ニル・アドミラリ


ニヒル・アドミラリ、もしくは、ニル・アドミラリの起源


{マルクス・トゥッリウス・キケロは、真の知性は、起こり得るあらゆる出来事に備えができている、ということであり、何があっても驚かされないことであるとして、アナクサゴラスの例を挙げている。アナクサゴラスは、息子の死を知らされて、「私に授かったものが死すべきものであることは知っていた (Sciebam me genuisse mortalem)」と応えたとされる。(Wikipediaより引用)}


 異端審問の尋問官は呆然とジャンヌを見つめていた。
 その瞳を、彼女は何事もないことのように見つめ返した。
 「神の恩寵を受けていたと認識していたか」。これはひどく悪意に満ちた罠の張り巡らされた質問だった。肯定しても否定しても彼女を魔女にできる。そう思って問いかけた問いへの答えは整然と、そして平然と行われた。もちろん、肯定でも否定でもなければ、彼女を魔女にできるはずもない、完璧な理路で。
 しかし、その言葉はまた、彼女の完全性を示し、彼女への異端と恐怖を駆り立てた。そうして、できるはずもない異端の烙印はその聖女に下された。そのすべてを、マステマはひどく退屈そうに眺めていた。





 石牢の中でも、彼女は祈りを欠かさなかった。主と、その御子と、そして、彼女の天使への祈りを、欠かすことはなかった。

「君は乗り越えようとしている。主の御名のもと、国を救った。しかしそれを裁こうとする者がいる。それを君は乗り越えるんだ」

 さあ、とマステマはその日彼女のささげる祈りにこたえて手を伸べた。その手を、しかしジャンヌは取らなかった。その日のそのあとに、彼女は刑場に引き立てられるところだった。
 その直前、彼女が祈ったのはマステマだった。マステマ、とは名乗ったことがない。大天使に祈ったのだ。
 ただ静かに、無言で祈ったジャンヌの手の中のロザリオを、そうして彼女自身を、マステマはひどくいとおしく思った。最期の時に祈る相手が自分であることに満たされた。だから、彼女がその手を取らなかったことが少しだけ不満だった。だけれどそんなことはどうだってよかった。この試練を乗り越えるものが現れたのだ、という感動が、悪意という名を持ち、試練を与え、すべての聖なるものを天に昇らせる使命を帯びた彼を満たしていた。

「嘆きなさい」

 不意に、ジャンヌの紅い唇が言葉を紡いだ。

「いいえ、祈りなさい」

 言葉の意味が分からずにマステマはいつもの張り付けたような微笑のまま、彼女を見つめ、首を傾げた。

「なんだい?急に」

 ふと問えば、彼女はとてもきれいに微笑した。

「私が神の恩寵を受けていたか。きっと受けていたからあなたが来たのでしょう。私はそれを知っていた。だけれど、私は神の恩寵をきっと受けていなかったのでしょう。だからあなたが来たのでしょう。どちらでも、私は驚かない」

 言葉に、張り付けたような笑みの下で冷たい刃が首元に当てられたのをマステマは感じていた。

「どういう、意味?」
「あなたは天使ではない」

 はっきりとした声音は、その冷たい刃をマステマの首元に突き立てた。

「そうしてあなたはきっと天使なのでしょう。だから私は国を救い、国を追われ、そうして火刑に処される。そうでしょう、マステマ?」

 本当の名前を呼ばれて、彼は何を言えばいいのか分からなかった。

「祈りなさい。嘆きなさい。
 私はあなたのために祈ります。私の大天使様。
 私はあなたのために嘆きます。私のマステマ」


 さようなら、と彼女の唇が酷薄な言葉を紡いだ時、彼女を刑場に引き立てる者の足音がした。





 彼女は動じなかったのだ、とマステマは一人思惟した。
 天使に魅入られたことも、その天使が悪魔だったことも、そうして、その悪魔によって列聖されることも。

「ははっ!」

 狂ったような気持ちで、吐き出すように笑った。
 狂っていく。動じないなんて、驚かないなんて、それでは自分の存在価値はどこにある?


 神の試練に動じないなら、自分の姿を隠す必要なんてない。
 神の試練に驚かないなら、自分は初めからすべてを奪えばいい。


 すべての聖人が沈黙する。
 すべての聖人が喝采する。


 初めから、道化は彼一人なのだから。





「君は聖女だ、天使ヶ原桜」

 知っている。彼女は動じて、驚いて、抵抗する。
 だから彼女は聖女ではないと。

 すべての聖人が黙殺する。
 すべての聖人が糾弾する。


 すべての、‘彼女‘が、彼を見る。


 天使ヶ原桜は聖女ではない。
 だけれど、マステマはひどく安堵していた。
 ジャンヌと同じ香りをしながら、ジャンヌとは違い、必死に悪魔に抵抗する。
 そう、もう自らが天使だと偽ることも、悪魔であることを隠す必要もないと彼は知っていた。

 すべての彼女が彼を見つめる。
 彼女の数多の双眸が、彼を見つめる。


 天使あくまの言葉を聞いて、恐怖し、抵抗し、戦い、そうして勝利した天使ヶ原桜という聖女は


 無様だ、健気だ。
 浅慮だ、賢明だ。
 醜い、美しい。


 そうして


「君はジャンヌじゃない」

 つぶやいた言葉は、彼女がいた底よりもずっと昏く冷たい牢に、静かに響いた。




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青銅の蛇の対になる感じで。マステマとジャンヌと天使ヶ原さんについて。
「記号として」「アメノヒニキク」とか。

2019/07/10