーっと沖田ちゃん一人だったからさ、今更だけど、許して」

 ヘラっと笑って斎藤さんに言われて、理解が追い付かなくて。

「約束、ちゃんと守るから、許して?」
「あ、の……?」
「約束通り、海に連れてくからさ、いいでしょ?」

 甘い声音で囁かれて、思わずこくんと頷いてしまった。こんなにひどい男だと知っているのに、あんな昔の約束を覚えていてくれたのが嬉しくて、そうして、私は結局斎藤さんが好きなんだ、と思ったら悔しくて。

「やった!じゃあこれハネムーンだからね!新婚旅行ってやつ!」
「話が飛躍しすぎでは!?」
「え、そうかな?」


 当たり前のことのように言った斎藤さんに、水、飲まなきゃ、と遠い出来事のように考えた。塩素は抜けただろうか。

 夏。
 夏が嫌いだった。いつも塩素の匂いがして。
 だけれど、夏。その約束は……




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カルキ・塩素・次亜塩素酸カルシウム
2023/12/13