ガソリン


「海だー!」

 叫んで、駐車場からパタパタ走っていくアタシの背中の方で、風間さんがピッと車のカギをかける音がした。





「いいところに連れていってやる」

 そう風間さんが言ったのは、四月の初め。
 アタシはその日、入学式の代休で、風間さんの通う大学は年間履修ガイダンスの真っ最中で、だけれど出るものにはもう出た彼と休みが被った、という、かなり珍しい感じで、風間さんの部屋でお家デートの範疇に含まれるかどうか、という感じでごろごろしていた時のことだった。ちなみに、ボーダーの方の非番も被っていたが、学生は平日、緊急招集がかからない場合学校に行っているものである。とはいえ、今日は二人とも隊務もオフという、本当の本当に珍しい日だった。

「いいところ?」

 かなり大雑把に二人で作った昼食のチャーハンを食べ終わったところで言われて、アタシはスプーンを持ったままきょとんと首をかしげた。

「こら、ついてる」

 すっと風間さんの指が伸びてきて、アタシの口許に付いたご飯の粒を取る。そのままその指がアタシの口の中に伸びてきて、アタシは仕方なくぱくっとそれを食べたけれど、恥ずかしいったらない。でも、これで風間さんに食べられて「間接キスだな」なんてさらりと言われてしまうのは付き合い始めてからの経験則だ。それくらいなら、彼の指をくわえる方がマシだった。

「エロいな」
「風間さん!」

 アタシがそれを飲み込んだのを確認して指を抜いた彼の、ボソッと呟いた一言に叫べば、彼は大人の余裕の笑みだ。本当にこの人には敵わない。

「まだ早いし、車を出そうかと思うが、どうだ」
「え!いいんですか?アタシはお家デートで十分だけど」

 そう言いながらも、頬が緩んでいるのが自分でも分かる。確かに、二人で家でごろごろするのはアタシたちには最良に近い過ごし方だ。アタシはインドア派で、風間さんは体を動かしたい派ではあるけれど、ボーダーと学業の両立をしている手前、二人そろった休日くらい、互いに甘えて甘やかして、ゆっくり過ごしたい、というのがあるからだ。
 だけれど今は互いに大きな案件も抱えてはいない。そういう日には、たまに出掛けるのもいいかなあ、なんて思っていたところだった。

「お前、嘘が下手だな」

 笑ってるぞ、と可笑しげに指摘した風間さんに、アタシはちょっと頬をおさえる。

「ヒドイ!」
「互いに身支度あるからな。洗面台は適当に使え。お前の分あったよな」
「あ、はい。あります」

 風間さんの部屋にアタシの歯ブラシだったり、コームだったりが自然と置かれている、ということが、アタシをぽかぽかした気持ちにさせる。立ち上がったアタシに、「服はそのままでいいからな」と告げて、風間さんも立ち上がるとクローゼットに向かった。





 風間さんの車は、大学の入学祝にとご両親に買ってもらったもので、とはいえあまり乗らないからか、新車みたいに綺麗だった。いや、乗らなくたって定期検査やメンテナンス、洗車を欠かさないからかもしれいない。彼の性格からしてそんな気もするその車は、四輪駆動だけあってほとんど揺れを感じさせずに、アタシたちをその「いいところ」まで運んだ。
 そこは海だった。

「海ー!」

 年甲斐もなく叫んで砂浜へと走っていくアタシを、風間さんが追いかけるように、だけれどそんなに急ぐそぶりもなく歩いて追ってくるのが、砂を踏む彼の足音で分かった。

「濡れるぞ」
「いいもん」

 ちょうど波打ち際まで来たところで彼はアタシに追いついて、ミュールを脱ぎ捨ててその波打ち際に足をつけてパシャパシャいわせるアタシを窘めた。だけど、せっかく海に来たのだからそんなのいい。
 四月、しかも平日の海に、アタシたち以外の人はいない。

「独占!プライベートビーチ!」

 それが可笑しくって、嬉しくって叫んだアタシに、風間さんは苦笑混じりに言った。

「冷たくないか」
「ぜんぜん!」
「そうか」
「ほら、風間さんも!」

 手を引いたら、風間さんは波打ち際を往ったり来たりするアタシにちょっとだけ応えるように、波が被っていない乾いた砂浜に腰を下ろして、靴を後ろに放るとチノパンをまくって、往ったり来たりする波の一番端に足先を付けた。

