ノリ・メ・タンゲレ


「地獄ってあれだろうか、箱根湯本的な」
「絶対違うと思うから期待しない方がいいよ」

 収監されるわけじゃないけど、と付け足された左門の言葉に天使ヶ原は彼を振り返る。

「え、マステマさん的な感じになるもんだと思ってたよ!?こんな感じで負けるなら人生棒に振ったな、早まったかなって思ってたよ!?でも収監されるわけじゃないんだ?」
「そりゃあね。僕だってこれでも召喚士なだけでただの人間だから。地獄に堕ちるだけだよ。況や君なんか超ノーマル一般人じゃない」

 悪魔誑かしすぎてて十分地獄行きだけどさ、と付け足される。先ほどから、必要なことを言っては誤魔化すように言葉を付け足すばかりの彼は、いつもの、いや、6年前の饒舌な彼はからは想像もつかないなと彼女は思う。だから天使ヶ原は左門の口数の少なさを補うように続けた。

「和風な地獄で言えばやっぱり箱根だよね。あと別府温泉」
「なんなのなんで温泉なの」
「いやあ、大学の時サークルで」
「リア充爆ぜろ!!!」
「最後まで言わせろ!!」

 二人の喧騒を他所に、重い扉が開く音がする。これが地獄の第八圏あたりだろうか、と左門はそれを無感動な視線で見遣った。ずいぶん二人で歩いてきたなと思う。この場所に誰もいないのがいかにも「地獄」だ。阿鼻叫喚の巷ではなく、完全に個々人にカスタマイズされた、地獄。堕落の地獄が西洋風だと思っていたが、だいぶ日本風だなと口に出さずに左門は思っていた。
 三人の王に敗れて、それから。ネビロスに「あとはまっすぐ歩け!一本道だから迷うなよ!」とほとんど親のようなことを言われたのが可笑しい、と天使ヶ原は思っていた。地獄めぐりですねと言ったらものすごくげんなりされたが。

「いやあ、個々人にカスタマイズされた地獄ってベルゼビュートさんが言ってたけど、よく分かんないね」
「そう?僕的にはわりと地獄だけど」
「なんで!?ピクニック感半端ないよ!?あんまり暗くないし」
「君ってやっぱり天使ヶ原さんだね」

 その言葉に、天使ヶ原はん?と返す。意味がよく分からなかった。

「あ、でもここまで歩いてもお腹すかないあたりが生の実感を奪うね!」
「楽しそうだね」

 ふと立ち止まって饒舌な天使ヶ原を左門は振り返った。長く伸びた髪が風にさらわれて、初めてそこに風が吹いていると彼も彼女も思った。
 それくらいには、あらゆる実感が遠のいていて、だから左門は彼女の饒舌の訳を知る。

「怖い?」
「……怖いね」
「そこはさ、左門くんと一緒なら怖くないよとか言えないの偽善者らしくさあ」
「ぶっ飛ばすぞ」

 ああ!本当に地獄だ!と彼は叫び出したい衝動を抑えるので精いっぱいだった。
 無感動な視線も、いつになく無口なそれも、少しでも感情の発露が顕れれば、今自分の中にある恐怖と嫌悪が綯い交ぜになった感情が飛び出してしまいそうなそれを押し殺すためにすぎなかった。
 一緒に地獄に堕ちるだと?と、この長い地獄への道を歩きながら思う。
 自分一人が負けて、自分一人が行くならなんてことない道が、彼女とともに下る道だと思うとそれだけで一足一足が鉄球を付けられたように重かった。

