南泉斬猫


 天蓋付きの、ベッドというのもおこがましい、キングサイズなどとっくに通り越した大きさの寝台の上で、アンリは正座して必死に今の状況について頭の中の思考回路をフル稼働させていた。

「ドレスも、し、下着も、天使ヶ原と女子神様に選んでもらったのだ、大丈夫だ、大丈夫、だ」

 正座の姿勢のまま、少し動いても、その寝台はピクリともしない。少し物音がした方が気が休まるのに、とアンリは思う。

『風呂、先入れ』

 そう言われたのは何分前だろう。すぐに上がって、そうしたら部屋についているその浴室に何でもないことのようにベルゼビュートが入り、それから一時間も経っていない。湯船になど浸かれるはずもなく、湯浴み程度で済ませて、それでもこれまた地獄のどこで売っているのか少なくともアンリは知らない雑誌から天使ヶ原が選んだ「サラサラ!今年のシャンプーはこの香り!」というなんとも言えないランキングでからいくつか試して、アンリの髪に一番合うものを選んだそれを使った。普段、自身の宮殿で使っているものは確かに上質な香油も入っているが、こう、いかにも女らしい香り、というのがどんなものなのか、悩んだ結果だった。ちなみに言えば、天使ヶ原だってドレスや下着、そしてシャンプーまでもがこの日のためだ、などとは知らない。下着の時点で察しがつくかもしれないが、それも「デートで勝負下着なんてアンリさん可愛い!」と言われたから、やはりこの状況については知る由もないだろうし、そもそも知られたら羞恥で倒れる自信がアンリにはあった。……まあ、アンリにとっての「女子神様」はすべてお見通しのようだったが。

「オイ、何ぶつぶつ言ってる」

 ババア、と続けてベルゼビュートが寝台の、彼女が正座する横に手をつく。見下ろす形のその髪からぽたっとしずくが落ちて、それから寝台がギシリと音を立てた。
 その音に、アンリは自分と彼の体格差を知る。なんだ、音が出るではないか、と思ったが、その事実がさらに彼女の羞恥に追い打ちをかけた。

「べッ…別に何でも、ない」

 ベルゼビュート、と言うか、別にと言うか一瞬迷った末に、出てきたのは「別に」というなんとも愛想のない一言で、それがアンリの羞恥と、それから場数の少なさ、というかゼロのそれに彼が幻滅したらどうしようという不安とを余計に増幅させた。

「つーかドレスでその座り方はねーだろ。なんだ、東洋のあれか?」
「う、う、うるさい!余にもいろいろあるのだ!」

 そう叫ぶように言って、ばっと見下ろしてくるベルビュートから顔を背ける。そうしたら、その横顔を覆うような長い髪を一房すくって、彼はそれに口づけた。

「へぇ、俺様の姫君の悩みには興味あるな」

 口づけたまま言われたそれは、耳元で言われているような距離感だ。

「どんな悩みか言ってみろよ」

 それにアンリは、黒髪の間から見える耳まで真っ赤にして固まった。
 なんて意地の悪い!と心中叫びだしながら。

 だって今日は、ベルゼビュートとアンリ・マユの二人にとって、初めて迎える特別な夜だったから。





 アンリとベルゼビュートが婚姻関係を結んだのは、彼が左門と天使ヶ原の前でプロポーズをして、それからその二人が地獄に落ちることになった数年後のことである。結果的に、押し切られる形だ、と、少なくともアンリは思っているが、その婚姻に含むところがないのは分かっていたから、それでよかったと思っている。
 だが、一つ問題があった。
 問題、というほどのものでもないが、アンリは自分のことをぼっちだのなんだのと言っているが、本来、アンリ・マユという神自体、自分自身で創世と破壊を繰り返す存在、面倒な理論をこね回さずとも、要するにほとんどすべての権能が一人で事足りるのだ。
 つまるところ、アンリにセックスなどという経験はない。経験どころか概念がない。
 そのような状態で迎えた初夜を、ではどうすれば乗り越えられるのか、というのが彼女にとっての目下の課題だった。






