「これが余の思い上がりであればすぐにそう言ってくれ」
そう、アンリ・マユは静かに言った。
黙示録の獣
「邪魔している」
政務から戻ったら、何故かババアが俺様の玉座に座していた。あれから4年ほどが経ったか、彼女がここに来るのは久方ぶりのことのように思う。
あれから―
一人の召喚士の人間のために巻き起こったゾロアスターとの戦が停戦という形を迎えてから、彼女がここに来るのは本当に久しぶりのことだ。……4年という歳月を久しぶりだと思う程度には、人の習慣が身についてしまったのだという奇妙な感覚があった。
それは須らく、やはりその一人の召喚士に起因しているのだけれど。
「おい、そこは俺様の座る場所だぜ?」
「ほう。では聞くが、ここ以外に余が座するにふさわしい場所がこの宮殿にあるのか?」
ふと艶然たる笑みを刷いて言い放った悪神の言うことにも一理ある。確かに、俺様よりも格上の神を玉座から睥睨する趣味も度胸もここにいる誰にもないだろう。もちろん俺様にも。
だから俺様はその玉座に座るアンリ・マユの前に謁見を申し出るように進み出た。
「それで、今日は何の御用事で?」
慇懃無礼な俺様の言葉に、彼女はふとゆっくり目を伏せた。わずかに俯けられた顔に合わせて髪が落ちる。俺様にはこの方がずっとなじみだった。二つに分けて結うよりも、こうして長く伸ばされた髪を無造作に下ろしている方が。
「召介が地獄に堕ちると風の噂に聞いた」
「ハッ、噂とは大きく出たな」
俺様は彼女の言葉に思わず肯定する前に笑ってしまった。だってそうだろう?彼女を倒すために行い続けた禁忌のためにあのクソガキが地獄に堕ちることなんて、先刻御承知だろうに。
「その通りだ。俺様以外の二人にも目を付けられて、そろそろ正式な戦いが行われる。知ってるだろ、そのくらい」
笑い飛ばしてから、確認事項のように言えば、アンリ・マユは顔を上げて決然とした風にこちらを見た。
「これが余の思い上がりであればすぐにそう言ってくれ」
そう、アンリ・マユは静かに言った。
静かに言って、彼女はゆっくりと語り始めた。
「余は、王であったことがなかった。王権とは神が与えるものであったからだ。余は、世界そのものを作り出し、世界の悪を、闇を、暗黒を作り出した。作り出したその世界の王は、だから余ではなかった。余は王ではない。治める者ではない。作り出す者だ。お前と余の最大の違いはそれだ」
思い上がりであれば止めろと言われたのだから、その事実の前に俺様が言葉を差し挟む余地はなかった。何も言わない俺様に彼女は一つ肯いて続けた。
「余は王権を与えることは出来ても、余自身が王になることは出来なかった。与えることしかできないのだ」
ずくりと胸の奥の方が疼く。心臓のある部分が、彼女の言葉に鈍い痛みを訴える。
「余は与え続けてきた。宇宙を、世界を、冬を、嵐を、雨を、曇天を、病を、悪を、禍事を。作り出しは与え、それをある時は余の後の神々が、ある時は草花が、ある時は動物が、そしてまたある時は人間が享受した」
悪を享受する、という言葉の意味が、たぶん人には理解できないだろうと俺様はぼんやりと枝葉末節に思考を巡らせていた。
彼女は生み出した。悪を生み出し、与えた。悪のない者がこの世にいるだろうか。善だけで成り立つ世界がこの世にあるだろうか。悪などと考える必要はない。表を返せば裏があるというとても単純な理路を、彼女は世界に与えたのだ。
その威容。その無謬。その無窮。
その様に、俺様は永遠の命を感じた。
感じた?違う。
その悪に、俺様は永遠の命を与えられた。
「召介は、余と友になると言って多くの悪魔を呼び出している。だが、その悪を作ったのは余なのだ。余は召介に与え続けている」
その悪に、クソガキは理想を与えられた。
「召介はそれを返そうとしている。余に返そうとしている。だがそれは無理だ」
なんの気負いもなく、なんのためらいもなく、彼女は今まさにそのために地獄に堕とされようとしている少年の行いを、一言、無理だと断じた。
「左門召介には世界を生み出し、王権を与えることが出来ないから」
「その通りだ、ベルゼビュート」
言葉を継いだ俺様に、アンリ・マユは静かに笑いかけた。諦めにも、安堵にも似た笑みがその顔に浮かんでいて、俺様の体の奥底から、自分自身への嫌悪に似た感情があふれ出した。だがそれは真実からの嫌悪ではないのだ。