「案外ぬるいな」
「でしょでしょ」

 アタシは、春の海に来るのなんて初めてで、誰もいない海に来るのも初めてで、そうして何より風間さんと海に来るのなんて初めてだったから、嬉しくてたまらなかった。そうやってはしゃぐアタシに、座ったままの風間さんがふと声を掛けた。

「探し物が見つかった」
「え?」

 唐突な問い掛けに、アタシは虚を衝かれたようにきょとんと首をかしげて、それから風間さんの隣に腰を掛ける。その横顔を見つめれば、真剣、とまではいかないけれど真摯な眼差しが水平線を見つめていた。

「お前が玉狛に行って」

 唐突に、だけれど滔々と彼は言った。

「俺はずっと、お前を探していたんだ。俺の隊にはいないお前を考えて、探していた。隊にいないのは当たり前で、俺はずっと、風間隊というくくりの中にいないお前を探していたんだと思う」

 その言葉に、アタシは何と応えていいのか分からなかった。
 アタシが風間さんの隊を離れて、彼との関係が劇的に変わって、そうしてさらに劇的に変わって、今こうして、恋人、というポジションで隣にいるアタシたち、というものに至ったことを考えれば、それは確かに平坦ではなかった。

「仲間でもない、部下でもない、敵でもない、たった一人の女性、というくくりでのお前を探すのは、俺には途轍もなく難しかった」

 そう言う風間さんに、アタシは思わず砂浜についた彼の手に自分の手のひらを重ねた。
 アタシもだよ、という心が、この手から伝わっていけばいいのに、と思いながら。
 直接の仲間じゃなくなった。部下でも上司でもなくなった。でも同じ組織にいる仲間であることは間違いない。その中で、‘恋’という感情は、アタシたちにとってタブーのようになっていたから。
 アタシたちは、必死になってその‘恋’という感情を探して、それなのに避けて、違う道を探そうとし続けた。その果てに、彼がそのたくさんの壁をぶち壊して、アタシを見つけてくれた。

「やっとの思いで見つけたお前は、宇佐美以外の何物でもなくて」

 やっとの思いで見つけた貴方は、風間さん以外の何物でもなくて

「正直に言えば拍子抜けした。こんなに簡単なことに、俺はどれだけ必死になって、どれだけ拘って、どれだけお前を待たせて苦しめたんだろう、と思った」
「それはアタシも一緒だよ」

 そう、心から言えば、風間さんの手がアタシの髪をくしゃっと撫でた。

「こら、こういう時は男に花を持たせろ」
「はあい」

 アタシはその風間さんの言葉が可笑しくて、くすくすと笑った。そうしたら、風間さんも笑ってくれた。

 アタシたちは、仲間で、戦友で、上司で、部下で、という様々な関係を持っていた。持っていたからこそ、‘恋人’という関係を築くことがいけないことみたいで、ここまでくるのに曲がりくねった道をぐるぐる回ってきた。
 でも、今この人は、アタシは、互いの隣にいる。
 それがたまらなく嬉しいんだ。
 ザザーンと大きめの波がやってきて、風間さんが焦ったように立ち上がてアタシも引っ張り上げて抱き留めた。

「ありがとうございます」
「ああ」

 間一髪で服に掛かるところだった波を避けたアタシたちはそのまま立ち上がる。風間さんが砂浜のもっと駐車場寄りに置いていたバッグからタオルを出してくれて、アタシは脚をふいた。

「帰るか」
「そですね。楽しかったです」
「良かった」

 応えた風間さんももう靴を履き終えていて、二人で駐車場に戻って車に乗り込む。

 走り出したそれが進むのは、海岸に沿っている道だからか曲がりくねった道。だけれど、この道を行けば必ず彼の部屋にたどり着くんだ、と思ったら、それがアタシたちが今まで辿ってきた道みたいで、なんだか嬉しくなった。

「悪い」
「どうしました?」

 風間さんはカーオーディオを調整しようと片手を伸ばしたところで、その手を一度引っ込めてハンドルを握り直すと、道路を見ながらもちらりと速度などを示すメーターの方に何度か目をやった。

「どこかでガソリン入れていってもいいか」

 いいですよ、なんて言う代わりに、アタシの口から零れたのはどうしようもないくらい幸せな笑い声だった。




2014/11/19