「だーかーらー!お前のようにハーレムで女を侍らせて、好きな時に、好きなように、その、そ、そういうことをしていたやつとは違うのだ!」
「うるせーな、ハーレムなんざお前が嫁に来た時点で解散したっつってんだろ!」
「そういう問題ではない!!」

 正座で悶々としていたところに、浴室から出てきたベルゼビュートが彼女をからかってから五分ほど。最初のベルゼビュートが作ろうとしたそれらしき雰囲気もアンリの勢いでかき消され、二人はこのような言い合いを続けていた。

「うわっ」
「色気のねー声!」

 だが、先にしびれを切らしたのはベルゼビュートだ。アンリの体に腕を回して、正座の体勢から器用に彼女をベッドに押し倒す。

「な、やめっ」
「別にマグロやってりゃいーだろ。わかんねーんだから」
「馬鹿にするな!!」
「馬鹿にしてるんじゃねーよ」

 そう言って彼は彼女の額に口づける。

「ただちょっと今のは後悔してる」
「は?」
「一瞬で後悔した」

 そう言って、彼は押し倒した彼女に覆いかぶさるようにして、アンリを抱きしめた。

「秒単位で後悔できるとか、焼きが回ったな。言っとくけど、俺様が分かるから教えてやるってのでお前以外でどうのこうの考えんなよ」

 アンリはそれで、今まさに自分が考えていたどうにも重たい感情を察知して拾ったベルゼビュートに、思わず目元を腕で覆った。

「なんだよ、気にすんなって言ってんだろ」
「そういうところが!」

 そう言いながら、自分はなんて余裕がないんだろうとアンリは思う。
 自分と違って彼には経験があって、それは自分以外の誰かとの経験で、だからそれに少しだけ「嫉妬」したのだ。それは痛みではなくて、嫉妬という歴とした感情だった。だから始末に負えない。例えばそれで傷ついて痛みを感じたりしたのなら、感傷的な気分にも慣なれただろうが、それは本当に、誰に対するものかも分からない嫉妬だった。
 自分の中のこの醜いとさえ思える感情を拾った男と目を合わせるのが、だから怖かった。

「今すごく嫌な顔をしている。見るな」
「なんでここで落ち込むかね、この女神サマは」

 呆れたようにも聞こえるそれに、泣き出したい気分になったアンリに、しかしベルゼビュートはその目元を覆う腕をそっと外して、優しく頭を撫でた。

「ふうん。いい香りじゃねーか。いつもの香油も好きだが、準備したんだろ?」
「っ!」
「やっぱり惚れた相手が自分になにか準備してくれんのは嬉しいもんだぜ」


 それだけで十分、と続けたベルゼビュートに、アンリは真っ赤になってベルゼビュートを見上げる。

「あの、な」
「ああ」
「分からないから、優しくして」

 珍しく砕けた口調で言ったアンリに、彼は優美に微笑んだ。





「んっ、はっ」
「息吐け。大丈夫だから」
「無、理だ」

 クチと卑猥な音を立てる指が胎内でうごめくのに、アンリはその感覚を上手く受け入れられずに息を詰めていた。

「無理ならじゃあ」

 そう言ってベルゼビュートは彼女に口づける。

「ふっあ」

 舌を差し込まれて、口を開かされて、それで自然と呼吸しなければならない深い口づけをしながら、それでもベルゼビュートは緩慢な指の動き止めない。

「ん、あっ、そこ、だめ、だ」
「何が?」

 そう口づけを辞めて問うが、聞くまでもないことなのは分かっていた。

「ここがいいのな」

 内壁をぐいと押されると、アンリの体が跳ねる。

「も、やだ、やめろ」
「感じてるくせに」

 だからやめろと言いたいのに、それが言葉になるよりも先に中に入ってくる質量が増えた。指を増やされて、抵抗よりも先にその快楽にアンリは身悶えた。

「も、だめ」

 その大きすぎる刺激に、アンリは色気のある喘ぎと言うよりは、嘆息のように大きく息をつく。

「疲れたか?」
「もう分からん」

 そう言ってアンリは指を止めたベルゼビュートにしがみつくように抱き着いた。
 その行動に、そうされた彼の方は理性が飛びそうになるが、じっとこらえる。ここで食ってしまえばただの獣と言うか、ケダモノだ。


