余には確固たる意志があり、確固たる自信があった。

「願いなどない」

 だから、幾星霜の果てに我らを別ち、我らを裁くその神の前ですら、余には何も恐れることなどあり得なかった。

「我が願いはただ一つ。世界は悪によってのみ成る」

 抑えきれない怒りが体を駆ける。
 ああ、そうだ。この怒りこそ、憎悪こそ、すべての根源。


「余は予言しよう。あなたは余を選ぶことになる」

 我らが聖なる天蓋、智慧ある神よ。
 我が選択の正しさを、余は証明してみせる。

「善なる行いは、ヒトを助けはしない」


機械仕掛けから出てくる神


 左門召介との戦いが終わって、ゾロアスターとはそれなりの締結がなされた。その最後の調印に来たアンリ・マユには、婚姻の意志はないと分かっていたが、その後に夕食でもと引き留めてみた自分の女々しさが妙におかしかった。だが、それ以上におかしかったのはその誘いに彼女がすんなりと応じ、そうして言うには、「余もお前に話がある」と。
 なんというか、何百年もこうしてゆっくり話すことなどなかったし、戦い以外で彼女が俺様になにがしか言いたいことがあるというのが驚きだった。だがすぐに、いや、左門召介や天使ヶ原桜についてのことだろうと思い、どのような罵詈雑言が飛んでくるかと思い直した。しかし、それらすべてを覆すほどに、彼女の言葉は明確だった。

「お前さえ、いなければ」

 赤い葡萄酒を一口飲んで、彼女は言った。その言葉はあまりに重く、あまりに残酷だった。どのような罵詈雑言よりも、どのような剣よりも鋭く差し掛かるその言葉に、俺様が反駁しようとするよりも早く、彼女は続けた。

「お前さえいなければ、余は我らが智慧ある神のすべての恩恵を手にしただろう」


「は……?」

 だが、続いたのは計り知れない言葉で、俺様は言葉を失った。お前さえいなければ、というのは、例えば左門召介との恋愛だとか、天使ヶ原桜との友情だとか、そういうものを一度壊そうとした俺様への憎悪の言葉だと思っていたからだった。

「本当に、自信があったのだ」

 アンリ・マユは力なく笑って言った。その微笑みの悲痛なことだけが、今の俺様に理解できるすべてだった。

「世界の終末に選ばれるのは余だという、確固たる自信があった」

 静かに言って、それから彼女は俺様を見た。

「お前さえいなければ、な」
「……どういう意味だ」

 やっとのことで聞き返した俺様に、彼女はゆっくりと言った。

「怖かった」

 ぽつんとその言葉は韻律となって落ちた。
 あなたの言語は韻律となり、それは音楽となり、世界に響きを与える。そんな、とても簡単で、とても大いなる業を、俺様は当たり前のこととして享受していたことに、なにゆえか今、ひどく差し迫って思い至った。

