車窓からの風景を、窓際の彼はぼんやりと眺めていた。
 手許には、真っ青な竜胆の花束があって、後から乗り込む客は皆一度は彼を振り返った。

夜行 



「ハイビスカスとか豪気に用意せえや」

 山崎は、コーヒーを一口飲んでずいぶんなことを言った。
 花を沈めてやりたいと言ったのは俺だったし、彼が望むのならハイビスカスだっていいけれど、なんというか、どうしたってそれは無理矢理だった。
 予定がやっと合って、俺たちは来週末に‘そこ’に行くことになった。彼の沈められた場所は、今でも川らしかった。
 二月。二百年越しの再会から一年余りが経とうとしている。

「なんて言うか、お前、少し気が立ってるよな」
「……」

 ソファにだらしなく座って、コーヒーを飲みながら分厚い教書を広げる山崎は、決まり悪そうに眉をひそめた。

「俺は」

 俺は小さく口を開いた。山崎は、俺の言いたいことを知っているだろうに、口を噤んでいた。

「何が出来るんだろうな。何を期待されて、記憶を留めたままで生まれたんだろう」

 清算の時を求められたのだとしたら、俺は最初に鉄に会うべきだった。会って、それから向き合えたなら、お前に会うべきだった。

 山崎は、面倒そうに教書で自らの額を軽く叩いた。呆れ返っているように見える。

「何期待されて、清算するもん清算してから、やっとこさ昔の情人に会うたか、ってか?」
「……」

 今度は俺が口を噤む番だった。俺たちは互いに清算するべき過去を持ち合わせていた。持ち合わせで支払える範囲で、俺たちはそれを支払ってから、今、こうして出会っている。
 山崎は、彼の姉上との全てを。姉弟として生きることが出来るそれを。
 俺は、弟との全てを。鉄のことが全て理解出来たか、というと、それはまた別の問題だという気はしたけれど、少なくとも‘理解’出来ていなければ、俺は鉄を送り出しはしなかっただろう。
 彼の言う‘理解’というもの。和解ではなくて、理解。
 そこまで来て、俺たちは初めて出会った。

「和解のその先」
「……」
「それを求められてるのかな、って」

 コーヒーを一口飲んだら、山崎は教書を放り投げてそれから俺を睨んだ。ひどく怜悧な顔だな、と思った。

「そうやとしても、お前とは和解しかよう出来んわ」
「そうか」
「勘違いすな。‘過去のお前’とは、どうしたって和解しか出来んわ」

 彼は、乱雑にマグカップを持ち上げて、言った。

「お前かて、過去の俺とは和解しかよう出来ん」

 その視線は、怜悧で、そうして、ひどく透明だった。

「過去に、俺が何を考えてたかて、お前が何を考えてたかて、それは‘過去’や。一遍廻って、それっきり二百と十八、九年会ってへんかった相手に、お前は何を期待しとるんや」
「……山崎はさ」

 はっきりと言った彼に対して、俺は言葉を選ぶ様に、濁す様に言った。

「山崎はさ、優しいな」
「……お前が相変わらず酷な人間なだけや、市村」

 彼のそれは、二百年の間に降り積もった全てを、帳消しにすると言っているのも同じだった。
 俺たちは、間違いなく記憶を持って生れてしまって、そうであるからには多少なりとも清算すべきものがある、ということで、実際にそれをこなしている。そうでなければ、こんなにもトントンと出会いがある筈もないのだから。
 その中で、清算するべき一つの関係性を、彼は‘無かったこと’に出来ると言っている。それが、ひどく優しくて、そうして、それを引きずり出そうとしている俺は、多分彼の言う通り残酷な人間なのだろうと思った。
 その残酷さが、だけれど俺たちを繋いでいる全てで、そのことを彼も知っているから、酷な人間だと本当のことを言えるのだと思った。


「夜行や」


 真っ直ぐに俺の視線を捉えて、彼は呟くように言った。
 夜行。
 藪蛇を素晴らしくよく言い換えたな、と他人事のように思った。


「鬼が出るえ」


 俺は、その真っ直ぐな視線に、曖昧に笑った。鬼が出る。いいじゃないか。

「鬼みたいなもんだろ、俺もお前も」
「よく言うわ」

 ハッと彼は俺の戯言を一笑に附した。

「精々、喰われんように気ィ付けや」
「お前こそ」
「竜胆にせえ」

 その会話をぶった切る様に、彼はリンドウと言った。竜胆。青い花。

「あれは仏花やからいつでも売ってるやろ。面倒がのうてええわ。竜胆一束」
「分かった」
「割り勘や」
「お前の供養だぞ。俺が一人で持つよ」
「供養とかよう言いなや、ド阿呆」


 彼は笑った。かつての彼に、よく似た顔で。





 竜胆の花は、彼の手のうちで電車の揺れに合わせて僅かに震えていた。
 まるで、過去に相対する俺たちが震えているように、思えた。




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竜胆:花言葉「あなたの悲しみに寄り添う」「正義」


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