「この景気ですからねえ」

 先程からこの担当者は、同じような内容を繰り返している。
 景気が悪い―――概ねそんなところだ。

「この景気ですから、解約なさると次の部屋がなかなか…」

 彼はそう、ある意味支離滅裂に言葉を濁した。

「でも俺は、一人もんですから」
「いやあ、でも、ご結婚なさる時のことを考えたら…いっそ買ってしまいませんか?」

 気持ちは分かる。この御時世だ、俺が今契約を切ろうとしている部屋ほどの立地、面積、そして家賃の部屋の契約を、商売人が好き好んで手放すはずがない。
 現に、一年間弟と二人で住んでいたが、隣人は終ぞ現れなかった。ということは、大谷に当たる人間も手放したがっていると思われる。でなければ買えなどとは言われないだろう。
 弟―――弟の鉄之助は先頃大学に入学することを決めた。23区外のそこは、今まさに契約を切らんとしている部屋から通うことも十分に可能だったが、俺は鉄が(あるいは俺が)一人暮らしをすることに決めた。

「こんなにいい部屋、滅多に見つかりませんよ」

 それはそうだろう。
 個人的な貿易関係の仕事をしていて海外に渡った父親が、ぽんと俺に渡した金は、まあまあ纏まった額だった。
 成人前の子供二人が手にするには莫大とも言えるそれを、とりあえず俺は二分した。
 二分したうちの半分をさらに何分割かし、それらを父が渡した円以外の形(貨幣だろうと現物だろうと)にするまでには大した時間はかからなかった。運用しているそれらは、今もってある程度の額を算出する。毎月算出されるそれの半分を運用分に上乗せし、半分を現金化(もちろん円だ)すれば、当面の、いや、将来の生活までも、適当な水準で保持することが可能だった。
 多分、父はそれを見越して俺に金を預けたのだろう。どことも知れない国で馬鹿騒ぎしているだろう男を思うと、頭が痛んだ。


 残った半分の現金をどう使うか。
 ……普通、ここで悩むのだろうか。しかし、大した思考はそこにはいらなくて、俺は悩みも迷いもせずに、都内でもかなりいい方の物件を借りた。
 そこは、算出される金が可能にした「適当な水準」の生活にはひどく不釣り合いだった―――つまり、その部屋は豪奢過ぎた。
 だが、大した頓着はなかった。
 俺達兄弟にとって、屋根がない生活、粗末な家屋に住む生活、流転…そういった類の生活は、忌むべきもの、いや、禁忌とさえ言い換えることのできるものだったから。
 それは、俺達に『過去』を突き付ける。
 過去―――今生で一時的に父母と別れるまでの短い期間のことではない。
 ……短いと言えば短いか。




 それは二百年あまり前の『過去』だ。
 状況だけを見れば、今に近いかも分からないが、親を失ったところから(まあ、現代の両親は死んでいない訳だが)、屋根のない生活、ひどく粗末な生活が続いた。
 それから食うに困って二人して入った組織が世に言う新撰組だった。
 食うには困らなくなった。だが、多くのことが起こった。それはいいことばかりではない。むしろ、数々の事象は俺を、弟を苛んだ。
 幾度かの変、流転、そして戦。
 俺が新撰組に所属していた最後の戦で、弟は親友を、そして俺は或いは己よりも大切な人間を失った。
 それから俺は隊を離脱(と言えば聞こえはいいが、所詮脱走だ)し、弟の残る新撰組は転戦を重ね、そして瓦解した。
 弟のその後を俺はよく知らない。と言うより、隊を脱してからの俺の生はそう長くは続かなかった。
 隊を脱してニ、三年で俺は床に臥した。
 その大垣の枕辺に一度だけ弟が立ったが、彼の言う言葉を俺は聞き逃して、彼はそのまま新たな地に赴いたらしい。
 だが、彼のその後の消息を知る前に、俺の短い『一生』は終わりを告げた。


