内奥 上
部屋に入れる彼の荷物は、びっくりするくらい少なかった。大学指定の教書がほとんどで、私物、というものがとんとないように思われた。
「ほんとにここでいいのか」
俺は知らず知らずの内に、荷物を整理する山崎に訊いていた。彼が山崎以外の誰でもないのを知っていたから訊いたのだと思う。
「めんどいからな。土地勘あらへんねん」
彼は一瞬だけこちらに視線を投げて、すぐに手許の包みを開ける作業に戻った。
「松本先生に会ったんだって」
「局長も副長も沖田隊長もおったわ。騙された気分や」
「騙すって、お前なあ……」
少なくとも、沖田さんは以前から山崎の存在を知っていたらしかった。手紙での遣り取りだけだったけれど、共有された情報は間違いなく山崎だった、と、彼が俺の部屋に乗り込むことを決めてから聞いた。教えておいてくれたって、というのが半分、教えてもらったところでどうしていたんだ、というのが半分。
「お前さ」
「なんや」
ひと段落したのか、安っぽい勉強用と思われるローテーブルに肘をついて出来上がった簡素な彼の部屋を眺める山崎に、俺は訊いた方がいいような、聞かない方がいいような事を訊いた。
「鉄のこと、知ってたか」
「……ぼちぼち」
そのあっけらかんとした返答に、俺は大きく息を吐いてしまった。まさか鉄からまで謀られるとは思いもしなかった。
「怒ってやるなや、ウドの大木。そういうとこは相変わらずやな」
「怒ってないよ」
「怒ってるやんけ」
「蚊帳の外だったな、と思っただけだ」
「……一応言うとくけど」
山崎はよく通る声で言って、俺を睨むように見据えた。
「不動産屋でお前見つけたんは、本気で偶然や。何が悲しゅうて今生でまでお前探さなあかんねん」
俺は彼の部屋と相成った入口のドアに背中を預けて、そうして、突然にこの男と再会したあの日から初めて、山崎烝という男を今世で確りと見た。
怜悧な面も、鋭い声も、だけれど何かを求めているような、訴えるようなその視線も、何もかもが変わらない彼を。
「酷いヤツだな」
「どっちが」
「紅茶でいいか」
「コーヒーないんか」
「切らしてる」
「ほんなら紅茶でええわ」
日常と変わらぬ速度でしか、大事なことも、瑣末なことも言えない俺たちは、何年経とうが何百年経とうが、同じままだった。
*
「ふうん」
紅茶の缶をながめて、山崎はどこか感心したふうに呟いた。
「輸入物っちゅうのが如何にもやな」
「文句あるなら飲むなよ」
「文句は言うてへんやろ」
彼はからかいが成功した時の様に笑った。そうして一口飲んで、俺の度肝を抜くようなことを言ってくれた。
「姉上に送ったろ。気に入りそうや」
「……歩さん!?」
「悪いか?」
「……お元気なのか?」
「俺の時より喰い付きええな。相変わらず最低な男やな」
「お前がそんなに女々しいなんて知らなかったよ」
「ふん」
「そっか。じゃ、姉弟なんだな」
「わ る い か?」
一字ずつ区切って言った彼は、多分さっきの送ろうと言うその呟きも無意識だったのだろう。決まりが悪そうにしていて、どうしたって可笑しかった。可笑しくて、同時にその事実はひどく暖かだった。
「悪くないよ、全然。むしろいい。俺から送るよ。うちの会社で取り扱ってるやつなんだ、それ」
「ふうん」
「歩さんも医者?」
確か、医家だと聞いたから、そう言ったら山崎は可笑しげな顔をした。
「元脳外科」
「元?」
「今は小料理屋」
「すごい変遷だな、それは……でも、アユ飯を毎日食える店ってことか」
「今度東京に顔出す言うてるわ。副長が」
言い掛けて、山崎は不自然な具合に言葉を区切った。副長が、と。この姉弟に命を下していたのは副長だったな、と俺はそこで思い至った。
歩さんが亡くなったのは、誰のせいだったのだろう。
山崎は、ずっと後まで自分のせいだと言っていたけれど、同じようなことを考えていたのは多分副長だったと思う。
「誰のせいでもなかったのにな」
気が付いたら俺は小さな声で言っていた。山崎が視線でそれに反駁する。自らが彼女を死に追い遣ったのだと叫ぶように。
「お前のせいじゃないよ。歩さんもそんなこと言わないだろ」
泣き出しそうな視線がこちらを向くから、静かに言ったら、山崎は本当に泣き出した。涙もろくなったものだなと思ったら、可笑しかった。それとも歩さんのことの時は相変わらずと言うべきだろうか。
「阿呆」
「阿呆で結構。夕飯、店屋物でいいか」
「……なんか作る」
「お前がか?」
「安心せえ。爆発はせんから」
「え、なにそれ安心できないんだけど」
……山崎の作る飯は、かなりまともでかなり美味かった。
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