失敗


 生活なんて、失敗だったな、と思うことの連続のようなものだ、とまで言えば、多分俺は今すぐ中学生を辞めろと仁王あたりに言われるのだろうと思う。ジャッカルなんかどんな顔をするか分からない。
 だがまあ、少なくとも俺は成功の連続で生き続けることが出来るタイプの人間でないことは間違いなくて、どちらかといえば、失敗を積み重ねて、それを考察して、繰り返さないようにして、少しずつ良い方へと向かってきたのが多分これまでの俺の人生だったように思う。人生なんて言えるほど長いこと生きてはいないのだけれど。
 中学三年、部活を引退した頃から、橘杏と付き合っている。このことについて失敗などと言うつもりは毛頭ないが、しかし、今日は失敗だったな、と思っていた。
 不動峰のテニス部、というか神尾と伊武が良く使うテニスコートは、神奈川と東京の両方から近いために、同時に俺と杏が良く使うテニスコートでもあって、杏がいなくても俺一人で使うことはあるからとふらりと来たところで、そこにいた神尾と伊武、そして杏に、俺は心中で「失敗だったな」と呟く。
 あちらは俺にまだ気が付いていないから、早々に帰ろうと踵を返した時だった。

「蓮二さーん!どうしたの?打ちに来たんでしょ?帰っちゃうの?」

 大きな声が俺の背中に届く。杏の中には俺に対するセンサーか何かついているのではないかと思うほどだ。神尾と伊武が不思議そうというか、不審そうにこちらを見ているのに、針の筵とはこのことだな、と思いつつ、俺は杏に応じた。

「いや、邪魔になるだろう。俺はもう帰るよ」
「そんなことないですよ!」

 そう言ってパタパタ駆けてきた杏を追うように神尾が早足でこちらに来る。

「どうも」
「ああ」

 短く言葉を交わしたら、杏が言った。

「私じゃ相手にならないし、二人が退屈しちゃうから、蓮二さん深司くんとアキラくんと打って行ってください」

 神尾が、どういう訳か困惑とは違うけれどどこか腑に落ちないような、それでいて好戦的な視線を向けてくる。

「手合せ願えますか」

 この態度は何だろう、と思って返答に窮したところで、ボールを器用にラケットのフレームでポーンと打ち上げては戻すのを繰り返している伊武がこちらを見ていった。

「へえ、参謀さん逃げるの?」

 そういう問題じゃないだろう、と喉許まで出かかった言葉を飲み込んで、俺はそのあまりに好戦的な伊武にため息をついてテニスバッグを肩からおろした。





 打つ、と言ったって、この間の橘との遊びの様でも真剣勝負でもあるようなものでもあったそれとは違って、ほとんど練習メニューをこなすような内容になった。
 実力差、とかそういう問題じゃない。ただ、二人もそうだし俺自身も、こんなストリートのテニスコートで、あまつさえ杏の前で真剣勝負するような気分ではなかったということだ。

「あ、私ジュース買ってくるね!スポーツドリンクがいいかな?でもみんな持ってきてるよね」
「杏ちゃん、俺お茶でいい。神尾には炭酸でも買っておいて。参謀さんは?」

 杏との間合いの取り方が上手いな、と思ったところで伊武に振られて、俺が答えようとするより先に、杏は言った。

「蓮二さんはコーヒーにするね。ここ、美味しい缶コーヒー入ってる自販機置き始めたの」
「ああ。じゃあ頼む」

 そう言えば、杏はパタパタと走っていった。





「けっこう相思相愛系なんだね」

 伊武に言われて、俺は思わず彼の顔をまじまじと見る。

「アンタとの間合いの取り方、杏ちゃんすごく上手い」

 それに俺は虚を衝かれたように目を見開いた。杏が上手い?先ほど俺が、彼が杏との間合いの取り方を上手いと思った後だったから余計だった。

「橘さんに聞いたんすよ。そのあと杏ちゃんも言ってくれて」

 今まで黙っていた神尾が言ってきて、俺は、杏と俺が付き合っている件は不動峰では周知の事実になっているのだな、と覚った。それから出会い頭に彼がしていた表情の意味も覚った。

