私は最初の数字を置き、私は最後の文字を記す。


永遠幾何学する


「茶が飲みたい」

 突然やってきたババアは、突然やってきたうえにこの上なく当然のことのように茶を所望した。
 隣で聞いていた部下が小走りで準備に走ったところで、アンリ・マユは俺様の玉座の目の前に歩いてきた。そして一枚の紙を差し出した。

「は……?」

 それを見て俺様は二の句が継げぬ事態に陥った。何だというのだ。どうせ地獄の生活に飽きた左門召介と天使ヶ原桜が仕掛けてきたドッキリ企画かなにかとしか思えないその紙切れに、俺様は玉座から立ち上がって思わずババアの額に触れていた。

「熱はないな」
「馬鹿にするな!」

 そう吠えられたので、俺様はその紙切れをもう一度しげしげ眺めてしまった。

「婚姻届…だと…?」

 あまりにも平然と、彼女はそれを差し出してきた。天界宛用のその婚姻届には彼女の書くべき欄がすべて書かれていた。

「お前がその気になるって軽くホラーなんだが」
「無礼者!というか余も貴様もホラーみたいなものだ!」

 彼女との停戦から、つまりはあの大騒動から何年経っただろう。まだ左門召介と天使ヶ原桜が地獄に堕ちたのがつい最近だから、5,6年のことだろう。袖にされ続けてきたそれを突然に差し出されたこちらの身にもなってほしい。そんな気は少しも無いようなことをずっと言っていたというのに。

「どういう風の吹き回しだ?」

 そう言えば、アンリ・マユはふと笑った。その笑みに、幾ばくかのさみしさのような、冷たさのようなものを感じて、俺様はひどく居心地の悪い気分を味わった。

「召介と天使ヶ原が地獄に堕ちたそうだな」
「……」

 彼女が話はじめたそれは、本当につい最近のことだ。そんなことを彼女が知らないはずはなくて、いや、ゾロアスターはその戦いに一切与さなかったのだから、この結果など聞き及ぶまでもないだろうことは間違いなかった。左門召介の召喚できる最強の手札はアンリ・マユその人だったのだから。

「本当を言うと、お前に婚姻を申し出られた時、余はそれを受けるべきだった」
「いや、あれは俺様が性急すぎたと思うが」

 墓穴を掘るとはまさにこのことのような返答をしてしまったが、それ以上に先ほどから驚きが続きすぎて自分でも何をどうしたらいいのか分からなくなってきていることにどこかぼんやりと俺様は思い至っていた。

「余は最初の数字を置き、世界を生み出した」

 彼女は滔々と話し始めた。俺様にはそれを聞いていることしかできなかった。

「最初の数字は図形となり、世界には物体が出来た」

 原初から始まるその業について、彼女は静かに言った。

「人が生まれ、病が生まれ、苦痛が生まれ、狂気が生まれた」

 降り積もる雪のように言葉は落ちては積み重なった。

「だけれど世界は完成しない。余は永遠にこの世界を創り続けるだろう」

 そうして彼女はこちらを見て微笑んだ。

「それはまるで、どこにも終止符のない物語のように」

 その言葉に、俺様は我に返る。彼女の言いたいことが分かってしまった。分かってしまうほどにこの女神を愛しているから、だから―――

 泣き出しそうな微笑みを浮かべるアンリ・マユを俺様は抱きしめた。彼女は紙切れを放って、俺様の背中に手を回してくれた。

「余は、世界の終わりにお前がいることを知ってしまった。世界が完成したとき、あるいは滅んだときに、余の隣にはお前がいると確信した。余がたった一杯の茶を共に飲むのはお前なのだ。ずっと、ずっと…」

 俺様には理解できないほどに長い時間を、この女神は生きてきた。
 なんという偶然だろうと思う。その長すぎる歳月の中で俺様は彼女に出会い、彼女は人間に出会った。まるで点と線をつなぐようにそれらの全ての事柄は繋がっていたような気がした。
 アンリ・マユは抱き合っていた体を離して、精一杯に腕を伸ばして、俺様の頬に指先で触れた。

「ずっと、待っていた」

 それはどちらの言葉だろう。
 アンリ・マユ、ただ一人の俺様の永遠。
 長く遠い時間が思い起こされる。

「召介だけではないのだ。たくさんの人間がいた。いつの時代も余はその相手に恋をした。魅入り、魅入られた。だけれど、ヒトはいつもいなくなった」

 俺様は彼女が床に放った紙切れに、指先から炎を飛ばしてそれを消し炭にする。こんなもの、必要ない。

「何度恋をしても、何度恋い焦がれても、余には足りなかった」

 告白に、俺はもう一度彼女を抱き締めた。

「俺はあなたの永遠になれるだろうか」
「余はお前の終止符になれるだろうか」

 あなたになら、何度終止符を打たれても構わない。
 あなたと相対するたびに、俺は自分の生命を知り、その力の前に終わりを見てきた。

「アンリ・マユ、あなたが俺の永遠であるように、俺はあなたの永遠になろう」

 今度こそ、あなたに返そう。
 世界を、時間を、永遠を。

 そして、愛を。

「茶が飲みたい」

 腕の中で彼女は言った。

 知らぬ間に運ばれていた茶は冷めていた。
 淹れ直せばいい。ここには茶を淹れ直すくらい、いくらでも時間がある。
 ここには、永遠の時間があるのだから。
 永久の物語が、ここにはある。




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いい夫婦の日
理屈っぽいあとがきという名の言い訳はブログに。

2017/11/22