「ねえ、怖いなら君はもう」
「無理だよ」

 言葉の途中ではっきりと告げられる。

「うん、無理。私も地獄の支配層に喧嘩を売っちゃったんだよ」
「違うだろ。勝手に着いてきただけだろ」
「じゃあ地獄までついてくよ」

 ね、と微笑んだ彼女に、ああ本当にこれは地獄だと左門は思う。
 彼女には家族がいて、友人がいて、生活があった。
 彼女はただの人間だった。
 高校時代に少しだけ悪魔と仲良くなって、自分と仲良くなったただの人間の、これから先、永遠を奪ってしまう。そのすべてを擲たせてしまう。
 ああこれは本当に地獄だ。
 輪廻転生もなく、永遠に地獄を歩き続ける。この自分と。
 何もない、誰もいない、明るくもなければ暗くもないこの道を。

 ああ本当にこれは地獄だ。

 彼の中に彼女への懺悔が満ちるのならば、彼女にの中に満ちるのは恐怖だろう。
 朝も、昼も、夜もない。
 あらゆる実感は失われていく。
 だけれどその中で、後悔だけが渦巻き続けるのを彼は予感していた。

 地獄だ。

 紛れもない地獄。

「もしかして天使ヶ原さんはこのために僕に近づいたの」
「なんのことか知らないけどんなわけあるか!!」
 私はただの一般人だよ、と続けた天使ヶ原はその扉に向かって歩いていく。一歩先を行く彼女の背中を左門は亡羊と眺めていた。

「でもまああれだよ。刺激的な毎日なんて言わないけど、左門くんと一緒にいるよ」
「刺激的すぎるよ、もう地上には戻れない」
「でもネビロスさんがたまにはコーヒー飲みに来ていいって」
「第一圏まで歩いて帰れってか」
「そういうことじゃないかな」

 ぽてぽてと第八圏の扉に近づき、その重い扉をぼんぼんと天使ヶ原は叩いた。

「何回見ても思うけど予算すげえ掛けてそうだね!」
「そこ?」
「だってアンリさんとの結納の予算がどうこうって中将Pが」
「はあ!?」

 叫んだ左門が駆け寄ってきて、天使ヶ原はそれに驚いたように目を見開いた。

「あれ?聞いてなかった?左門くんが戦ってる間私暇で」
「ていうかアンリは了承したの?」
「サプライズらしいけど」
「ベルゼビュートブレないな…」

 はあと大きくため息をついた左門に、天使ヶ原は笑いかける。
「ね、左門くん」
「なに」
「私、中将Pから結婚式の余興頼まれてるんだよね。地獄にいるなら頼みますよって」
「君わりと余裕だったんだね、僕があんなに大変な思いをしている時に」

 嫌味のごとく言われたそれに、天使ヶ原はやっぱり笑っている。

「だから私は大丈夫だよ」
「誰も勝手に着いてきた君の心配なんてしてない」
「そっかー」

 笑いながら天使ヶ原はそう返して、それから左門を振り返った。地獄の底へと続く道へと踏み出す前に、彼女は彼を振り返った。

「そういう訳で、コーヒーとかアイドル業とか、地獄でも暇じゃないわけですが」
「……うん」
「そんな忙しい私は今からすっごい嘘をつくよ」
「ああ」

 左門が肯いたのを確認して、天使ヶ原は彼から顔を背けた。彼の視線を真っ直ぐとらえてこの「嘘」をつくことは出来そうもなかった。

「地上に残してきた家族めっちゃ心配だし、まだやりたいこと山ほどあったし、ていうか諸々の行政手続きとかやりそびれたから超心残りだし、そもそも地獄に堕ちるとか嫌だよ普通に!」
「……ああ」
「でもね」

 振り返ったその女性の顔を、あるいは永遠に手にすることになった自分を、彼は静かに思惟した。
 そうして彼女の言葉を待った。
「これが私の選んだ地獄なんだよ」

 ああ、どれが嘘だというのだろう。
 ああ、どれが真実だというのだろう。

「君の選んだ地獄?自惚れないでほしいな。君みたいな悪い女は地獄に堕ちるのさ」

 だから、彼もひとつ嘘をつく。

「君みたいな偽善者の悪い女は僕が地獄に堕としたんだよ」
「嘘をつくと舌を抜かれるんだよね」

 それはどちらの言葉?




2017/6/6