mortal


「まぶしい」

 出てきたのはそんな単純な感想だった。夜だというのに、まぶしい。それが、ベルゼビュートに誘われて現世の夜の街に繰り出したアンリの最初の感想だった。
 停戦、左門と天使ヶ原の裁判、たくさんのことがあって、そのたくさんのことの中の最初には、ベルゼビュートからの求婚も含まれているのだが、二人は今のところ前のように喧嘩に似た戦いはしないが、街に出かける、デートと言うには少しばかりぎこちない関係になっている。

「天使ヶ原が言っていたが、本当にすごいな」
「ああ」

 ベルゼビュートは短く言って、自販機から取り出した温かいココアをポイっとアンリに投げる。味を楽しむというよりは、街を歩くカイロ代わりだった。
 冬、12月。現世の町は電飾で彩られていた。クリスマス、大晦日、新年、全部をまぜこぜにしたような独特の空気は、やってきた現世が左門と天使ヶ原も住んでいた日本だからだろう。

「どう思う」

 直截な問いに、アンリは振り返る。ブラックコーヒーを開けるでもなく、手の中でやはり暖を取るようにもてあそぶ男の言葉の意味は、すぐに知れた。

「ああ、お前の気持ちも分からないでもない」

 そう返して、やはりアンリも開けていないココアの缶を手袋をはめた手の中で握りしめながら言った。

「世界は変わった。余はどこに行こうとしているのだろうな」





 発端は、アンリが地獄に来ていた時に玉座まで遊びに来た天使ヶ原が「この時期ならイルミネーションデートとか!」とアンリとベルゼビュートに提案したことだった。真っ赤になったアンリに比して、ベルゼビュートは何か考えるように天使ヶ原とアンリを交互に見つめた。

「冬」

 短くベルゼビュートは言った。それにアンリは振り返る。傍らで見ていた左門が何か言いたそうに、だけれど口を閉ざして、天使ヶ原の持っている雑誌をパっと取り、まるで無関係と言うようにそれをぱらぱら眺めた。

「ああ、冬はこんなにも明るいのか」

 そうか、とそう言ってアンリは押し黙る。左門は天使ヶ原から取ったその雑誌のその明るいイルミネーション特集をぱらぱらとめくる。

「天使ヶ原さんってさあ、たまにすごいよね」
「ほめてないでしょ、分かるぞコンチクショー」

 左門の皮肉とくぎを刺す両方が混ざったそれに応じた天使ヶ原に、違うのだとアンリは笑って見せる。

「いや、行ってみよう。久々に現世に行きたくなった」

 透き通るような笑顔に、左門は諦めを、天使ヶ原は疑問を、そしてベルゼビュートは小さな痛みを覚えた。





「寒い、冷たい、すべてが息絶える。そんな冬がここにないことを、余はどう思えばいいと思う?」
「それがアンタの目指すものだとして、それがここにないとして、アンタは何を思う」
「どうだろう。あまりにお前たちになじみすぎたからか、やり直そうと思えないのだ。では余の世界は失敗だろうと思う心もある。同時に、何が正解なのかほんとうは分からない」

 冬。彼女の統べる世界がこんなにも光り輝いていることを、彼女はどう思うだろうと思った。正解が分からないと言われて、自分は狼狽しているのだとベルゼビュートは俯瞰するように思う。
 彼女にも分からない世界、人、生活。
 では彼女はこの世界をやり直すだろうか。すべてが悪に、冬に、黒に、闇に還るまで戦うことを辞めないこの女神は、どこに行くのだろうと思った。思ったから、彼女がここに来たいと言った時、疼くようなのようなヒリヒリした痛みを感じた。

「ああ、もうこの世界は余を必要としていないと知っていた」

 はあと彼女の吐いた息が白くなる。

「悪を、死を、闇を、人は超えていった。だがそれが正解か、わたしには分からない。それがスプタン・マユの目指す世界だとも思えない。分かるか?人にはもう神が要らないのだ」


 ああ、なんてひどい筋書きだろう!
 神の創った世界は、神の作為によって生み出された人間によって超克され、人間は神を必要としなくなった。
 動かない天蓋はなく、この惑星が太陽の周りを回っていることを証明した誰かを糾弾する者はもういない。


「アンタは、要らないと言われてどう思う」

 それでも、その傷を開こうとするのはなぜだろうとベルゼビュートはふと思う。その傷口を開けて、その現実を突きつけた時、例えば彼女が人間を捨てることでも望んでいるのだろうか、と。

「お前はずっとこれと向き合ってきたのだな、バアルよ」
「……古い名だ」
「人が神を、天の使いを要らないと言っても、それでも地獄を保ち続けたお前に、私は敬意を抱く。そして私は、神を必要としなくなったこの世界を言祝ごう」

 バアルと呼ばれた昔に、神は地上から追われた。科学、文明、哲学、様々な文化をヒトは生み出し、神は空想の何かになった。だけれど、それでも地獄と天を分けて人々を見守ったことに、彼女は敬意を表した。それが欲しかったわけではない、と叫びだしたい感情をベルゼビュートはこらえて彼女の言葉の続きを待った。

「この世界は余も、スプタン・マユも失敗した世界なのだろう。だけれどわたしはこれを言祝ぐ。人はこうして生きていく。その営みを私は天から、あるいは地下深くから見守ろう。祝おう。それがもはや余の手を離れた世界であることを知っているから」

 そう言って、アンリはココアの缶をダッフルコートのポケットに入れると、手袋をはずした。そして、そっとベルゼビュートの頬に触れる。

「そう、それがどんなにつらいことであっても」


 そうして伸び上がるように指で彼の頬を伝うしずくを掬うアンリに、彼は、ああ自分は泣いているのだ、と思った。
 永い永い歳月。
 彼女が何度も世界を造り直し、自らの名がまだベルゼビュートではなかったころから続く、一つの神話が終わろうとしている。


「貴女は、この世界を生きるのか」
「いいや、いつか造り変えるだろう」
「では今やってしまえばいい」
「青二才め。わたしたちの闘争に、お前が涙する理由などないさ」

 ぽたぽたとおちるしずくが彼女の指を濡らした。その手をベルゼビュートは静かに取る。

「人のために生きたのはお前の方が長いだろう」

 そう言った彼女が、何度終わりを夢想したら、彼女は終われるのだろうと思いながら、ベルゼビュートはその華奢な、しかし世界を握る指に口づけた。

「できるならば貴女に祝福を」

 そう言って、口づけたそこに銀色の環を嵌める。

「幸いを。貴女の望みではないのかもしれないが、俺は幸いを貴女に」

 きらきらしく輝く冬の夜空の下で、自らの指にかけられた環に、アンリは小さく笑んだ。

「では、この環が朽ちる時に余はまた世界を造ろう」

 そう言って、彼女は息を一つ吸って言った。

「では、あなたさえ私を忘れたころに、わたしはわたしの世界を造ろう」

 長く永い日々は、あるいは自分さえ忘れさせるのだろうか、とベルゼビュートは思う。それまでは、少なくともそれまでは。

「貴女の代わりに悲しもう、それまでは。たとえそれが死すべき定めを負うものだとしても」

 その言葉に、それが擦り切れるまでの永い永い約束をするための銀の環を見て、彼女は静かにそれに唇を寄せた。




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死の定め、不死の定め
mortal,immortal


2019/12/12