もう少し
『もう少し頑張りましょう』、そんな文言のスタンプが押されたプリントが出てきて、俺はピラッとそれをかざす。自分の部屋の大々的な片づけをしている時やった。
「なんやろ」
多分、小学校くらいの時のプリントだろうそれは、間違いなく自分の物だろう。ここは自室なのだから。ミミズののたくったような字が多分『もう少し頑張りましょう』ということだろうそれに書かれていたのは、今の俺にも読解が難しいものだったが、三十秒ほど眺めていて、ああ、と何が書かれているのか得心がいった。
この部屋を大々的に掃除して、とにかく広くしようとしている時に出てきたそれは、多分俺がずっと探していたもののような気がして、俺はその藁半紙の古ぼけたプリントを畳んで机の引出に仕舞った。
*
「まーむーし!」
疲労困憊、というのが相応しいような体で控室でぐったりしていた蝮に付き添っていたのは女将さんやった。
「あら、お婿さんご帰還?盾ちゃんにどやされるえ。今しがた『探してくるあのあほんだら!』って叫んで探しに行ったえ」
「げえ」
「行かんでええ。今電話するさかい」
ドレス姿のままの蝮が携帯を手繰り寄せる。さっきまで見送りの挨拶を気丈にしとったのとは全然違って、慣れないことに本当に疲れているのだろうと思われた。
「大丈夫です、柔造来ました。え?ああ、いったん家に。ええ宝生の方に戻って、ってなんや柔造!」
「あー盾姉?二人とも今日は志摩の家戻るよって、蟒様によろしく言うといてや。俺探しに行ったなら今親族の方やろ?うん、そそ。さっきの蝮のナシな!」
披露宴当日から実家に帰るなどという野暮の極みみたいなことを言った彼女から携帯をひったくって姉に告げると電源ボタンを押す。唖然としている蝮の横で女将さんが可笑しそうに笑っていた。
「部屋なら片付いてるえ」
「そういう問題と違うわ!」
真っ赤になってぶんぶん首を振る蝮が可愛くて可愛くて、彼女が生きている、ということがどうしようもないほど嬉しかった。
*
「今日はほんまにお疲れさん」
「それはこっちの台詞やろ」
結局、家で色々あったり、青と錦に突撃されたりなんだりしてから、俺の部屋というか、今日から俺と蝮の部屋になる部屋に入るなり言われたのは、てんてこ舞いの今日一日に対する労い。でも、それを言われるべきは重たいドレスを一日中着ていた蝮の方やろう。
「ったく、披露宴は別にええって言うたのになあ」
「そういう親不孝なこと言わんの」
「式したんやから十分孝行やろ。ま、仏式じゃ蝮さんのドレス見られませんから良かったです」
「柔造!」
本当は、蝮の体調を考えれば式だけでドレスも写真を取ればよかったのだけれど、結局何だかんだで披露宴だ。仕方がないと言えば仕方がない。新妻をそれこそ‘披露’する場が必要な結婚だった、というのは、俺も蝮も分かっている。
「どしたん?」
座る蝮の袖を引いて、そのまま腕の中にしまい込む。不安げな隻眼が振り返るように俺を見上げたけれど、俺は彼女を抱えたまま、彼女の薄く小さな肩口に顔を埋めた。
「生きてて良かった」
口から落ちたのは今まで何百回と繰り返した、それでも何よりも大事な言葉だった。
「柔造」
「お前が生きてて、今日まで来られて、ほんまに良かった」
「それは、あてもや」
誰のせいでもなかったと、今でも言える。
きっと彼女は、今でも全部自分のせいだと言うだろうけれど、それは違うと思っている。
不浄王を復活させたからと、彼女が全ての責を負うべきだろうか。じゃあ俺は?すぐ傍に居たのに、何一つ知らなかった俺は、何だったんだ。
彼女が何一つ話すことが出来なかった自分、というものがひどく不甲斐ない。
それは多分蝮も一緒で、何一つ話せなかった自分というものを、甲斐なく思っているのだろうと思う。そんなこと思わないでくれ、と本当は言いたいけれど、俺たちにはそれくらいが十分だった。
「長かったなあ」
蝮を抱きしめて、呼吸と同じ速度で呟く。今日までの日々が長かった。
彼女が裏切ってから、やない。
彼女が生まれてからずっと、俺たちは―――
「ずっと一緒に生きてきて、そうやのに、こうして気持ちが伝わるまで、ほんまに長かった」
「うん」
ごめんな、と言い差した彼女の唇に口付ける。言わせたくなかったのかもしれない。
「謝んなや。俺が甲斐性無しみたいやろ」
唇を離して笑ったら、蝮も微笑んだ。
謝らなくていいと何度も言った。何度言ったって蝮は謝るだろう。
本当は、本当に謝らなければならないのはきっと俺の方で。
「俺たちは、ずっと」
抱きしめる腕に少しだけ力を込める。それだけで、多分全部が彼女に伝わって、蝮は小さく俺の腕に手を添えた。その手から伝わる全てが、俺たちの中に巣食う全てだった。
俺たちはずっと、互いを支えに生きてきた。
長兄を失ったその日から、俺たちは戦う術を身に付けて、
誰にも何も奪わせないために、彼がそうしてきたように、
戦い続けてきた。
いつの間にか互いに預け合っていた背中を離してしまったのは、どちらが先だったかもう分からない。
蝮が悪い訳でも、俺が悪い訳でもないと思う。
それでも、互いに、預けた背中を、繋いだ手を放したことが悪いのだと知っている。
それでも、ずっと互いに互いを探していた。
手を放してしまった相手を、互いに探して探して、探した果てが今日なら、それでいい。
「これからは、ずっと一緒やから」
もうどこにも行かないでくれと俺は静かに思う。もう何も、背負わないでくれと思う。
「それはあんたも一緒や。あてがずっと一緒やから」
「そやなあ」
返ってきた温かな言葉に、俺はやっと彼女の隣に戻ってこられた自分に気が付いた。
それは安堵だった。
互いに遠くに行ってしまった俺たちは、ずっとこの場所に戻ってくることを願っていた。
もう少しで失うところだった彼女が、俺が、すぐそこにいる。それがきっと俺たちの望みで、願いで、ずっとこの日を待っていた。
「どんなに頑張っても、戻れんと思った日もある」
「ほうやね」
返ってきたのは肯定だった。俺たちが背中を預け合った時、多分この思いは永遠に実らないと思ったこともある。それが俺たちの宿命だとすら思った。
それは嘘じゃなくて。それは本当のことで。
だけれど今は。
それでも今は。
「多分、矛兄死んだとき」
唐突に言った俺の言葉を、蝮は静かに聞いていた。
「家族守るって書いてん。国語のプリント。字、汚くて『もう少し頑張りましょう』ってハンコついとった」
この間見つけたあのプリントに書いてあったたことを、いつか叶える日が来るのだと、あの日の俺は思っていたのだろうか。
もしかしたら、あの日の感情を、俺はずっと探していたのかもしれないと思う。
「もう少しどころか、相当頑張らなあかんかったのやけど」
「そないなことない。柔造は、十分あてらを守ってきた」
そう言って蝮は俺の腕を撫でた。俺は、その細く小さな手が今まで守ってきたものも、これから守るものも、全て一緒に守っていくことを誓おうと思った。
ゆっくりと彼女を確かめるようにもう一度抱きしめる。
もう少しだけこうしていたいと思うのは、俺も蝮もきっと一緒だから。
やっと見つけたあの日と同じ感情が、俺たちに静かに落ちた。
2014/11/27