川を渡る
召介に初めて出会った時、余が感じたのは歓喜だった。そして恐怖だった。
今となればそれもすべて空しい。
手に入れたと思ったのだ。
―――余を終わらせる者を。
*
アンリ・マユは荒野を歩く。
「冬、嵐、荒廃、不作、病、災厄、それはすべて悪」
世界の深淵を歩きながら、訥々と彼女は言った。誰に聞かせるわけでもない。ここには彼女しかいないのだから。
「なぜそれが必要なのか。ヒトは冬を耐えて春を待ち、嵐を耐えて晴れ間を待つ。荒廃を耕し田畑とする。ヒトは病を恐れ神に祈る、災厄を恐れ神に祈る」
荒野を歩く。その、自らが生み出した荒野を。
「善悪二元、そんなことではない。そうであるからこそ、善と悪があるからこそ、いや、悪があるからこそ、ヒトは正しく生きられる。それが余の役目」
善があるためにヒトは正しく生きられるという役目を負った半身、スプタン・マユもまた、同じことだとアンリ・マユは知っていた。
「だから、どんなに闘争を続けても、我らは存在し続ける。この世にヒトがいる限り」
そう言って、アンリ・マユは静かに目を閉じた。まぶたの裏に、幾度も繰り返してきたすべての世界を映しながら。
*
「ベルゼビュートよ」
「なんだ」
返ってきた言葉に、アンリ・マユは気だるげに、本来なら彼が座るべき玉座から彼を見た。
「召介と天使ヶ原が地獄に堕ちてどれほど経ったものだったか」
「ざっと200年ってとこか。お前たまには会いに行ってやれよ。地獄は暇らしいぜ。まー、退屈はしてないみたいだな、ネビロス共が構い立てしてるみてえだし」
200年、という時間の単位は彼女にとっても彼にとっても昨日のことのようなものだが、地獄に堕ちた二人にとっては無間のごとき長さだろう。その割に、退屈していない二人というのがどこか二人らしくて、彼女は笑ってしまった。
「さすがだな、召介」
「オイオイ、旦那の前で他の男を誉めるとかそれはないんじゃねーの」
「旦那、か。まあ互いに地獄の統治があるから別居夫婦だがな!」
「おいババアやめろ。お前ほんとに手厳しいな」
赤き竜とゾロアスターのトップの婚姻は、左門と天使ヶ原が地獄に堕ちたすぐ後だったから、200年ほどになる。とはいえ、互いに忙しい身だからこうして話すのはだいぶ久しぶりだった。
彼女が夫であるベルゼビュートのもとを訪れる時、彼は必ず自分の玉座を空けて彼女に譲った。その妙な気遣いがこそばゆいとアンリはよく思う。
「ベルゼビュート、昔語りをしてもよいか」
「……」
沈黙を肯定と取って、アンリはゆっくりと語った。
「余は、自らの天命に倦んでいた。飽いていた」
言葉にベルゼビュートは息を呑む。世界の創造神がその責務を倦んで、飽いたと言う。これほどに重いことはなく、そしてどのように努力しても王でしかない自らにはそのことを理解できないという事実が、彼の心臓を掴み上げる。
「お前は知らないかもしれないが、何度もやり直した。我らは正しい世界、正しいヒト、正しい信仰を創り出すために、何度も何度もやり直した。一つの違いが大きな違いを生むこともあった。創り出した世界、惑星、そういうものに、一つでも前回との違いがあれば世界は変わると信じていた」
そのあまりにも永い永い月日は、誰にも計り知れない。
「水のある世界、ない世界。どの生物が最初に生まれるか。生き残るか、進化するのか。我らはあらゆるパターンを経験し、今この世界はそのたくさんの選択肢の一つに過ぎない」
世界の創造、光と闇に別ち創り続けてきたその世界の、たった一つ。
その奇蹟的な瞬間に自分も左門召介も生きていたのだ、と、その単純な事実にベルゼビュートは妙な気分になる。
「だが、余はとあるときにそれに飽いて、それに倦んだ。どんなに完璧な世界を、どんなに完璧な善と悪を別った世界を創り出しても、結局いつも失敗する。そんなこと当たり前だった。だから何度でも創り直した。だが、当たり前だったのに、余の前に召介は現れた」
