「冬、雪、寒さ、病」

 余はその地上のさまを見ながらゆっくりと玉座に背もたれた。今日に限って普段の部屋ではなく、余に誂えられた玉座からその下界を睥睨する自分が妙に可笑しかった。

「スプタン・マユよ、これが余の世界だ」

 凍てつくそれが、すべての音を奪い、静かに、音もなく雪は降り積もる。

「私は正しい」

 そう、私たちは互いの正しさを証明しようとし続けてきたのだから。


Pneuma


「余の世界は完全でなければならなかった」
「……」

 アンリ・マユの言葉に、俺は何を言っていいのか分からずに、目の前で葡萄酒を呷る彼女を見ていた。

「余は、あるいはスプタン・マユは、その世界が完全であることを大いなる天蓋に示さなければならなかった」 「ああ」

 短く肯定して、それから俺も酒杯を呷る。

「スプタン・マユは善によって、春によって、夏によって、ぬくもりによって世界を良しとした。だが余は、そうは思えなかった」

 夜を、悪を統べる女王はそう言って、笑った。

「人は、寒さを知らねば、降り込める雪を知らねば、苦痛を知らねば、神を忘れる。いともたやすく。余にはそれが我慢ならなかった。まるでそこにあるぬくもりや優しさが当たり前に、原初から与えられたものだとヒトは錯覚する」
「お前は、スプタン・マユさえ」

 だからその言葉に、俺は一つの答えにたどり着く。この女神は、自身の半身のような存在さえ、救い上げようとしたのだ、と。

「そうだ。スプタン・マユの世界では、神はいらない。きっと神は棄てられると余は確信していた」
「あなたは」

 言葉は続かなかった。善なる世界を目指しても、その善なる世界では、その「善」が当たり前になってしまう。ヒトはそれを当たり前に思った時に、当たり前のように神を忘れる。

「余は古い神だ。スプタン・マユもまた同じだ。我らは忘れられ、葬られ、だけれど冬は来て、春に巡る」
「ヒトはそれを忘れてしまう」

 俺の言葉に、彼女は薄っすらと笑みを刷いた。

「神の息吹を彼らは忘れ、ヒトがすべてを見据えられると思うだろう。だけれど、ではなぜこの世に春があり、冬がある?太陽があり、月がある?答えられなくてもいいのだ」

 ヒトは。と彼女は続けた。

「余は、私たちは、生命の、あるいは大地の息吹でしかなく、それをヒトは忘れるだろう。忘れてもいい。だけれど」
「だけれどあなたは救いたかった」

 自身の対極にいる存在さえも。

「余はヒトが苦難の中で生きる意味を見出すことを期待していた。スプタン・マユはヒトが歓喜の中で生きる意味を見出すことを期待していた。それは結局同値なのだ」
「そうかも、しれない」

 苦難も、歓喜も、あるいはヒトは忘れてしまったのかもしれない。

「余の望む世界も、スプタン・マユの望む世界も、きっと成就しないだろう。ヒトは忘れる」

 すべての快楽も、苦痛も。と女神は続けた。

「俺は忘れない」
「ほう?」
「痛みも、苦しみも、あなたに出会えた喜びも」

 忘れられるはずがない。俺様は地獄の王。そうして、あなたを誰よりも愛する者だから。

「あなたに初めて会った日から、俺はずっとあなたを追っていた」
「諦めの悪い男だ」
「あなたの世界は美しい」

 白銀が世界を覆う。降り積もる結晶は静かに音を吸い取っていく。音のない世界、闇、その中で冴える月。すべてが完璧で、すべてが不完全な世界を、彼女は創り上げて、創り上げて、そうして壊して、何度でもその完成を目指している。
 あるいは、その対極にいる相手さえも、救おうと。

「俺はあなたの隣にいると約束する」
「それが破滅への道でも?」
「それは違う」

 俺はゆっくりとその女神を見つめた。

「あなたの世界は、あなたの息吹は、この世界にあまねくあるのだから」

 言葉に、女神は笑った。

「俺は、あなたの息吹の中で生きている」

 その息吹の中で、世界は廻り続けて墜ちていく。




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終わらない物語
2020/12/17

BGM  「蓮」(ゆう)「Follow Me」(伊藤君子)