「負けた負けた。深司、お前これ以上煽んなよ」

 カラッとした声で神尾が言って、ラケットで伊武を小突く。それに伊武は鬱陶しそうにラケットを払った。

「煽ってない。ただまあ、杏ちゃんがあんなふうに上手く間合いを取れる相手って長い付き合いでもない限り珍しいから。それが最近付き合い始めたアンタってのに驚いただけ」

 ボソッと言った伊武に、俺はやっぱり返答に窮する。

「まあ立海とはいろいろあったけど、別に俺たち反対とかそういうのはないから、そこんとこ覚えておいてください」
「そーいうことです」

 続けた神尾に、俺は小さく「ありがとう」と言った。それに伊武がちょっと小首を傾げて、そして剣呑な目つきをする。

「でもアンタ、さっき『失敗したな』って顔してたよ。ここ来た時」
「それは、お前たちは多分俺に良い感情を持ってはいなくて、それで杏が苦しむのは本意ではなかったからだ」
「ならいいけど」

 杏がパタパタと階段付近から走ってくる音が聞こえる。そこで伊武に言われた言葉に、俺はふと自分の中の感覚を見つめ直した。

「アンタは、自分の道をさ、失敗って思うことの連続で積み重ねていきそうだけどさ。そりゃ俺も同じだから分かりますよ。でも、自分の感情を失敗だって思うんなら、全力妨害するんで、そこんとこよろしく」

 そこまで彼が言ったところで、杏の姿が見えた。笑顔でこちらに向かってくる杏が見えた。そこで俺は、失敗なんかじゃない、と思った。
 確かに、俺は完全無欠なんかじゃない。
 周りの天才たちに比べれば平凡かもしれない。
 だけれど、それが失敗の連続を積み重ねる、と思うのは少しだけ卑怯だと思えた。
 杏は、失敗が悔しい俺の代わりに泣いてくれて、代わりに憤ってくれて、そうして笑ってくれる。それは多分、俺自身が自分の感情をコントロールするのが下手な部分があって、本当は失敗なんかじゃないと思いたいのに思えない自分がいるのだろうと思った。
 だけれどその失敗を、失敗なんかじゃない、と真っ向から言ってくれる一人の少女が、今は隣にいるのだから。
 そういう誰かを、たった一人でいいから、多分俺は探していたのだと思う。

「ごめん、待った?」
「いや、待っていない」

 伊武と神尾が応えるよりも先に応えて、腕いっぱいに抱える彼女のペットボトルやら缶ジュースやらを半ば無理やり受け取る。

「あ、すみません」
「構わない。これが神尾で、これが伊武か」

 杏の腕よりも、手よりもずっと大きい俺の手は、全部の飲み物を持ってもまだ余裕があって、ひょいひょいと二人にその飲み物たちを渡せてしまう。
 受け取った二人の表情は、決して険しくなどない。

「すいません」
「ありがとうございます」

 受け取った二人はそれを飲む前にボストンバッグに詰め込む。

「あれ?二人とも帰るの?」
「うん。柳さんに練習付き合ってもらったしね」

 神尾が言えば、伊武も言う。

「じゃ、杏ちゃんは少し参謀さんと遊んでいきなよ。参謀さん、ちゃんと杏ちゃん送ってくださいね」
「心得た」

 応えた俺に、俺たちが付き合っているのは少なくとも不動峰テニス部内では周知の事実のはずなのに、杏が耳まで真っ赤になる。
 遠ざかる二人の背中を見送って、俺は杏が買ってきくれた缶コーヒーの栓を開ける。ブラック無糖だった。

「あ、あの」

 恥ずかしげに、階段に座る俺の隣に座った杏が言い差した言葉を、俺は聞き終える前に言った。

「探していたんだ」
「え?」
「俺自身の中にある、失敗とか、劣等感とか、そういうものを否定して、むしろ肯定的にとらえてくれる誰かを、俺はどこかで探していたんだ」

 それが杏だった、とは、今はまだ言えない。それじゃあまるで都合がよすぎるみたいな言い草だから。
 きょとんとした顔で杏がこちらを見ている。それが可笑しくて、嬉しくて、幸せだった。


 多分俺は、
 ずっと君を探していたんだと言える日は、
 もう少し先の未来。




2014/11/21