「お前が召介を殺すと言ったとき、お前との戦いにたかが人間の召介と天使ヶ原がやってきたとき、余は本当に怖かった」

 そう言って彼女は一度顔を俯けて、それから決然と俺様を見た。

「ああ、お前もきっとそうなのだろうな。余のこの恐怖を、お前は赦さなかったのだな」

 違う、と叫び出したいのに、喉はからからに乾いてその先の言葉を言うことを許さなかった。

 違う。俺はあなたの恐怖に失望などしていない。

 このたった一節の嘘を、俺様の喉は言うことを許さなかった。


 そうだ。俺はあなたの恐怖に失望した。


 違う、違う、ちがう。
 違うのに、違わない。
 なんという空しさ、なんという絶望、なんという恐怖。

「余は、これを与えることで世界を治めることが出来ると思っていたその「恐怖」のために、その悪なる行いのために、召介に引きずり出されるまで動くことが出来なかった」

 あなたの絶望を、誰ならば理解できるだろう。
 そのような絶望を与えてしまった俺の浅慮を、誰ならば見抜けただろう。

「恐怖は、憎悪は、悲嘆は、余を弱くした」

 その先の言葉を言わせてはいけないと知っていたのに、俺は何一つ言葉を紡げなかった。

「余の選び取った『悪』は、余を弱くした」

 その残酷な結論を言って、彼女は酒杯を置いた。

「お前は余に気が付かせた。我が選び取った悪は、我が智慧ある神に選ばれることはない。なぜならば余自身が、その悪のために自らを治めることが出来なかったからだ」

 何が正解で、何が間違いだったのか、俺様にも彼女にも、もう分からないような気が、した。
 だけれど、唯一つ確かなことがある。

「それでも俺はあなたを選ぶ」
「……余はお前を失望させたのに?悪でありながら悪に屈したのに?」

 あなたを試し、あなたを選び、あなたを廃する存在など、俺は知らない。
 本当に、知らない。
 知らないから、俺様はあまりに軽率に、あなたと共に在りたいという願いを叶えようとした。それがあなたにとってどのようなことになるのか、考えられなかった。
 あなたを選ぶ聖なる天蓋があることを、俺は知らない。
 あなた以上の神など、知らない。
 あなたは神の中の神だから。


 違う。


 あなたは、俺の神だから。


「俺の女神になってくれ、アンリ・マユ」

 あなたを誰にも渡さない。左門召介にも、善なる神にも、全知の神にも。
 俺様の行いは、あるいはこの結論のために仕掛けられた壮大な、彼女を生け捕るあまりにも大きく、あまりにも罪深い網のようにも思えて、自らの行いに俺様は恐怖した。

 ああ、俺様はそれを知ってなお、網を引き絞り、彼女を捕らえようとする。





 あれからどれだけの月日が経っただろう。
 召介と天使ヶ原が地獄に堕ちて、それから。
 それから、それから、それから。

 余はまだその答えにたどり着けていない。
 あの男の、あの男だけの神になっても、良いのか。

「貴方ならば、あるいはこの答えを知っているのか」

 一人で寝るには広すぎるベッドの上で、余はつぶやいた。

 もし彼らとの出会いすら、貴方の仕掛けたすべてだと言うのなら。

「余は、日に日にあの男を愛している自分にたどり着いてしまう」

 なによりも深く、遠い月日を過ごすことを約するあの男を愛してしまう。
 今まで現れたすべては余よりも先に失われるか、余の敵でしかありえなかった。

 わたしを裁く唯一の神よ、わたしはあの男を愛せるだろうか。

「我らを娶せることが、それともあなたの意志なのだろうか」

 余には確固たる意志があり、確固たる自信があった。

「願いなどない」

 だから、幾星霜の果てに我らを別ち、我らを裁くその神の前ですら、余には何も恐れることなどありえなかった。

 だから、そのわたしに恐れを与え、恐怖をもたらしたその悪魔を、わたしは選ぶのだろう。

「願いなどない。我が願いはあなたには叶えられぬ」

 余の願いを、あの男は叶えてしまったのだ。
 悪の世界を選んだ余の孤独を埋められる、悪の世界をつかさどる悪なる王。

「スプタン・マユにも、あなたでさえ、私は願いを掛けようとも、共にあろうとも思わなかったのだ」

 余に、願いなどなかった。
 それは余が神だからかもしれない。
 それでも、わたしはあなたにさえ願わなかった。

「あなたは、余の願いを叶えられる唯一の男を知っていたのか」

 ああ、もしそうだとしても、そうではないとしても、もう、遅い。
 わたしはあなたの許を去る。

「然様ならば、我が唯一の神よ。余は予言しよう。あなたは余を選ぶことになる」

 この大いなる真実を、幾星霜の果てにあなたは知るだろう。

 然様ならば、我が神よ。
 左様ならば、余はあなたを捨てる。
 然様ならば、余は愛する異国の王を取る。


 それこそが、最も悪なる行い。


 ゆえに、余は正しい。


 ゆえに、あなたは世界の果てに余を選ぶ。

「然様なら」

 声が深淵に木魂した。




=========
なんというメリーバッドエンド

2017/12/11