「だから余は、召介が地獄に堕ちるのを決める時の戦いにゾロアスターは与さぬと言いに来た」
「そうか」
「話はそれだけだ」
そう言って玉座を立とうとした彼女の肩に思わず手を掛ける。互いに驚いた。触れられた彼女も、なんの考えもなく引き留めた俺様自身も。
「なんだ?」
「……ああ」
玉座に座る彼女を見て俺様の口からこぼれたのは短い息だった。嗚呼と吐息が声になっていた。
「許しを、あなたに請いたい」
「なぜ?」
「あなたから、俺は奪い続けた」
「なぜ謝る?余は与えるために、奪われるためにある」
凪いだ笑顔でアンリ・マユは言った。
「いつの日にか、善と悪に決着がついたときでさえ、その世界はその時この世界の王権を持つ者に奪われるためにある。与え続け、奪い合うために、我らはある」
そこに後悔や苦悩はない。彼女は、左門召介に出会う以前の完璧な神に戻っていた。だから、俺様は強くその肩を押して彼女が自身の玉座から立ち上がれないようにした。ほら、こんなにも簡単に止められるのに。彼女の肩はこんなにも薄く弱いのに、彼女の双肩には世界が載っている。
「あなたに与えたい」
言葉に彼女は俺様の手をのけて立ち上がろうとした動きを止める。
「あなたにこの玉座を、命を、楽土を、永遠を、与える者に、なりたい」
口から自然と滑り落ちた言葉に、アンリ・マユは驚いたように俺を見上げた。
どくりと心の臓腑が体中に血液を送り出し、アンリ・マユという神へと全てを捧げようとする。
「俺は、貴女に全てを捧げたい。貴女が世界に全てを捧げるように」
俺はあなたからすべてのものを与えられ、すべてのものを奪ってしまった。
永き命さえ、あなたに与えられ、あなたから奪ったものなのだから。
だから俺はあなたに出来得る限りすべてのものを返そうと、思った。
4年前に彼女に婚姻を申し出た本当の理由が、今浮き彫りになる。
政略という形がなければ、俺様は結婚を考えることは出来なかった。
それは彼女の言葉を借りるならば俺様が「王」だからだ。王とは、神に与えられ、任じられたものでしかないから、同じ場所に彼女が下りて来てくれなければともにあることが出来ず、だから政略という枠組みがなければ婚姻を結ぶことを考え付けなかった。
だけれど本当は。
本当は、俺様は俺様の永遠に永遠を返したかった。
「俺はあなたと共に在れる。永遠に、世界が終わるまで」
「世界を作ったのは余なのにか?」
可笑しそうに彼女は笑った。確かに可笑しなことを言っているなと思ったら、自然と俺様も笑っていた。
「お前は世界を愛せるか」
「あなたを愛することはできる」
「ではそれは世界を愛すると同義だ」
そう言って、彼女はゆっくりと俺の手をほどき、玉座から立ち上がり、そして俺と差し向った。
「ベルゼビュートよ、良い王であれ」
「それは…どういう意味だ?」
「お前が世界を愛し、良い王である限り、余は在り続けることが出来る」
*
これが思い上がりではないと余に言うことはできない。
思い上がりのような気がしている。
だけれどベルゼビュートは何も言わなかったから、思い上がりではないのかもしれない。
「知っていたか、ベルゼビュートよ。お前が世界に在り続ければ、余は悪の根源として存在することができる。余を必要とする者のために余はあるのだから」
だからこの言葉が思い上がりではないことを、余は祈っている。
「お前は種子、お前は余の世界の永遠」
これが真実であることを、余は、深く、静かに祈っている。
「世界からすべてが消えても、お前は余と共にあると言った。だから」
祈る?誰に?余は祈りを聞き届ける者なのに。
では、自分自身に祈ろう。
「だから、お前は余の命、余の永遠だ」
それが真実であることを、私は私自身に祈ろう。
*
いつか、彼女には聞こえないところで彼女を表したのと同じ言葉が紡がれて、俺様は言葉を失っていた。
あまりにも永い時を生きてきたから。
あまりにもたくさんのことを見てきたから。
あまりにも多くのものを創ってきたから。
だからもう、その世界を愛することしかできないから。
「愛している、何よりも」
口づけた女神は、永遠の姿をしていた。
2017/09/05 BGM「記号として」