 だけれど。


「もう分からんから、もう本当に好きにしろ」


 涙目で、疲れと羞恥と、それから快楽に濡れた視線で言われたなら、それはもう据え膳食わぬは何とやら、というやつだった。





「無理、痛い、無理」
「好きにしろって言ったのそっちだからな」

 言質を取ったとでも言うように挿入したそれに、しかしそれでも彼は汗でへばりついた前髪をどけて、あやすように額に口づける。

「おとなしくしとけ」
「この悪魔!うぁ…!」
「知ってる」

 アンリの罵倒もどこ吹く風というように、彼は腰をぐっと押し込む。それに呼吸が苦しいような、全身が痛いような感覚を覚えながら、だけれどかすかに感じる、先ほど指で執拗になぶられた時のような疲労にも似た感覚を、アンリはぼんやり拾っていた。

「やっ、だめ、だ。おかしくなる」
「おかしくなっちまえよ」

 猟奇的に笑ったベルゼビュートは、彼女が先ほど反応を示したそこに挿入したそれをぶつける。それにアンリはか細い声を上げた。

「だめ」

 その懇願は淫靡な喘ぎ声よりもベルゼビュートを煽った。
 そうして、そう駄目だと泣き出しそうな声で言った彼女に締め付けられて、彼もスローテンポなそれも終わりだと覚る。

「悪いな」
「は?」

 そう疑問を口に出した後に、どくどくと熱い液体が注がれる感覚に、アンリは気が遠くなるような思いをして、そうして本当に意識を手放した。





 次にアンリが目を覚ますと、そこは相変わらず大きすぎるベッドの上で、天蓋が目に入った。昨日のように圧し掛かる男の顔は見えない。
 体は綺麗に清められていて、それから着替えもさせられていたが、どうにも全身が痛いような怠いような感覚があって、指を動かすのもおっくうだった。

「みず」

 昨日のことを思い出すよりも先に、喉の渇きを覚えて、自然と出てきた声がかすれていることで、アンリは昨日あった出来事を明瞭に思い出した。

「うぁ…!」

 それで飛び起きたいが、もう指一本だって動かせないほど全身が痛いのだ、と、その原因を含めて思い至る。
 そうしたら、天蓋以外の影が覆いかぶさった。

「水、だろ」

 それはその原因の男だった。ベッドサイドの水差しから、瀟洒なゴブレットに水を注いで、それから彼女の背中に丁寧に腕を差し込んで上半身を起き上がらせる。
 もう状況把握も何もあったものではないが、とにかく喉がカラカラで、痛いほどだったのは間違いがなくて、だからアンリは口元に運ばれたそれを飲み干す。

「悪かったな、がっついて」

 不意に彼に言われてアンリの顔は真っ赤になる。

「今は言うな」
「今じゃなきゃいいのか、プリンセス?」

 気障ったらしいセリフを言ったベルゼビュートに、アンリは声にならない悲鳴を上げる。
 これからこの男とこうして生きていくなんて、と。


 嫌な訳ではない。
 ただ、それを口にするのが怖いほどに、満たされているから。


 奈落の底に引きずられるようだ、と思いながら、彼女は彼の腕をほどいてベッドに倒れこむ。

「奥方様はご機嫌斜めか?」
「知らん」

 ばかばかとつぶやいて、それから、アンリはその広すぎる寝台に彼がいることを感じながら、もうひと眠りしようと思った。




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やっと書けたベルアン初夜。
タイトルはなんとなく無為な喧嘩っぽい初めてになりそうな二人だなあと思いフィーリングで。

BGM「リバーサイド・ラヴァーズ」とか聞いてました。

2020/02/12