 それから二百余年。再会は、呆気なく訪れた。
 それは彼が再び生を受けた時。





『こんなことって、あるんだな』


 その時の俺は、上手く笑えていただろうか。父と母は間違いなく父と母だったけれど、‘鉄之助’が言葉を話せるようになるまで、俺は何となく、彼が全てを忘れていることを期待していた。
 忘れる筈ないだろうとも思っていたけれど。俺が覚えていて、彼が覚えていない道理はない気がした。その流転のうちで、より様々なものを喪ったのは、多分鉄だったから。





 引っ越しの荷造りをする鉄をぼんやりと眺めながら、考えたのは最後の戦だった。最後の戦で、俺たちは一人の男を喪った。その後すぐに俺は隊を脱したから、その戦が俺たち三人の最後だった。

「山崎はさ」

 俺は知らず知らずのうちに、鉄に向かって言っていた。

「生きてたりするかな、この世に」

 別段、詮無いことでもないだろうと思う。こちらはひどく尽妙不可思議な様相を呈していて、俺の職場の社長は坂本さんである。教員免許を取って、教職に就こうとした矢先に届いた受けた覚えもない貿易会社からの合格通知には目眩がしたが。
 ついでに鉄の大学進学諸々の手筈を整えてくれたのは、恐ろしいことに沖田さんだった。


『いい部屋ですね、ここ。土方さんたちも呼んでホームパーティーでもしましょうか』
『なんかもう、いない方が不自然ですね』

 客間でコーヒーを飲む沖田さんがとんでもなく恐ろしいことを言うから、ぼんやりと返答したら、綺麗に笑われた。

『……山崎サンくらいですね』
『……なんか、芝居染みてますよね、ここまで来ると』

 俺は思ったままを口にした。沖田さんは不思議そうに、だけれど分かっているように視線で先を促した。

『清算しろって、言われて、その舞台に立たされた感じがしませんか』
『分からないでもないですが、そんなに悲しいことを言わないでください』

 彼はやっぱり綺麗に笑った。


 ―――その日、高校から帰って来た鉄が仰天したのは言うまでもない。





 山崎との温い関係は、少なくとも2年ほど続いたように思う。池田屋の変で彼の姉上が亡くなり、彼と鉄が一歩進み、彼との関係性もまた変わっていった。友人から、気が付いたら情人になっていたから今でも驚きだ。
 山崎は、かなりドライで、そういうことを言い出すとは思わなかったから、言わせるまで時間は掛かったが、自分でも‘いい性格’をしていたなと今でも思う。

「辰兄はススムに会いたい?」
「……分からん」

 段ボールを抱えた鉄が、至極真面目に訊いてきたが、俺には分からなかった。山崎が生きているとして、それは俺が生きているそれと同値だろうか。
 憶えているだろうか。あの日々を。
 温くて、心地好かった日々を―――





「この景気ですからねえ」

 鉄を見送ったその足で不動産屋に来たが、ずっとこの調子だ。困った。社宅にでも入ろうかと思っていたので、これは少々困ったことになってきている。別に家賃に困る訳ではないが、馬鹿みたいに広い部屋に一人で生活するのは幾らなんでも無駄遣いだった。

「ですから、俺は一人もんです」

 少し語気を強めて言ったら、相手は相手で困ったように首をすくめ、そうしてそれから、何故か俺の後ろに驚いた様な視線を小さく投げた。

「お客様、あの」

 その店員のものではない声が背中でして、それから俺と交渉していた店員は今度こそ不審げに俺の後ろを見た。
 さすがに、契約内容を覗かれたりするのは気分が悪いと思って、俺は顔をしかめて振り返る。振り返って、絶句した。




「…やま…ざ…き…?」
「その部屋買うわ。幾らや」


 相も変わらず怜悧な顔をした山崎烝の黒い財布が、振り返った顔に叩きつけられた。


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