そして天使ヶ原桜が現れた。
「悪でありながら善、善でありながら悪。今までずっと当たり前だと思っていたその事実を内包して、創り直すことなく存在し、平然としていたこの二人に、余は絶望した」
「レゾンデートル」
「そう、存在理由。余の存在理由は奪われて、余は絶望に駆られ、憤怒に駆られ、恐怖に駆られ、そして歓喜に駆られた」
矛盾するその言葉の意味を、だけれどベルゼビュートは分かっていた。
「それこそが、お前の望んだ世界そのものだったから、か?」
彼の言葉に、アンリはゆっくりと目を閉じる。
「その通りだ」
そうして短く肯定して、続けた。
「正直に言おう。余は、召介ならば余を終わらせることが出来ると思ったのだ。世界中のすべては、余から与えられ、あるいは奪い取るだけで、余の何かが揺らぐことはなかった。与え、奪われ続けることが神の役目なのだから」
「だが、左門召介は違った、と?」
「いや、結論から言えば今までの全てとなにも違わなかった。だが余はこの人間ならば余を終わらせることが出来るのではないかと思った。ただの願望だ。その思いは天使ヶ原が現れてより深くなった。完全なる善悪の統合、余が必要のない世界、余を終わらせることができる、と」
なんという欺瞞だろうとアンリは自嘲気味に笑った。今となってはなんと空しい。
「誰でもいい、余を已ませてくれとずっと願っていた。余は已みたかったのだ」
悲痛な告白に、ベルゼビュートは気が付いたら彼女を抱き締めていた。
「だけれど余は已むことなどできない。余は神だから」
ベルゼビュートの肩口に押し付けた目許から、じわりと涙が滲んだ。
こんなふうに、誰かに弱みを言えることをアンリの中の思考の一部が不思議なような、心地よいような心持で俯瞰していた。
「貴女を終わらせることは誰にもできない」
ベルゼビュートは静かに言った。
「あなた自身でさえ、自身を已ませることはできない」
「貴様はどうだ。余を終わらせることはできないか」
嗚咽をかみ殺すように言われた言葉にベルゼビュートはその小さな体を、世界を担うにはあまりに小さな体をより強く抱き締めた。
「できない」
絞り出すように言って、それから彼は決然と続けた。
「俺様はお前の世界に生きているから」
だからできないと繰り返して、だけれどそれから彼は言った。
「できないが、世界の次の終焉にも、テメエの次の世界にも、共に在り続けると誓おう」
その言葉に、200年前に交わした言葉が思い出される。世界に二人きりになったら、茶でも飲もうと言ったそれは、きっと永い永い約束。婚姻よりも深く、永く、遠い約束。
「あなたは世界を愛するあまりに、あなた自身を悪にした」
「余は世界を愛するあまりに、何度も世界を殺し続けた」
「俺はあなたを愛するあまりに、あなたを何度も傷つけた」
だから彼は、その空しさを埋めるために彼女と共にある。
その腕の中で女神は微笑んだ。
*
世界を終わらせることはできない。
余は世界そのものだから。
永遠に創り出し、見守り、与え、奪われ、壊し、また創り出す。
その時に、あの男が横にいると宣うのなら、それもいいだろうと思った。
ベルゼビュートよ、余はお前に与え続けよう。
世界を、恩恵を、この世の全てを。
余が世界の全てに与える恩恵と同じものを与えよう。
もし、お前が余に与えることが出来たなら―――
茶でもいい、愛でもいい、絶望でもいい。
何か一つでも余に与えることが出来たなら―――
余はきっと終わるだろう。
お前が余に何かを与えることが出来たならば―――
私は初めて、已むことが出来る。
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2017/11/10
BGM:リバーサイド・ラヴァーズ